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第2話 ルビウスの円環

 魔王を打ち倒し、崩れゆく魔王城からの脱出を果たした勇者たちは、疲労感と達成感に包まれながら故郷の王国へと帰還した。


 城門をくぐると、街中が歓喜の声で溢れていた。

 若い女性がバスケットに入った花びらを撒きながら勇者たちを出迎える。彼らの顔には感謝と喜びが溢れており、勇者の凱旋がいせんを心から祝福していた。


「みんなが俺たちを祝ってくれてるよ」アレックスが興奮気味に声を上げると、隣を歩いていたイゾルデも薄く笑顔を浮かべて頷いた。


 その後、勇者たちは王国の兵士たちに王城へと案内され、王の間へと向かった。


 大きな赤い絨毯が王の待つ玉座へと続いている。

 両脇には王国の紋章の刻まれた鎧に包まれた兵士が整然と並んでおり、その場には貴族や大臣など国の重要人物の顔ぶれもあった。


「勇者アレックス、そしてその仲間たちよ」


 アレックスは王を前にひざまずき、仲間たちもそれに倣った。王はしばらくの間、彼らを見つめた後、白い髭のたくわえられた口元を柔らかくほころばせる。


「よくぞ魔王を討ち、この世界に平和を取り戻した! そなたたちこそが真の勇者だ!」


 王は立ち上がり、ゆっくりとアレックスの元へ歩み寄る。

 その手を優しくアレックスの肩に置いた。


「アレックスよ。よくぞ闇の脅威からこの世界を救ってくれた。この功績ははかりしれない。これよりそなたを王国の守護者たる大公爵とし、全軍の総指揮権を授ける。そなたの活躍が、我が王国の未来を永遠に照らすことを期待している」


 アレックスは頭を垂れて王の言葉を受け入れた。


 次に、王はレオンに目を向けた。


「レオン。その拳はこの国のために多くの魔を討ち、民を守った。そなたを武術の指導者として、王国の騎士団を束ねる役割を任せたい。そなたには伯爵位を授け、広大な領地を与えよう。武闘伯を名乗るがよい」


「もったいない光栄にございます」


 次に、王はセリーナに目を向けた。


「セリーナ。君の祈りと癒しの力は、国民たちに希望を与えてくれた。これよりそなたを女教皇に任命し、この国のすべての教会を導く役割を任せよう」


 セリーナは静かに頭を下げ、王に深い感謝の意を示した。


「陛下、この恩寵に感謝いたします」


 最後に、王はイゾルデに視線を移した。


「イゾルデ。そなたの知恵と魔法は、幾度となくみなを助けたと聞く。宮廷魔法師として王国の魔法研究の責任者をつとめてもらいたいのだが、どうだろうか」


 イゾルデは一歩前に出て、王に向かって穏やかに微笑んだ。


「この国の王よ。この名誉、大変誇りに思う。しかし、わらわは長い間、王国の辺境の森の中でひっそりと暮らしておった。自然に囲まれて暮らす方が肌にあっておるようじゃ。魔王を倒すという役割を終えたいま、もともと住んでいた森へ帰ろうと思う」


「ふむ……残念だが、仕方あるまい」王は重々しく述べた。「だが、もしも気が変わったらいつでも戻ってきてほしい。ここにはいつもそなたの居場所があることを忘れるでないぞ」


 そうして、イゾルデは王に頭を垂れた。


「なんだって?」隣にいたアレックスが声をあげる。「イゾルデ。魔王を倒したら俺と結婚するって言ったじゃないか。嘘だったのか。どこまでもついてきてくれるんじゃなかったのかよ?」


 アレックスの言葉に、王の眉がピクリと反応する。


 一瞬の静寂のあと、部屋のなかがざわつきはじめる。

 王の視線はアレックスとイゾルデの両者に向けられていたが、その瞳の奥には複雑な感情が見え隠れしていた。


 イゾルデは深く息をつき、優しく微笑みながらアレックスの方へと視線を向けた。


「まさか本気にしておるとは思わなんだよ。すこしからかっただけじゃ。お前さんは初心うぶな男じゃのう」


「イゾルデ!」


「アレックスよ。お前はいまや、ただのひとりではなく、王国の未来を担う者となった。お前には大きな役割が待っておる。この国を共に治めるにふさわしい相手がおるのではないか?」


 アレックスが言葉に詰まっていると、王が一歩前に進み出た。

 王の表情は威厳に満ちたものだったが、一抹の不安が見え隠れしている。


「勇者アレックスよ。我が娘、王女ローザだが……実はずっとそなたの帰還を待ち望んでいたのだ。彼女はこの国の未来を共に築く者として、そなたを想い、長い間祈り続けていた。余もまた、この王国をより揺るぎないものとするためにそなたが王女と結ばれることを願っておる」


 アレックスは驚きのあまり、しばらく何も言えなかった。

 アレックスたちは旅の途中、魔族にさらわれ洞窟の奥に閉じ込められていた王女、ローザを救出し、無事に王国へ送り届けたことがあった。

 その時から、王女が自分に好意を持っていることをアレックスは感じていた。


 イゾルデが一歩前に出て、アレックスの頭を優しく撫でる。

 その少女らしい小さな手のひらからは彼女の優しさが感じられたが、こわばった緊張も含まれているように思われた。


「まったく、冗談を間に受けおってからに。お前のせいでわらわまで恥をかいてしまったではないか。ああ、恥ずかしい恥ずかしい」


 イゾルデはわざとらしく手のひらでパタパタと顔に風を送った。

 アレックスは彼女の言葉に反論しようとしたが、そのとき、王の間の扉が静かに開いた。

 そこに立っていたのは、輝くような美しいドレスに身を包んだローザ王女だった。彼女は優雅な足取りで歩み寄り、アレックスに向かって深く一礼した。

 洗練された身のこなし。

 この日のために、何度も練習したのかもしれなかった。


「アレックス様、私はずっとあなたの無事を祈り続けていました。あなたが戻ってきたこと、そしてこの国を守ってくださったことに、心から感謝しています」


 アレックスは眼の前の光景に困惑しながらも、ローザ王女に視線を向けた。


 イゾルデは静かに微笑むと、大きな杖を手に、背を向けてその場を去っていく。

 ただでさえ小さなその背中は、今はやけに小さく見えた。


「イゾルデ……」


 その場にいたレオンとセリーナもなにも言えずにいた。


 玉座の間に再び静寂が訪れる中、王女はアレックスの手を取り、彼女に向かって小さく微笑んだ。


「アレックス様。わたくしと共にこの国の未来を築いてくださいませんか? それとも、すでにあなたの心には別の女性が……」


「まあまあ、よいではないか!」王が不安げなローザの話をさえぎり、手を叩く。「その話はまた後日でよい。今日ほどめでたい日はない! 宴の準備じゃ!!」


 玉座の間が宴の準備に向けてざわめき始める中、アレックスは静かに王女の顔を見つめた。

 無垢さと純真さをはらんだ美しさが、彼女にはあった。彼女から感じられるのは、アレックスに対する純粋な憧れと尊敬の念だ。

 これからの人生、この女性と運命を共にすることにはなんの不安もない。

 一国の王女。孤児院で生まれ育った自分にはもったいない女性だ。

 でも、これでいいのだろうか。


 イゾルデが完全にこの部屋から去ってしまったいま、アレックスの胸にはぽっかりと空いた穴が広がっていた。


 †


 夕闇が王国の城下町を包み込んでいた。広場にはところどころオレンジ色の灯が灯された。

 王国だけでなく、近隣の町や村などから集まった人々が、その光に照らされながら、喜びと興奮に満ちた声を上げている。

 広場の中心には大きな宴のテーブルが設けられ、おいしそうなご馳走が並べられている。


 アレックスは宴の主役として子どもたちに囲まれていた。

 子どもたちの相手をしながら、どこか落ち着かない様子で周囲を見渡す。しかし、探している者の姿は見当たらなかった。


 セリーナは広場の端に立ち、信心深い年配の市民たちに囲まれていた。その瞳は穏やかだ。そのひとりひとりに温かい言葉を返しているようすが目に入る。


「なあ、アレックス」いつの間にか近くにいたレオンが低い声で話しかけてきた。彼はなみなみと注がれたぶどう酒の杯を手に持っていた。「やっぱりイゾルデのやつ、ここにはいないみたいだな。本当にこれでいいのか?」


「彼女は自分の道を選んだんだ。俺は止められなかった」


 アレックスはレオンから目をそらした。言葉に詰まり、それ以上何も言えなかった。彼の心には、イゾルデが去ったときの光景が鮮明に残っていた。


「今からでも遅くない。あいつのことを追いかけるべきだと思う」レオンはいつになく真剣な表情だった。「俺たちは一緒に戦ってきた仲間じゃないか。イゾルデがどれだけお前のことを大切に思っていたか、俺にはよくわかってるよ。きちんと話してみるべきじゃないのか? もう会えなくなっちまうかもしれないんだぞ」


 アレックスはその言葉を聞き、胸の中で何か熱いものが込み上げてきた。イゾルデを引き留めるべきだったのかもしれない。

 しかしあの場で一体、どうすればよかったというのだろう。


「アレックス様」


 その声に振り返ると、そこにはローザが立っていた。

 彼女は静かに歩み寄り、控えめにアレックスを見上げた。彼女の美しい顔立ちは穏やかさに満ちていたが、同時に微かな不安の影も感じられる。


「姫……」アレックスは戸惑いながらも、彼女に軽く頭を下げた。


 ローザはそのままアレックスの隣に立ち、一緒に広場での宴の様子を見ていた。

 レオンはもう、その場からいなくなっていた。


「アレックス様、心に何か重いものを抱えているように見えます。先ほどから、ずっと落ち着かないご様子でしたが……」


「いえ、そんなことは……」


 アレックスはその言葉に驚いた。王女にまで気を遣われてしまっている。

 そんな自分を情けなく思ったが、だからといってどういう反応をすればよいのかわからない。


 ローザはアレックスの沈黙を見て、そっと微笑んだ。「あなたの心のなかには、すでに大切な方がいるのでしょうね」


 彼女の瞳は真摯であり、アレックスの心を見透かすような優しさがある。


「馬鹿にしないでください。心に思う人がいるのに、王女としての地位を利用してその人からあなたを奪うつもりなど少しもありませんわ。なにをしているのです。今すぐ追いかけなさい。そんな顔、世界を救った勇者様には似合いませんよ」


 アレックスは彼女の優しさに触れ、ようやく決意が固まった。


「ありがとう、姫。ちょっと行ってくるよ」


 ローザはその言葉を聞き、静かに微笑みながら頷いた。


「くれぐれも後悔のないように。でも、わたくしもその方に負けるつもりはありません。いつまでもあなたの帰りをお待ちしていますわ」


 その言葉を胸に刻み、アレックスは広場を後にした。

 足取りは軽い。しだいに駆け足になっていく。

 イゾルデはもう、とっくに城下町を出てしまったかもしれない。

 彼女に会いたい。

 二度と会えなくなる前に、彼女を見つけなければいけない。


 †


 それから数時間後。

 王国の領土内、辺境の森のとある場所。


 すでに陽が落ち、暗い闇があたりを包みはじめていた。

 川のせせらぎが心地よく耳に響く。このあたりは背の低い緑が生い茂っていた。かつて彼とイゾルデが最初に出会った場所だった。


 目を凝らすと、かすかに小さな人影があるのを確認した。心臓が高鳴った。間違いない。イゾルデだ。


 彼女は川のほとりに立ち、月の映る水の流れを静かに見つめていた。彼女の長い髪が風になびき、その背中にはどこか物悲しい雰囲気が漂っていた。


 アレックスは息を整え、静かに彼女の方へ歩み寄った。「イゾルデ……」


 その声に気づいたイゾルデはゆっくりと振り返り、驚いた表情を見せる。「なぜここに?」


「城下町の人たちや、近くの村の人たち、虫や動物たちにお前を見かけなかったか聞いてまわったんだ。ずいぶん探したよ」


 イゾルデは微笑みを浮かべたが、その瞳にはどこか寂しさが残っていた。「この森は、わらわとお前が最初に出会った場所じゃったのう」


「あのとき、俺は本当に未熟だった」


 イゾルデはその言葉に微かに笑い、軽く肩をすくめた。「勘違いするでない。お前は今でも未熟者じゃ」


「本当にその通りだな」アレックスは笑いながら彼女の隣に立ち、その横顔を見つめる。「イゾルデ、俺はお前と一緒にいたい。お前がいなきゃきっとこの旅はうまくいかなかった。俺が迷ったとき、いつもお前がそばにいてくれた。俺は馬鹿だから、これからもいっぱい間違うと思う。でも、そのときイゾルデがそばにいてくれなきゃ、俺は……。いや、ちがうな。こんなことを言いたかったわけじゃない。違うんだ。違うんだよ」


 アレックスは決意を込めて言葉を投げかける。


「イゾルデ、愛しているんだ」


 イゾルデはアレックスの言葉を受けて、その大きな瞳を静かに閉じた。


「ずっと考えておった。魔王と出会い、戦ってから、いまこの瞬間まで……」


「それはどういう……」


「わらわは普通の人間とは違う。

 幼い頃は、王国から遠く離れた村でおばあちゃんとふたりで暮らしていたのを覚えている。

 思えば、血の繋がった本当のおばあちゃんであったかどうかすら怪しい。今もはっきり声や顔を思い出すことができるよ。

 おばあちゃんは自分のことをほとんど話そうとはしなかった。両親のことも教えてくれなかった。

 自分がどこから来たのかもわからず、わらわはただ高貴な生まれだとだけ知らされて、なにも知らぬまま育った。

 そのせいもあったかもしれぬ。

 幼い頃から他人と違うという思いだけが胸にあった。魔法も簡単に扱えた。幼かった頃は無邪気にも天才なのだと思っていたが……思い出してみれば、おばあちゃんはきっと、魔族だった。魔王と同じ魔族だった」


 そして、アレックスの目をまっすぐに見つめた。


「そしてわらわも魔族じゃ。なまじ人間と似すぎているから、人間としてのうのうと暮らしていけたに過ぎない。できそこないの魔族。魔王と対峙して確信したよ」


「イゾルデ。お前は人間だ。考えすぎだよ」


「では、年老いてもなお、少女のままのこの見た目はどう説明する? 気味が悪いではないか!」


 イゾルデは百歳にも届こうという年齢にもかかわらず、停止した時間の断片を思わせるような少女の姿をしていた。


「可愛いと思うよ」


「ばかたれ。当たり前じゃ! そのようなことを申しているのではない!」イゾルデは顔を赤らめてアレックスの頭を引っ叩く。アレックスはどこか嬉しそうにしていた。「では、魔族としては出来損ないでも、人間としては強すぎるこの魔力はどう説明する? わらわのような者は世界中のどこを旅してもおらんかったではないか」


「お前は人間だよ。……それに、もし仮にお前が魔族だとしても、俺の気持ちは変わらない」


「強情じゃの」


「そうじゃなきゃ、この旅は成功しなかった」


 幼かった頃、イゾルデは自分を育ててくれた祖母が死んで旅に出た。

 そうして幾十年かが過ぎ、王国の近くにある辺境の森に、生まれ故郷の村に似た空気を感じた。彼女はその森の湖のほとりに小屋を建て、居心地がよかったためすっかり長居してしまった。このまま魔法の研究などをしながら、静かに死んでいけたらいいと思っていた。


 それからさらに数十年の月日が経ち。

 彼女の前にアレックスと名乗る少年が現れた。

 精霊ルビウスに選ばれて王国の城下町から旅立ったばかりだという彼の瞳は希望に満ちており、一点の曇りもなかった。

 イゾルデはその少年を見て感じたものは、哀れみだった。


 勇者。

 人の身でこの世界の希望を一身に背負うもの。

 そんなもの、人柱を言い換えただけではないか。

 魔王を討伐するための使命を、何も知らぬ、年端もいかぬ子どもに押し付けているにすぎぬ。

 精霊ルビウスとやらも、この国の大人も、一体なにを考えているのか検討もつかぬ。わかりたくもない。


 しかし、勇者アレックスはそのようなことは一度も考えたこともないような無垢な瞳でイゾルデを見つめるのだった。


――流行り病で苦しんでいる人を治すための薬が必要だ。この森には魔女がいて、どんな薬でも作ってくれると聞いた。お前が魔女か?


 普段はこのような輩は適当にあしらうのだが、その日はふと気まぐれな気持ちが兆しただけ。それだけのこと。


――いかにも。わらわは(もうすぐ)百年の時を生きる魔法使いイゾルデ。その病人とはお前の家族か。友人か。


――いや、そこらへんで会った人だよ。金ももらってない。なんか苦しそうだったし、その人の家族も心配してたから。


 イゾルデはため息をつく。


――勇者かなにか知らぬが、そこら辺で会った人をいちいち助けていたらキリがなかろう。おぬしは馬鹿か。


――そこをなんとか。薬を持ってくるって約束しちゃったんだよ。ここままじゃ嘘つきになっちまう。


――しょうがないのう。


――いいのか?


――流行り病の薬ならちょうど用意してあったのじゃ。じつは近頃騒ぎになっておったのを知っていたもんで、王国の民にもこっそり配っておった。そこらへんにあるから好きなだけ持っていけ。


――ありがとう、魔法使いイゾルデ。……なんか、想像してたのと全然違うな。魔女っていうから、もっと恐ろしいのかと思ってたよ。


――なんじゃ。


――思っていたよりもずっと可憐だ。


 もしも運命というものがあるなら、イゾルデが長い旅の末、王国の近くの森に住むことを決めたのも精霊ルビウスの導きだったのかもしれない。

 イゾルデは眼の前の少年に自分と似たものを感じた。

 そして、人と違うことを純粋に喜ぶ心は、とっくに昔の自分が捨ててしまったものだった。


 光は闇の対極には位置しない。

 闇は光に内包されるものであり、同時に光もまた、闇に内包されるものだ。

 選ばれてあること。

 それを不幸と感じるか幸福と感じるかは、光を当てる角度によってガラリと変わる。


 †


「しかし、王女と結婚するのは避けられぬのであろう。すべてを捨てて駆け落ちでもするつもりか?」イゾルデはアレックスに疑問を投げかける。


「それも悪くないかな……」勇者は照れくさそうに鼻をかいた。


「お前という男は……」イゾルデは内心少しだけ嬉しく感じつつも、頭を抱える素振りをする。「わらわはお前の祖母よりもずっと年上じゃぞ?」


「関係ない。イゾルデがいない人生なんて考えられないんだ」


「決意は硬いのだな。しかし、お前は王国に必要な人間じゃろう。王国に戻るべきだと思う」


「でもそれじゃ……」


「わらわも王国に住む。アレックス大公爵さまの第二夫人になってやろうというのじゃ。色々言われるだろうが、みなを説得してみせよ。それができなければこの話は無しじゃ」


「ありがとう、イゾルデ……」


「あと……そうじゃな」


「なんだ?」


「第一夫人の座はローザ姫に譲ろう。しかし、わらわを一番好きでいてくれなければすぐにヘソを曲げるものと心得よ」


「お、おう」


「魔女は執念深く、また、嫉妬深いのじゃ」


 アレックスはその言葉に力強く頷き、彼女を抱き寄せた。その華奢な体が壊れてしまわないように、そっと優しく。「もちろんだよ。お前が一番だ。これからも、ずっと」


 イゾルデは年甲斐もなく照れていた。


 †


 次の日の明け方、ふたりは寄り添いながら王国へ向かっていた。


「ずっと、勇者と魔王について考えていた」その道すがら、イゾルデが口を開く。「お前と冒険をしたおかげで、世界中の書庫を調べることができた」


「そういや旅の途中で教会や神殿の書庫によく入り浸ってたよな」アレックスは鍛えられた腕に、隣を歩く彼女の衣服ごしに体温を感じていた。


「さらに、実際に魔王城へと赴き、魔王と対峙したことでかなり考えが整理できた」


「へえ……」


 アレックスは目を細める。

 長い話が始まるのではないかという予感があった。イゾルデの悪い癖だ。


「世界各地には数え切れないくらい勇者に関しての神話や伝承が残っていることは知っておるな」


「ああ。勇者が旅立ち、魔王を倒して世界が平和を取り戻すってやつだろ」


「そうじゃ。そして、長い時を経てこの世界に新たな魔王が復活し、それと同時に勇者も誕生する。勇者は、その呼び名は各地で異なるが、精霊ルビウスの祝福を受けて旅立ち、そして魔王を討伐する旅に出る。どうやらこの世界では、このサイクルが繰り返されているようじゃ」


「そんなのわざわざ説明されなくても誰だって知ってる。一体、それがどうしたんだよ?」


「魔王を含む、魔族は人間そっくりじゃった。少なくともわらわの目にはそう見えた」


「…………」


「そこでわらわは恐ろしいことに気づいてしまった」イゾルデは息を吸い込んだ。一呼吸おいて、語りだす。

「勇者が旅立ち、魔王を倒し、そして、平和になった世の中で、次の魔王になるのは、おそらく人間なのであろう。

 長年、なにもない歴史の隙間を縫うように突然異形の存在が現れるのは納得がいかんかったが、実際に魔王と対峙して確信したよ。

 さらに、魔王になった人間を倒すために、精霊の祝福を受けた勇者が世界のどこかに誕生する。

 この世界は、このような円環構造……いうなれば、ルビウスの円環に囚われている」


「人間のなかから魔王が生まれるだって?」


「その通りじゃ。そうとしか考えられん」


「それじゃ、俺たちが取り戻した平和って一体なんなんだ?」


「かりそめの平和に過ぎぬ。それでもしばらくは穏やかな時代が続くであろうが、魔王という人類共通の敵がいなくなった今、いずれ人間は人間同士で争うようになるじゃろう。そして長い年月の先にまたこの世界を支配しようとする魔王が生まれる」


「それじゃ、俺たちの冒険は……」


「いいや。まったくの無意味だったわけではないぞ。わらわとお前はこのことに気がつくことができた。それだけでも意味があったと思うべきじゃ」


「でも、気づいたからってどうするんだよ」


「神には抗えない。ずっと昔からそうだったしこれからもそうだろう。所詮人間は神の定めたルールには逆らえない。大きな流れの中でもてあそばれるだけ……。そうやってなにもせず最初から諦めることもできるじゃろう。しかしそれではわらわの気が収まらぬ。わらわはこの世界の理に異を唱える。ルビウスの円環を破壊するしかあるまい」


 アレックスは驚いた表情でイゾルデを見つめる。


「そもそも、最初から気に入らなかったのじゃ。年端もいかぬ子供のなかから人柱のように勇者を選出し、恐ろしい旅に出させようとするなど、鬼畜の所業ではないか」


 イゾルデは止まらなかった。

 どうやらスイッチが入ってしまったらしい。こうなると彼女は満足するまで延々と喋り続ける。老人の話は長いのだ。


「われわれはこの旅で何度死んだ? 普通は死んでしまうような傷を負い、何度死のふちから蘇った?

 長い旅の末、魔王城につく頃には、われわれはもう普通ではなかった。粉々の肉片にされても、ああ死んだな、それなら生き返らせればいいかと思うだけだった。

 普通の感覚でいられるわけがない。そうでなければただの人間に魔王の討伐などできるわけがない。なにが祝福じゃ。なにが神の奇跡じゃ。くそったれめが。

 レオンもセリーナもひょうひょうとしているように見えるが、精神的にはかなり参っておるじゃろう。

 この国の王に活躍に見合うだけの地位を与えられはしたようじゃが、もう二度と普通の人間の生活に馴染むことはできぬであろうよ」


「もしかして、最初から神に挑むつもりだったのか? 俺がここに来なくても……」


「まあ……そうじゃな。ひとりで色々と動いてみようとは思っていたよ」


「なんだよ。水臭いじゃないか」


「すまぬ。お前がここまでわらわを好いてくれておるとは思わなかったもんでな」


 アレックスは顔が熱くなるのを感じていた。


「見ておるのじゃろう。精霊ルビウスよ」日が昇り始める清浄な森の中、イゾルデが声を張り上げる。「わらわはここに宣言しよう。勇者アレックスとともにくだらぬお前のルールを破壊すると」


 そして、アレックスの手を取り、厚い胸板にその小さな頭をうずめる。


 アレックスは精霊ルビウスの導きで旅立ち、そして魔王の討伐に成功した。

 しかし、イゾルデの話を聞いているうちに、ルビウスに対しての疑惑も膨れ上がっていった。

 隣を歩く小さなイゾルデの言うことがもっともらしく聞こえたのだ。


「アレックスよ。わらわは今度こそ、お前にどこまでもついていく覚悟を決めたぞ。だから、お前もわらわについてきてほしい」


「ああ。死がふたりを分かつまで」


「全然足りぬ」


「え?」


「お前はわらわよりもずっと早く死んでしまうではないか。お前が死んだら、ひとり寂しく老いさらばえていけというのかえ?」


「わかった。俺が死んだあとも、この肉体を、魂を、すべてを、イゾルデ、お前に捧げると約束するよ。たとえこの肉体が滅びても、俺が俺であることの本質はずっとお前と一緒にいる。ふたりでルビウスの円環を破壊するんだ」


「それでいい。これからよろしく頼むぞ。旦那さまよ」


 しかし、アレックスは思った。

 自分は精霊ルビウスに祝福を受けて旅に出た。彼女の存在は今も確かに感じる。

 だが、ルビウスは神であり、精霊だ。

 存在を感じることはできるものの、見えはしないし触れもしない。

 ほとんど覚えていない夢のようにおぼろげなもの。

 そんな人智を超えた存在に、どう立ち向かえばいいのだろう。


 彼の前には、決意に満ちた目をした少女の姿だけがあった。

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