花火大会の翌日。七月二日に法事を執り行った寺を、俺は親父と再び訪れていた。
「なぁ、颯太。母さんのこと、話してもいいか?」
「……もちろん」
綺麗に掃除された墓の前で手を合わせた後、親父は静かに口を開いた。
「お前には妹がいたんだ。名前は佐上絢奈。生まれたのは七月一日だった……」
親父によれば、絢奈は低酸素性虚血性脳症という病気だったのだという。緊急帝王切開の後、
「しかもその間に、唯奈が――母さんが亡くなったんだ。羊水塞栓症っていう病気で……。出産の直前はあんなに元気そうだった。なのに、あんなにも呆気なく、母さんは――」
「親父……」
絢奈がまだ生きていた七月三日、母は息を引き取った。不幸としか言いようのない死だった。
入院五日目でとうとう脳死状態と判断された絢奈は、それに加えて重度の脳障害と肺障害を患ってしまった。治療を続ければ数か月は生存可能ではあるものの回復の見込みはなく、徐々に悪化すると医師から説明されたという。
「最初は何か月でも治療してやると思っていた。金はあったし、お前のことは親戚に預けてあったから、余裕はあるはずだった。でも……調べても調べても、希望を持つどころか絶望するばかりでな。お医者さんの言う通り、回復した症例はなかった。その間にも絢奈は苦しそうにしてた。俺のエゴで生かされているのだ、苦しまされているのだと思った――でも同時に、唯奈が自分の命に代えてまで生んだ命を、俺が諦めて良いのかとも思った」
親父が今の今まで俺に何も言わなかったことが、今となっては良く分かった。同じ状況に置かれたら、俺は発狂してしまうかもしれない。自分がどうあがいても、どういう選択をしても、絢奈は苦しみ、そして死んでしまうのだ。
「結局、私は絢奈を実家で看取ることにした。唯奈の命も絢奈の命も、何もかも私が背負うことにしたんだ。二人を死なせた罪を一生背負い続けよう。その分、せめてお前のことをきちんと育てようと思った。……それだって私のエゴなのにな」
どこか秋めいた風が、墓に供えた線香の煙をたなびかせた。絢奈の遺灰も、実はこの墓に母と一緒に眠っているのだそうだ。知らない間に、俺は絢奈と会っていたことになる。
「済まない、こんな父親で。お前が唯奈や絢奈を恨むのが怖くて――いや、違うな。私が二人の死を未だに受け容れられないばかりに、今までずっと黙っていてしまった」
「お、おい……頭なんて下げるなよ、親父……だけど、どうして今日、俺に全部話そうと思ったんだ?」
「それは……夢を見たからだ」
「夢……」
「馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないがな。あの子はまるで、絢奈が大きくなった姿そのものだったんだ。私とお前とその子の三人で、夕食を一緒に囲んで、テレビを見て――」
あまりに見覚えのある光景に、俺は思わず吹き出してしまった。
「ちょっとどうしたんだ、颯太?」
「いや、ごめん親父。全く同じ夢を俺も見たから」
「何だって……?」
「その証拠に、ほら」
そう言って、俺は右手の小指につけた指輪を見せた。
「昨日までの三十一日間、俺は絢奈と一緒にいたんだ。これは二人でつけた
「そう、か……」
しばらく
「おーい、颯太ーっ!」
「……瑞季!? どうしてこんなところに」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて、幼馴染が駆け寄ってくる。
「どうしてかって……そんなの、絢奈ちゃんに聞いたからに決まってるじゃない」
「何だって!?」
「このお墓だって、ちょっと前にあたしが掃除したんだから。綺麗になってるでしょ?」
「マジか……ありがとな、瑞季」
まぁ、絢奈ちゃんは毎週ここに来てたみたいだけどね、と彼女は
自分の墓を、そして自分を生んで死ぬことになった母親の墓を、絢奈はどんな気持ちで見ていたのだろう。俺も一度、一緒にここに来るべきだったのだろうか。
「ところでさ……昨日もらったもの、見せてよ」
そういえばそうだったと、俺は手提げカバンからピンクの小箱を取り出した。
親父との話は済んだ。今がこれを開ける時なのだ。
中に入っていたのは――ガラス製のオルゴールだった。
「凄い……」
「これ、いつの間に買ったんだ……?」
そう口にして、ギブリ美術館に行った後の買い物をした時だろうと気づいた。その時は俺もちょうどこの指輪を買っていたのだ。俺と絢奈はどこまでも兄妹らしい。
「ほら、鳴らすからよく聞いて?」
「ああ」
そのメロディーが流れた瞬間、俺の頬を熱い雫が流れ落ちた。
フランツ・リスト作曲『愛の夢 第3番』。俺がいつか弾きたいと思っている曲を、絢奈は知っていたのだ。
透明なその小さなピアノの側面には、文字が彫刻されていた。
――お兄ちゃん、お誕生日おめでとう
あなたの可愛い妹、佐上絢奈より――
涙が溢れ出で止まらず、何度も何度もしゃくり上げて震える俺を、瑞季がずっと抱き締め続けてくれた。今日、八月三日は俺の誕生日なのだ。
「……ちょっとは落ち着いた?」
「ああ……みっともないところを見せて済まなかった」
「良いのよ。そうだ!」
境内の出口脇にある大きな鐘を、俺と瑞季とで撞いた。
身体の奥まで響く低音に、心がすっきりしたような気がした。
手を繋いで鐘楼の急な階段を下りた俺たちは、手を離して寺の出口へと歩き始める。
俺の少し先を歩いていた瑞季が、ベージュがかった茶髪を耳にかけながら突然振り向いた。
「――好きよ、颯太」
「えっ……」
「あなたのことが、ずっと好き」
彼女の赤っぽい瞳に、涼やかな口元に、揺れる髪の一本一本に目線が惹きつけられる。俺も好きだ、と言おうとした。でもその
「瑞季の気持ちは凄く嬉しい。……でも、今はまだ気持ちに整理がつかないんだ」
「知ってる。颯太がそういうヤツだってことくらい」
「そうだな……だから、ちゃんと固まった時は――俺から言わせて欲しい」
「分かった。待ってるね」
ふと近くの生け垣の奥に親父の視線を見つけて、俺は小さく笑った。親公認ということか。どうやらいつの間にか外堀から埋められていたらしい。我が家のお墓の手入れまでしてくれている彼女のことだ、きっと絢奈にも話してあったのだろう。
瑞季は本当に大切で、魅力的な幼馴染だ。結論は既に出ている。きっとそう遠くない内に、俺は彼女のことを心の底から好きになるに違いない。
でも今の俺にとっては、絢奈のことも瑞季と同じかそれ以上に大切なのだ。
「あいつが、ここにいるんだ」
俺は胸に手を当てて空を見上げた。
この奥に、確かに感じるのだ。
妹の息遣いを。彼女との絆を。
そんな俺を見て、瑞季も天を見上げた。
二人で見上げる八月の空は、どこまでも、どこまでも青かった。
〈了〉