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第3話 新しい世界

 魔王を討伐してから数ヶ月が過ぎた。

 平和を取り戻した王国では、かつて魔族に支配されようとしていた時代の混乱が少しずつ収まり、人々が手を取りあい助け合う光景があった。


 ローザとの結婚を決めると、アレックスは王から古びた屋敷を譲り受けた。

 長い間使われていなかったため荒れた様子だったが、アレックスはこの屋敷を綺麗にしてローザとイゾルデと三人で暮らすことに決めた。


 最初は慣れないことばかりだった。

 特に、日常の些細なことまで使用人に任せるのはなんだか気まずかった。


 しかし、日が経つにつれて次第に新しい生活にも慣れてきた。

 ローザは庭に花壇を作って草花を愛でたり、のんびりと日向ぼっこをしたりと、屋敷での生活を満喫しているようだ。


 イゾルデは宮廷魔法師として迎え入れられた。

 しかし、王国全体の魔法学の水準の低さに疑問を持ち、研究のかたわら、王国の学校で教師として未来を担う若者たちに魔法を教えていた。


 自然科学と理論魔法学の授業中。

 イゾルデは教室の黒板に、チョークで数行に渡る方程式を書き記して、授業を受けている数名の生徒に向かって言った。


「さて、この理論に基づきエネルギーを制御する方法を説明できるものはいるか」


 教室はシンと静まり返った。

 生徒たちの視線が教鞭を握るイゾルデに集まる。


「なんじゃ。おらぬのか」


 イゾルデが続けて口を開くと、生徒のひとりが不安げな表情を浮かべ、遠慮がちに手をあげた。


「先生……。その方程式なんですけど、間違っています」


 教室がざわめいた。

 他の生徒たちも教科書と黒板の内容を見比べていた。


 イゾルデはその指摘に対し目を細めると、一瞬だけ生徒に目を向け、すぐにまた黒板に目を戻した。そして、静かに答える。


「間違っておるのは教科書のほうじゃ」


 イゾルデの言葉に、教室内は再び緊張が走った。

 生徒たちは互いに顔を見合わせ、どうすべきか戸惑っている様子だった。


「でも……この教科書の著者、ミッシェル先生は、大魔法学者です。魔法学を志す者なら知らない人はいないくらいの……」


「その男なら一度会ったことがある」


 魔法学者ミッシェルの理論は王国中で広く受け入れられていた。

 しかし、まるで権威を真っ向から否定するかのようなイゾルデの発言に、あからさまに呆れたような表情を見せる生徒もいた。

 ただでさえ小難しく人気のなかった彼女の授業だったが、この発言を聞いてさらに数名の生徒が教室を出ていった。

 教室には、生徒が3人しか残っていなかった。


「先生の言うことが正しいなら、教科書の内容がほとんど間違いだってことになりますよ」


 もう一人の生徒が負けじと食いさがったが、イゾルデは全く動じなかった。


「だからそう言っておる。その教科書には誤りが多い。全体的に稚拙で雑。魔法学を志しているというのなら、鵜呑みにはせんほうがいい」


 一切の容赦がないイゾルデの言葉に、生徒たちはただただ困惑するだけだ。


「この教科書の著者が立場ある人間であろうと、わらわには関係ない。お前たちにも関係ないはずじゃ。われわれは真実の探求者であるべきであって、間違った理論を鵜呑みにすることに意味はない。著者はまだ未熟ゆえ本質に触れておらぬのじゃ」


 †


 この出来事はすぐに学校内で噂になり、最終的には教科書の著者である魔法学者ミッシェルの耳にも届いた。


「イゾルデとかいう魔女が、私の理論を否定しただと?」


 報告を受けると、彼は激怒した様子で机を叩き、すぐに手紙を書いてイゾルデの元へ使者を送った。彼女に対して何らかの制裁を加えるべきだと考え始めていた。


 イゾルデは冷ややかな目で届いた手紙を読んだ。

 彼女にとって、学者の怒りや反感に意味はなかった。王国の権威や権力に屈するつもりはなかったのだ。


「愚かな。学問を志す者にとって大切なのは真実だけだというのに」


 イゾルデはそうつぶやくと、使者から受け取った手紙を破り捨てた。


 †


 ある日、イゾルデがいつものように教室で授業をしていると、突然教室のドアが開かれた。

 立っていたのは、髪に白いものの混じった体格のいい男性だった。


「魔法学者のミッシェルと申します。これはこれはイゾルデ先生、あなたの授業は盛況なようですな」


 彼は教室内を見渡し、わずか2人しかいない生徒たちを見て軽く鼻で笑った。イゾルデはなんの感情も表さない表情で彼を見つめ返した。


「何か御用ですかな、ミッシェル先生」


「先日、あなたは公然とわたしの著書を批判したというではないですか。手紙を送っても無視されてしまい、困っていたので直接参上したのです」


「わらわは間違っていることを間違っていると言っただけじゃ」


「私の理論を否定するというならば、その真偽を証明してもらいたい」


 彼の声は教室中に響き渡り、生徒たちは驚きの表情を浮かべた。


「喧嘩だ! イゾルデ先生があのミッシェル先生と……!」


 生徒たちは興奮し、目を輝かせた。

 ミッシェルは生徒たちの反応にますます自信を深め、イゾルデを睨みつけた。


「あなたは勇者たちと旅に出て魔王の討伐に成功した英雄だ。その意味では、わたしも尊敬している。しかし、だからといって他人を侮辱していいことにはならない」


「そんなつもりはないのじゃが」


「聞くところによると、あなたが魔法を使っているところを見た者はいないそうじゃないですか。この教室の生徒たちに聞きたい。彼女が実際に魔法を使っているのを見た者がいれば手を挙げてほしい」


 生徒たちは首を横に振った。

 ミッシェルの言うとおり、イゾルデは生徒に自身の魔法を見せたことがない。

 イゾルデがため息をつきながら言う。


「ここは理論魔法学の教室じゃ。実践と理論の区別がつかぬわけではあるまい」


「おっしゃるとおりです。しかし、気にならんかね。イゾルデ先生の魔法の実力が一体どれほどのものなのか!」


 演技がかった調子でミッシェルが叫ぶと、「気になります!」と好奇心に目を輝かせて生徒が言う。イゾルデはなんだかその無垢な瞳を見て微笑ましい気持ちになった。


「魔法は見せびらかすものではないと、わらわは思っている」とイゾルデが目をつむって言う。「しかし、ここはせっかくご足労いただいたミッシェル先生の顔を立てようじゃないか。さて、わらわは一体どうすればいいのかな?」


「そうこなくては。シンプルに、昔ながらの方法でわたしと魔法の対決をするというのはいかがだろうか」


「勝ったほうが正しい、というやつじゃな。わかりやすくていい。しかし、負けたら恥をかくことになるがいいのかな?」


「望むところです。わたしも学問に身を捧げる者の端くれ。どちらがより正しいか決めましょう」


「よかろう」イゾルデはにっこりと笑って頷いた。


 イゾルデは心のなかで感心していた。

 眼の前の男はプライドを傷つけられ怒ってはいるものの、自らの権威にこだわらない子どものような目をしている。彼を見くびっていたかもしれない。


「魔法対決だ!」「決闘だ!」


 生徒が沸き立った。


 教室のドアが再び開いた。

 姿を現したのは校長だった。この一連の騒動を聞きつけて駆けつけたらしい。厳しい表情を浮かべながらも、興味深げにイゾルデと学者を見比べていた。


「イゾルデ先生、そして、あなたはミッシェル先生ですね。何やら面白い話になっているようですが」 


 校長の声が教室に響く。

 ミッシェルは校長の登場に少しばかり態度を引き締め、再びイゾルデに向き直った。


「校長先生、私はこの者に理論だけではなく、実力を示させたいのです。このイゾルデという魔女が、私の理論を公然と否定した以上、その力を示すのが道理ではないでしょうか」


 校長は口元に微笑を浮かべた。


「イゾルデ先生。私も一度、あなたの実力を見てみたいと思っていました。ここにいる生徒たちも、勇者御一行の魔法使いとしてのあなたの力を知りたがっているようですね」


 生徒たちは目を輝かせて頷いた。彼らにとって、授業の範囲を超えた実際の魔法の決闘を見ることは、滅多にない貴重な機会だったのだ。

 彼女の授業はいつも人気がなかったが、校長とともに野次馬のように現れた生徒たちは十数名にものぼっていた。


「わかったわかった」イゾルデはそう言うと、次はミッシェルの方に視線を向けた。「昔ながらの方法とはいうが、わらわには王国のならわしがわからぬ。説明してもらえるだろうか」


「わかりました」ミッシェルが、おほんとひとつ咳払いをする。「まず、攻撃側と防御側に分かれます。攻撃側は魔法で相手を攻撃する。防御側は、防御魔法を展開し、相手の魔法を防ぐ。そして次に、攻守を入れ替えます。以上が決闘のルールです」


 彼は自信満々に説明し、イゾルデに向かって挑戦的な目を向けた。校長もそのルールに異議を唱えることなく、静かにうなずいた。


「しかしそれでは、攻撃する側が有利ではないか?」


「おっしゃるとおりです」


 攻撃魔法には多様なバリエーションが存在する。攻撃側は、相手の防御手段を突破するために、攻撃の種類や手法を自由に選択することができる。

 これに対し、防御側はそれぞれの攻撃に対して適切な防御手段を迅速に選び出さなければならない。魔法の技術を広く深く理解した上で、柔軟に応用できる力が求められるのだ。


「であるからこそ、防御側はすべての攻撃を受けきることで相手との実力差を証明できるのです」


「ふむ……了解した」イゾルデが頷く。


「それでは今日は特別授業にしましょう。イゾルデ先生とミッシェル先生の決闘を行います。それでは先生方、生徒のみなさん、広場に案内しますよ」


 校長の声が教室に響くと、生徒たちは興奮した様子でざわめきはじめた。

 イゾルデとミッシェルは無言でお互いの存在を意識しながら校長の後ろをついていった。


 †


 決闘のために選ばれた広場には、すでに多くの生徒や教師たちが集まり、この稀に見るこの対決を見守ろうとしていた。イゾルデとミッシェルはそれぞれ広場の中央に立ち、周囲の視線を感じながら静かに杖を構えた。


 ミッシェルは、まず自らの防御魔法を展開し、自身の前方にきらめく光の結界を張り巡らせた。


「これが私の防御魔法です。勇者御一行の魔法使いの実力、見せてもらいましょうか。お手柔らかにお願いしますぞ!」


 彼は誇らしげに言い放った。

 生徒たちもその完成度の高い結界に感嘆の声を上げた。しかし、イゾルデは一瞥すると、興味を失ったようにため息をついた。


「なんじゃ。足元ががら空きではないか」


 彼女が軽く杖を振ると、ミッシェルの足元の地面がぼこっとわずかに隆起した。そのせいで彼はバランスを崩し、その場で見事に転んでしまった。

 尻もちをついたミッシェルの結界はその瞬間、解けてしまった。観衆からは笑い声が漏れた。


 イゾルデは冷ややかな目で彼を見下ろし、静かに言った。


「はい、わらわの勝ち! ミッシェル先生、少し運動不足じゃのう」


 イゾルデの言葉に、彼は顔を紅潮させて怒りをあらわにした。


「ひ、卑怯な! もう一度だ!」


 ミッシェルは再びイゾルデに向かって杖を構え、結界を展開した。

 イゾルデは今度は彼を宙に浮かせた。彼は突然自分の身体が浮きはじめたことに、驚きと恐怖で動揺したようすを見せた。


「な、何だこれは! 降ろせ! 降ろすんだ!」


 彼はすっかりパニック状態になり、再び結界を解除してしまった。彼の無様な姿に観衆はまたしても驚き、さらにイゾルデの魔法に対する敬意が深まった。


「浮遊魔法だ」「すげえ、はじめてみた」


 その場にいた生徒たちが感心した声をあげる。その場にいた校長も、ほう、と驚いたようすを見せた。

 浮遊魔法は高度な技術を必要とし、扱えるものはほとんどいない。


「何度やっても一緒じゃ」


 イゾルデは冷淡に言い放ち、ミッシェルをそっと地面に戻してあげた。しかし、プライドを傷つけられた彼の怒りは収まらなかった。


「もう一回だ! 今度こそ、ちゃんと勝負してください!」


「ここが戦場ならお前さんはもう2回死んでおる。魔王討伐の旅は、気を抜くとすぐに隣に死があるような危険に満ちたものだった」イゾルデは彼を睨みつけた。「ちょっと動揺したくらいで簡単に結界を解いてしまうお前さんの精神的な弱さが、未熟さを証明しておるのじゃよ」


 ミッシェルは再び結界を展開した。


「ふん! お前の腹のうちはわかっているぞ。正攻法ではわたしの結界を破ることができないと察して、卑怯な手に出ただけではないか!」


 イゾルデは軽くあくびをしながら、杖をかざし、エネルギーを一点に集中させた。杖の先端から発せられた青白いいかづちが彼の結界に直撃する。


「……え?」


 細く鋭い、まるで一本の線のようないかづちは彼の結界をやすやすと突き破った。

 そうして彼の顔のすぐ横をかすめ、その背後にある植木に直撃し粉々にした。その後、激しく炎上する。観衆からは悲鳴に近い驚きの声が上がり、ミッシェルは顔を真っ青にしてまた尻もちをついてしまった。


「やば。やりすぎた。大丈夫か?」


 そうしてイゾルデがミッシェルに対して手を差し伸べる。


「あ、ああ。すまない」彼はその手を取り、なんとか立ち上がることができた。


「今の魔法、かなりの低出力だった。エネルギーの損失が極端に少ないんだ」生徒の誰かが口にした。


「さて、次は攻守を変えるんじゃったかな。好きなように攻撃してきなさい」


 イゾルデは淡々とした声で言い放つ。

 しかし、戦意を喪失した学者は、力なく肩を落とした。


「いや、もういい……。イゾルデ先生、あなたの勝ちだ。素直に負けを認めよう」


 彼は悔しそうに呟いた。


「ミッシェル先生、あなたの結界もなかなかのもんでしたぞ。でも、まだあなたは成長できる余地があるようじゃ」


 イゾルデは最後に彼を称えた。

 広場に集まった者たちからは称賛の声が上がったが、彼女は気にすることなく静かにその場をあとにした。


 †


 その日から生徒たちのイゾルデの授業に対する関心は急速に高まった。

 決闘での圧倒的な勝利が彼らの心を捉えたのだ。

 これまでイゾルデの授業を避けていた生徒たちも彼女の元に集まりはじめた。彼女の授業はすぐに学校内で最も人気のある授業となり、教室は常に満員となった。


 そして意外なことに、生徒の中にはイゾルデに敗れた王国の老魔法使いミッシェルの姿もあった。


 決闘のあと、彼は頭を下げて、言ったのだった。


「イゾルデ先生、わたしにもあなたの授業を受けさせていただきたい。あなたはまだわたしも成長できると言ってくださった。魔法を一から学び直したいのです」


 イゾルデはその言葉に少し驚いたが、すぐに頷いた。


「わらわは学ぼうとする者を拒まぬ。好きなときに授業を受けにくるがよい」


 ミッシェルは高齢ながらも、イゾルデの教えを真摯に学んだ。


 毎回一番前の席でイゾルデの授業に参加し、彼女の言葉や行動を一言一句聞き逃すまいとした。授業の後も、イゾルデの元に残り、わからない部分について質問をしたり、彼女の理論について議論を交わしたりするのが日常となっていた。


「イゾルデ先生、もう少し詳しく教えていただけませんか? 特にエーテルの流れについての考察が、非常に興味深く……」


 イゾルデは内心でため息をついた。

 しかしその反面、彼の学び続けようとする姿勢には悪くない気持ちもあった。


「お前さんはよい弟子じゃ」


 ある日、ミッシェルは授業を受けたあといつものようにイゾルデの元を訪れた。彼は手に一冊の原稿を持っていた。


「イゾルデ先生、実は……これまでの教科書を全面的に改め、あなたの理論を基にした新しい教科書を出版する準備を進めております。これはその原稿です。ぜひ、先生にご意見を伺いたく……」


 彼女は静かに原稿を手に取り、ページをめくり始めた。


「全体的には悪くない出来じゃ。だが、この部分は誤魔化しが多い。もう少し詳しく書き直すべきじゃな。例えば……」


 彼女は幾つかの箇所を指摘しながら、学者に修正点を示した。学者は彼女の言葉を真剣に受け止め、すぐにメモを取り始めた。


「はい、すぐに修正いたします!」


 イゾルデは静かに言いながら、原稿を学者に返した。


「魔法を探求し、魔法の発展に貢献することこそがわたしの使命です。これからも、どうかご指導をお願いいたします」


「精進しなさい」


 イゾルデはそれだけ言って、彼を見送った。



 イゾルデが屋敷に帰ると、広々とした玄関ホールでアレックスが待っていた。


「おかえり、イゾルデ」


「旦那様、ただいまなのじゃ!」


 少女のように無邪気に喜ぶイゾルデの姿を確認すると、アレックスの表情が柔らかくほころんだ。


「学校でのこと、ちょっとした騒ぎになってるみたいだな。好き放題やるのもほどほどにしとけよ。俺もお前の授業、受けに行こうかな」


 イゾルデは彼に向かって全速力で走ると、突然彼の胸にダイブした。


「のじゃー!」


「うおっ」


 アレックスは一瞬驚いたが、すぐに彼女の体を抱きとめた。イゾルデの温もりが胸に広がり、彼女の顔が肩にすり寄る。


「会えなくて寂しかったのじゃ」


「どうしたんだ? 今日はずいぶん甘えん坊さんじゃないか」


「旦那さまはここのところずいぶん忙しそうじゃ。全然わらわに構ってくれぬではないか。わらわが一番好きだと言ってくれたのは嘘だったのかえ? 拗ねるぞ?」


 そのとき、アレックスが視線を感じて振り返ると、正妻のローザが離れた場所から冷ややかな視線を投げかけていた。


「いやあ……」アレックスは苦笑した。


「なんじゃ、ローザ様よ。おったのか」


 ローザは彼らがじゃれあう姿を静かに見つめ返していた。微笑んではいるが、目が笑っていない。


「お邪魔だったようですね」


 アレックスは慌てて取り繕う。「そんなことはないぞ。ローザもこっちにおいで」


「まあ、両手に花ですか? さすが勇者さま。いいご身分ですこと」


 その時、玄関の扉を叩く音が屋敷に響いた。

 アレックスたちがそちらの方に目を向けると、使用人が手際よくドアを開けた。ドアの向こうには、長旅で少し疲れた様子のレオンとセリーナが立っていた。


「のじゃ! のじゃー!」


 イゾルデは子どものようにアレックスに甘え続ける。その様子を見て、レオンは困惑していた。


「久しぶりだな……って、お前たちなにしてるんだ?」


「こんなところ、学校の生徒がみたらどう思うんだろうな」


 アレックスの軽い冗談に、イゾルデは平静を装い髪を整える。


「……ふむ、レオンとセリーナではないか。久しぶりじゃのう。会えて嬉しいぞ」


「いや、いきなり真面目な顔になられても」レオンは肩をすくめて笑った。


「仲が良さそうでなによりです」質素な服装に身を包んだセリーナが頭を下げる。


「どうしたんだ? 急に」


 アレックスが二人に問いかけると、レオンは少し困ったような顔をしてセリーナに目を向けた。セリーナは彼に対して微笑んだ。その表情からは優しさと少々の疲れが感じられる。


「俺たち、旅に出ることにしたんだ」レオンが言った。


 その言葉にアレックスは驚いた表情になった。


「王国の生活には満足してる。でも、なんかな。その、ちょっと肌に合わないっていうかさ」


 続けて、セリーナが彼の手をとって言う。


「レオンさんを放っておいたら危なっかしくて仕方ないので、わたしもご一緒しようかと」彼女は恥ずかしそうに少し顔を赤らめていた。


「王様から金はたんまりもらったし、世界を旅してまわるのもいいかなって。そして、どっかで小屋でも建てて、畑でも作って暮らしていけたらって思ってるんだ」


「そうか。お前たちはまた旅に出るのか。寂しくなるな……」


「じゃあな。そのうち手紙書くよ。とりあえず報告ってことで。邪魔したな」


 レオンは軽く手を振り、セリーナも小さく頭を下げた。


「達者でのう。旅先でも仲良くやるとええぞ、生臭坊主」


 イゾルデは冷やかすように言ったが、その目には寂しさが浮かんでいた。


「うるさいですね」セリーナはにっこりと笑った。「アレックスさん、イゾルデさん、そしてローザ様も。お元気で」


 そうして最後に静かに言葉を残し、二人は屋敷をあとにした。


 アレックスはイゾルデとローザの手を優しく握りしめ、そのぬくもりを感じながら、静かに考えていた。


 きっと、二人に会うことはもうないだろう。

 イゾルデの横顔を見ると、その表情から、彼女も同じように思っているに違いないと思った。


 †


 それからさらに一年が過ぎ、アレックスとローザの間に待望の第一子が誕生した。

 王国中が喜びに包まれ、屋敷でも大きな祝いの宴が開かれた。使用人たちも笑顔を浮かべ、アレックスとローザの幸せを祝った。


 イゾルデもまた、この新しい命の誕生を自分のことのように喜んだ。

 彼女は赤ん坊を優しく抱きかかえ、その小さな手に自分の指を絡めた。


「可愛いのう……この赤ん坊がこれからどんな風に成長するのか楽しみじゃな」


 イゾルデはそう言って、笑顔を浮かべながらローザに赤ん坊を返した。

 ローザも微笑みながら、イゾルデの手を取った。


「イゾルデ様、あなたにもこの子を可愛がってもらいたいわ。あなたも家族の一員ですもの」


 イゾルデはアレックスとローザの幸せを心から祝福した。

 しかし、気のせいだろうか。彼女はローザのその言葉に、なぜだか冷たいものを感じずにはいられなかった。


 †


 さらに時が経ち、アレックスとローザの間には次々と子どもが産まれた。

 イゾルデはその度に喜びを分かち合い、子どもたちを愛情深く世話し、見守った。

 彼女は、子どもたちの成長を見届けることに大きな喜びを感じていた。


「これでますます賑やかになるのう」


 イゾルデはそう言って、赤ん坊の手をそっと握りしめた。ローザは微笑みながら、彼女の隣に座った。


「ええ、イゾルデ様。本当にありがとう。あなたがこうして一緒にいてくれることが、本当に嬉しいわ」


 そう語るローザの表情にはやはり冷たいものを感じずにはいられない。

 本心から言っているように聞こえないのだ。

 こんな風に感じるのはなぜだろう。


「イゾルデ。こんなときだけど、ちょっといいか?」アレックスが不安げに口を開いた。「魔王をたおしてから、信じられないくらい幸せな日々が続いてる。でも、いいんだろうか。俺はたまに不安になる。ルビウスの円環は、まだ壊れていない」


 イゾルデは彼の目を見て微笑んだ。


「もちろん、わらわも忘れておらぬ。でも、いまは幸せを享受しておればいい。それがお前の仕事みたいなものなのだから」


「そうか。お前がそういうなら……」


「あら、わたくしに内緒の話ですの? 嫉妬してしまいますわ」


「そういうわけではないんだが……」


「わかっています。おふたりは共に力を併せて世界を救ったこの国の英雄。わたくしにはあずかり知らぬ絆があるのでしょうね」


 すっかり母親らしくなったローザは慈愛をたたえた瞳でそう述べるのだった。


 †


 それからさらに10年以上が経とうとしていた。

 アレックスとローザは6人の子宝に恵まれた。アレックスは父親として、そして王国の守護者としてますます重責を担うようになった。


 アレックスたちは子どもが大きくなるにつれ、王宮で過ごすことも多くなっていった。

 王宮では、ローザとの間に生まれた子どもたちが次世代の王位継承を担う者として注目される一方で、子宝に恵まれないイゾルデはしだいにその影に隠れるような存在となっていった。


 ある日の夕暮れ、イゾルデは庭園でひとり静かに過ごしていた。


 「イゾルデ、ここにいたのか」アレックスが庭園に現れ、彼女のそばに歩み寄った。「最近は、お前と話す時間がすっかり減ってしまったな」


 イゾルデは微笑んで彼を迎えたが、その笑顔にはどこか疲れに似たものがあった。「お前さんも忙しいのじゃろう。王国のため、家族のために奔走しておるのはよく分かっておる。最近では外交のため、近隣諸国を飛び回っているそうじゃないか」


 アレックスは彼女の手を取り、真剣な眼差しで見つめた。「イゾルデ、俺はお前がどれだけ大切な存在かを忘れたことはない。お前がいなければ、今の俺は絶対にありえない」


「なんじゃ旦那さまよ。突然気色悪いのう」


「不安なんだ。お前がこのままふらりとどこかに行ってしまうような気がして」


「そんなことにはならぬ。安心するがいい」


「イゾルデ、ところでルビウスの円環は……」


「気にすることはない。すべてうまくいっておるよ。旦那さまは旦那さまのつとめを果たしておればいいのじゃ」


 イゾルデはひょうひょうとした態度を保ちながらも、徐々に自身の役割が薄れていくのを感じていた。

 ローザが王宮の中心人物となり、アレックスの子どもたちが成長するにつれて、人々のなかでイゾルデの存在はあくまで過去の英雄としてのものに変わりつつあったのだ。


 王宮の人々も、イゾルデを敬意を持って接しつつも、彼女の存在を徐々に軽視するようになっていた。彼女が参加する会議では、以前ほどの発言力を持たなくなり、意見が取り入れられることも少なくなっていった。

 そんななか、イゾルデの心の中には、いつもかつての仲間たちとの冒険の日々があった。


 †


 時は砂のようにこぼれ落ちる。

 それから数十年が過ぎ、アレックスとローザの人生も夕暮れ時を迎えていた。


 暖かな夕日が大きな窓からリビングに差し込み、二人の顔を優しく照らしている。

 ローザは、年老いて細くなった手をアレックスの大きな手にそっと重ねた。その指先には、長い年月を共に歩んできた二人の歴史がしわとして刻まれていた。


「子どもたちも立派に育ち、わたくしたちはたくさんの孫に囲まれています。ここまでやってこれたのは、あなたのおかげです」


 その声には、長年の苦労と愛情が滲んでいた。アレックスもまた、彼女の言葉に応えるように彼女の手をやさしく握り返した。


「ローザ、君がいたから俺もここまで頑張れたんだよ」


 アレックスの目には、深い愛情と共に長い年月の疲労が浮かんでいた。

 二人は多くの困難を乗り越え共に歩んできたが、彼らの体には年齢の重みが確実にのしかかっている。


「私たちの子どもたちがこうして元気に暮らしているのを見ていると、もう何も心配することはないですわね」


 ローザが木剣を手に庭を駆け回る孫たちの姿を見ながら、微笑んだ。

 その笑顔には、未来への安心が溢れていた。

 アレックスも彼女に微笑み返し、子どもたちの未来に思いを馳せた。

 彼らの子どものひとりは王位を継承した。他の者たちも国の中枢に位置して国王を支え続けている。


「俺たちの役目は、もう終わりつつあるのかもしれないな……」


 アレックスの心には、遠い日の思い出が霞むように浮かんでいた。

 しかし、その記憶はもはや霧がかったようにおぼろげで、何か大事なことを忘れているような気がしてならない。


「ルビ……なんだったかな」


 アレックスは彼の頭に一瞬現れては消えていった、流れ星のような言葉を探し求める。


「ふふ、なんですの?」


「なんだったかな……」


「思い出せないってことは、きっと大事なことじゃないんですよ」


「君がいうなら、そうなのかもしれないね」


 そう言って、ローザは安心感に満ちた表情で彼の肩にもたれかかった。ふと、彼女の薬指に光る指輪が目に入った。


 指輪。

 円環だ。


 その瞬間、彼の頭の中で声が響いた。


『ルビウスの円環を破壊するしかあるまい』


「ルビウス……精霊ルビウス」アレックスはうわ言のようにつぶやく。「そうだ。昔、俺は勇者だった」


「いきなりなんですの? 今でもあなたは勇者さまですよ。いつまでもわたくしの勇者さまです」


 ローザはくすくすと笑いながら、老いてもなお逞しいアレックスの体に頭をあずけて目を閉じた。アレックスの体には緊張が走り、かすかに震えていた。


「見てください。あの子たちの楽しそうな笑顔。世界の各地で、人々が助け合う姿が見られると聞きます。これもすべてあなたが平和を取り戻してくれたおかげですわ」ローザは手入れの行き届いた広い庭で楽しそうに走り回る孫の姿を見て言った。


『かりそめの平和にすぎぬ』


 次々にアレックスの頭にフラッシュバックする。

 ぼやけた頭に過去の記憶が次々に蘇ってきた。


『しばらくは穏やかな時代が続くであろうが、魔王という人類共通の敵がいなくなった今、いずれ人間は人間同士で争うようになるじゃろう。そして……』


 アレックスは思わず立ち上がった。

 しわだらけの表情に浮かぶのは、無力な自分への恐れ。なにも出来ずに滅びていくことへの恐れだ。


『長い年月の先に、再びこの世界を支配しようとする魔王が誕生する』


 遠い記憶の中、これを言ったのは誰だったか。そうだ、イゾルデだ。


「ああ、……ああ!!」アレックスは狼狽した。「日々の忙しさにかまけて、俺は今まで一体なにをしていた? こんな大事なことを忘れてしまうなんて。イ、イゾルデと話さなきゃ。なんてことだろう。俺にはもう、時間が残されていないのに……」


 だが、咳が出て、思うように体が動かない。

 全身が疲労感に包まれている。思考に濃い霧がかかったように、頭がまわらない。

 彼は病に侵されていた。

 かつて世界を救った彼の強靭な肉体も、残酷な時の洗礼には勝てなかったのだ。


「イゾルデ、イゾルデはどこだ」


「あなた……」ローザは去っていく彼の姿を寂しげに見つめた。まるで永遠に返ってこないものを見送るように。「なぜわたくしではなく、イゾルデ様なの……?」


 アレックスは一瞬足を止めたが、その声に応えることなく再び歩みを進めた。

 彼の心の中には、混乱と焦りが渦巻いていた。

 頭の中で数々の思考が絡まりあい、焦燥感だけが燃え上がる。とにかく今はイゾルデの元へ急がねばならないという強い衝動に彼の体は突き動かされていた。


「イゾルデだ。イゾルデはどこだ。だ、誰か彼女を見なかったか」


 彼の声は廊下にこだまし、広い廊下に空しく響く。

 やがて、彼の声に応える者が現れた。侍女のひとりが彼に声をかけたのだ。


「イゾルデさまなら自室に向かうのを見かけましたが……すごい汗です。どうかなさいましたか?」


 侍女の言葉を耳にした瞬間、アレックスの心臓が激しく鼓動を打った。全身が冷たい汗に包まれ、足元がふらついた。


「ありがとう……」


 震える声でそれだけを言うと、彼は再び駆け出した。

 ようやくイゾルデの部屋の前に辿り着いた時、アレックスは息を切らしながら、ノックし、返事も待たずにドアを開けた。


 そこには、イゾルデが佇んでいた。

 窓辺に立って遠くを見つめるその姿は、まるで時の断片を切り取ったかのように儚げに見えた。

 柔らかな光が彼女の長い黒髪に絡み、そのシルエットを黄金色に染める。


 彼女はゆっくりと振り返り、その瞳がアレックスの姿を捉えた。

 全てを見通したかのような微笑みは、彼の心をやさしく包み込むのだった。


「なんじゃ。旦那様。そんなに情熱的にわらわの名を呼びおって」


 イゾルデの声は、まるで暖かな風のようにアレックスの心に溶けていく。


「イゾルデ……」


「なんじゃ。なにか言いたそうな顔をしておるの」


「ああ、イゾルデ、イゾルデ」


 アレックスは遠い昔にとっくになくしてしまったものを探し求めるように、彼女の華奢な体にしがみつく。


「どうした。取りあえず落ち着くのじゃ、旦那様よ。色男が台無しじゃぞ」イゾルデは彼の頭を抱きかかえ、白髪だらけになった頭髪を静かに撫でた。


「俺たちはあの日、精霊ルビウスと戦うと決めた。でも俺たちは結局、なにもしていないじゃないか。なにも変わったように思えない。ふ、不安なんだ。俺は、意味もなく、のうのうとこの数十年、生きてしまっただけなんじゃないのか。頼むよ、教えてくれ。そうじゃないと言ってくれ。イゾルデ、イゾルデ……」


「アレックスよ。歳をとったのう」イゾルデは微笑みをたたえてアレックスの頭を撫で続ける。


「お前は出会ったときともちっとも変わっていない。まるで十代の少女みたいだ……」


 そういって過去に思いを馳せるように瞳を閉じた。

 かつてアレックスは勇者だった。

 仲間たちとともに過酷な冒険に出て、みごと魔王討伐を成し遂げた。

 そんな過去の出来事は、今ではもう昔見た遠い夢のように感じることもあった。

 しかし、眼の前にいるイゾルデが、昔と変わらない少女の姿のイゾルデが、彼らの冒険が夢ではなく現実におきたことだと証明している。


「あれから三センチは背が伸びたぞ。おや、四センチだったかの」


「結局、お前との間に子どもは生まれなかった……」


「そんなことを気にしておったのか」


「屋敷や王宮で、お前が窮屈きゅうくつな思いをしていたのはわかっていた。わかっていて何もできなかった。すまない……」


「旦那さまはできる限りのことをしてくれた。わらわはよくわかっておるよ」


 突如、なにかを思い出したかのようにアレックスの顔に焦りの色が浮かぶ。


「そ、そうだ。ルビウスの円環はどうなった。一緒に破壊するって約束したじゃないか」


「大丈夫。お前さんが気にすることではない」イゾルデは彼を落ち着かせようとするかのように、小さな手のひらでアレックスの頭を撫で続けた。


「お前はいつもそうだった。この話をしようとすると、いつもそうやって……」


「神に喧嘩を吹っかけようというのじゃ。もともと、たった数十年でなんとかなる話ではないのじゃよ」


「それじゃ、俺は……結局、新しい世界を見届けることができないのか」


「お前さんはよく生きた。子どもも立派に育っておる。お前さんは、立派じゃった。わらわは自分が誇らしいぞ。こんなにすごい勇者様と同じ時を過ごせたのだから」


 アレックスは力なく微笑んだ。


「俺は、もう長くない」


「知っておる」


「お前は、これからも戦い続けるのか。そのとき、お前の隣に俺はいない」


「わらわは、お前さんが一緒に戦ってくれると言ってくれただけで嬉しかった」


「そしていつか、世界を変える……」


「ああ。それまでこの世界に居座って、世界が変わるさまを見届けようと思う」


「一緒に見てみたかった。ルビウスの円環が壊れ、子どもたちが危険な旅に出なくていい、そんな世界……。勇者も魔王も存在しない、そんなもの必要のない、新しい世界……かりそめではない、真の平和……」


「……もう休め。体に触るぞ」


「俺はもうしわくちゃのジジイになってしまったが、お前はいつまでも愛らしい」


「当たり前じゃ」


「イゾルデ。お前と会えて本当によかった」


「やれやれ。幾つになっても甘えん坊さんじゃのう」


 アレックスは目を閉じ、かすかな笑みを浮かべながら、彼女の胸の中に身をゆだねた。


 「イゾルデ。お前は強いな。俺はお前が羨ましい……」


 少し開いたドアの隙間から、正妻であるローザの顔が覗いていた。

 彼女の視線は鋭かった。その表情には一切の感情も浮かんではいなかった。


 †


 それから数日後。

 アレックスが息を引き取ったとき、彼の部屋には静寂が広がっていた。


 アレックスは、豪華さを好まない人間だった。

 彼が生まれたのは孤児院だった。

 彼が先代の国王に与えられたこの屋敷に住むようになってからも、彼の部屋は質素なものだった。


 家族や使用人たちはその場に立ち尽くし、彼の死を受け入れることができずにいた。ローザは彼の冷たくなった手を握り、涙を流しながら何か言葉を紡ごうとしていたが、声が出ないようすだった。


 静寂を破ったのは、部屋の隅にじっと佇んでいたイゾルデだった。

 彼女はアレックスの遺体に向かって一歩近づき、毅然とした態度でその場にいる全員に向き直った。


「皆の者、聞くがよい」


 その声は鋭く、部屋中に響き渡った。集まった家族や臣下たちが一斉にイゾルデを見た。彼女は、透き通った瞳で彼らを見渡した。


「アレックス大公爵は立派にその役割をまっとうした。彼は最後まで偉大な勇者であった」


 第二夫人であるイゾルデの言葉に、ある者はうつむき、ある者は涙する。

 部屋には誰かがすすり泣く声が響いた。


「彼は生前、わらわと共に歩み、わらわと共にあると誓ってくれた。これは彼の死後も例外ではない」


 家族や臣下たちは彼女の言葉を疑った。

 彼女が何を考えているのか理解できないようだった。

 彼らは、イゾルデが長い間アレックスの傍にいたことを知っていたが、その関係に対して好意的ではなかった。

 いつまでも歳をとらない不気味な女。

 彼女が魔女と呼ばれる存在であったこともあり、臣下たちの中には彼女を避けるようなそぶりを見せるものもいた。


「イゾルデ様……それは……」


 年老いたローザは何とか言葉を紡ごうとしたが、イゾルデはそれを遮るように、さらに強い声で続けた。


「よってアレックスの亡骸はわらわが引き取る。これは生前の約束によるものである」


 その言葉に、周囲の人々は明らかに困惑の色を浮かべた。

 彼女が何を言おうとしているのか、なぜそんなことを言い出すのか、彼らには理解できない。中には、イゾルデを不信の目で見つめる者もいた。


「イゾルデ様。やはり最後はあなたなんですね」ローザは恨みのこもった瞳で彼女を見つめた。「わたくしはあなたのことが、はじめてお会いしたときから気に入らなかったわ」


 イゾルデは目を瞑って何かを考え込むような姿勢をとる。

 しかし、言葉を返すことはしなかった。


「もうずいぶん昔のことになりますわ。わたくしがアレックス様との間に子を授かったとき、初めてあなたに勝てたと思いました」


 ローザの声はかすかに震えていた。感情をむき出しにすることなど、彼女にとってはほとんど経験のないことだったのだろう。


「あなたとの間に子どもができなかったことを、アレックス様はずっと気に病んでいました。でも、わたくしは内心、ほっとしていました。王宮や屋敷であなたの存在が少しずつ薄れていくのを見て、孤立していく姿を見て、どこか喜んでいたのです。でも、なぜでしょうね。ちっとも心が晴れることはありませんでした……」


 ローザの言葉は周囲の人たちを驚かせた。彼女がこのような攻撃的な言葉を投げかける姿を、誰も想像していなかったのだ。

 しかし、彼女の表情にはもはや恨みの感情はみられない。そこにあるのは、深い悲しみだけだ。


「アレックス様の目は、いつもどこかであなたを追っていたから。まるで昔の夢を見るみたいに……」


 その言葉を聞いて、イゾルデはようやく口を開いた。


「これからの未来を作っていくのは、旦那さまとローザ様のお子じゃ。強くて賢い、よい指導者になるじゃろう」


「ちがうの」突然、ローザは怯えたような表情になった。「わたくし、本当はあなたとお友だちになりたかった。もっといっぱいお話したかった。でも、あの人の心はいつもあなたの方を向いていて。わたくしはいつも孤独で。寂しくて……何を言っているのかしら。あなたのほうがずっと孤独だったに違いないのに」


「ローザ様。あなたは孤独ではない。旦那さまはいなくなってしまったが、あなたには家族がいる。それに、あなたは国中から愛されておられるではないか」


「イゾルデ様。あなたは本当に強い方ですね」


「そんなことはない」


「これから旅に出るおつもりですか?」


「そのつもりじゃ」


「アレックス様が生前、約束をしたのであればわたくしは受け入れます」とローザは涙を拭いながら言った。「イゾルデ様。いつでも帰ってきてください。そして、もしよろしければわたくしのお話相手になってください」


「わかった」


 それだけ言うと、イゾルデはアレックスの遺体をベッドから起こし、両腕で抱きかかえた。

 彼の体は死んでもなお筋肉で引き締まっており、ずっしりとした重さがあった。


 イゾルデが小さな声で呪文を唱えると、次の瞬間、彼女の姿はその場から消えた。転移魔法が発動したのだ。


 その場に残された人々は呆然と立ち尽くし、アレックスの遺体とイゾルデが消えた場所をただただ見つめていた。


 †


「わらわが強い? 違う」


 某所。

 イゾルデたちを容赦なく包み込む冷たさは、まるでこの世の果てにいるかのように錯覚させる。

 空は重く、鉛色の雲が広がり、遠くで唸るような風の音が聞こえ始める。嵐の前触れだ。厄介なことになる。急がなければならない。


「たったひとりでルビウスと対峙する自信がなかったから、旦那さまを巻き込んでしまった。弱かったから、甘えてしまったのじゃ。でも、恨んでくれるな。旦那さまにはいつまでもわらわの勇者であってほしい」


 イゾルデは、アレックスの遺体を抱きかかえながらその皺だらけの顔をじっと見つめた。彼の表情は、まるで穏やかに眠っているみたいだった。


 抱きかかえる彼の体からは冷えた重みが伝わってくる。

 二度と温もりを取り戻すことはない冷たさだ。


「ルビウスの円環を破壊し、ともに見届けよう。新しい世界を」

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