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第10話 夏休み前の事件。

 瑞季との勉強会の翌日は、いよいよ絢奈との初デートだ。待ち合わせ場所の天王子駅北口は、日曜の九時半だというのに大勢の人で賑わっている。


「あっ、先輩っ!」


 それでも、自動ドアの脇で背伸びして小さく手を振っている彼女の姿はすぐに分かった。待ち合わせ時間は十時なのだが、毎朝の登校だけでなく今日も待たせてしまったようだ。


「毎回遅れてばかりで済まないな」

「いえいえ、わたしが好きで待ってるだけですからっ」

「でも、それに……変なヤツにナンパでもされてたらと思うとさ」

「ふふ、心配ありがとうございます。今日は一応、そんなに露出度が高くない服を選んできたつもりなんですけど……」


 袖に少し透け感のある白い半袖のトップスに、紺色のロングデニムパンツ。肩には革製のポーチを掛けている。確かに落ち着いた格好ではあるものの、モデル体型で足の長い絢奈がそれを着ると、大人っぽさと少女らしさが同居した魅力的なコーディネートになって――。


「そ、そこまで褒められると流石に照れますね……」


 付け焼き刃にも程があるファッション知識だが、恥ずかしがる彼女を見られただけで素晴らしい収穫と言えよう。褒めるというのは良いものだ。


 中央快速ラインに乗って向かった先は、 三高みたかの森ギブリ美術館。アニメーションをテーマにした、一風変わった美術館である。公園の木々に囲まれた入り口は美術館というよりトンネルに似ていて、普通の美術館とは違う雰囲気が漂っていた。


「ほい。これがチケットな」

「フィルムっぽくて可愛い……! それにしても完全予約制って、美術館としては珍しい気がしますけど――先輩、よくチケット取れましたね」

「そうそう、結構大変だったんだぞ?」


 常設展示室にはアニメーションの原理の説明、実際の製作スタジオの再現や絵コンテの展示などがあり、どれもリアリティがあって興味深いものだった。地下にある小さな映画館で上映されているオリジナル短編アニメは面白かったし、屋上に立っている『蒼天の城ラピュータ』の機械兵からは迫力と悲哀を感じた。そして何より、どの展示も楽しそうに、かつ真剣な目で見ている絢奈は本当に魅力的だと思った。


「充実した展示でしたね、先輩」

「だろ?」

「ただ……瑞季先輩は呼ばなくて良かったんですか? 前に三人で美術館に行く、みたいな話になったような気がしますけど……」

「そうだな……でも今日は絢奈と一緒にいたいと思ったんだ。瑞季とはまた今度行こう」

「ふふっ、わかりました」


 お昼はここに併設されているカフェで取ろうと思っていたのだが、話し合いの結果、吉城寺きちじょうじ駅の近くにあるカフェに入ることになった。ブラックコーヒーに顔を歪める彼女を眺めた後は、駅前のショッピングモールへ移動。なんでも絢奈は俺に秘密でプレゼントを買ってくれるらしく、途中は別々に買い物をした。


「その……今日はどうだった?」

「楽しかったに決まってるじゃないですか! エスコートありがとうございました、先輩っ」

「そうか、それは良かった」


 彼女なんてどうせできないし、面倒だから要らないと思っていた。二次元の推しがいれば、それで良いと思っていた。でも、必死に考えたデートプランを彼女に楽しんでもらえた――ただそれだけのことで、心がこんなにも温かくなるとは。

 流石に歩き疲れたのだろう。夕陽の射し込む電車のロングシートで、絢奈は俺の肩に頭を預けてすやすや寝息をたてている。彼女の安らかな寝顔を、俺はずっと見守っていた。



 ***



 週が明けた月曜日と火曜日、瑞季や悠翔の力を借りながら一夜漬けに明け暮れた俺は、翌水曜日からの三日間に渡って行われた前期期末テストをなんとか乗り切った。


「はぁああああ……やっと終わったぁ……」

「ほんと疲れたな……どうだった?」

「僕かい? 僕は――」

「お前には聞いてない」


 目を輝かせて割り込んでくる悠翔をすぐさま遮った俺に吹き出しながら、瑞季はグッと伸びをして首をぐるぐる回した。


「うーん……現代文と漢文は大丈夫だと思う。古文は――正直なところ、勘」

「マジかよ」

「颯太こそ、数学とかどうだった?」

「瑞季のおかげで計算問題は当たってると思う」

「おいおい、僕も結構教えたじゃないか」


 答案が採点されて返却されるのは来週火曜日からの三日間であり、午後には赤点の生徒を対象とした補講が行われる。午前中で帰ることができる折角のチャンスを逃したくはない。赤点のボーダーは三十点だから、どの教科も一応回避しているはずだ。なんだかんだイジられキャラの天才にも頭を下げた俺は、早くも帰り支度をしている彼女を誘った。


「なぁ瑞季。この後、絢奈がお前も入れて屋上でスケッチしたいって言ってるんだけど、よかったら来ないか?」

「そう、だなぁ…………」

「あ、用事があるとかなら断ってくれても全然――」

「ううん。絢奈ちゃんがそう言ってくれてるなら……あたしもお邪魔しよう、かな……」

「そうか、それは助かる」


 ――だが、この時の俺は気づけなかった。彼女が無理していたことに。


 それは、屋上でイーゼルを立ててスケッチを始めてから僅か十分後のことだった。

 真剣な表情で鉛筆を走らせていた幼馴染が、俺の右隣で突然ばたりと倒れたかと思うと、喉元を抑えてもだえ苦しみだしたのである。


「お、おい瑞季……どうしたんだ!?」

「う、うん……ぐぅっ……!」

「瑞季先輩……っ!」

「だめっ、そんなぁっ……あたし、もう無理っ、抑えられな――――ぐぉおおおおおお……っ!!」


 彼女のものとは到底思えない、まるで野獣のように野太い咆哮。それは絶大な衝撃波となって俺と絢奈を吹き飛ばし、背中からフェンスに激突させた。コンクリートで固められた灰色の床に稲妻のようなひび割れが走り、どす黒い瘴気が瑞季の周囲に立ちこめ始める。


「絢奈……っ」

「わたしは大丈夫ですっ! 先輩は……」

「俺も何とか無事だ! それより一体何が起こって――」


 自然界では有り得ない、何かとてつもなく異常な現象が起こっていることは明らかだ。そしてその中心に、何故か瑞季がいることも。


「瑞季先輩を保健室に連れて行きます」

「保健室!? でも、今はそんな場合じゃ……」

「大丈夫です。先輩は下がっていてください」

「何をする気だ、絢奈っ! 俺も一緒に――」


 顔をしかめながら起き上がった彼女は、有無を言わせない調子で俺の前に立ちはだかった。


「先輩。気持ちは分かりますけど、保健室に行く女の子はついてきて欲しくない時もあるんですよ……」

「いや、お前一人じゃ……っ」


 そう言いかけた俺の言葉は続かなかった。

 本能的に悟ってしまったからだ。男とか女とか、先輩とか後輩とか、そういう問題ではないのだと。この異常な状況に抗う力を、俺は欠片も持っていないのだと。


「ごめんなさい、先輩」


 絢奈の華奢な背中から、まばゆいばかりの光が溢れ出す。それは七月三日の夜に見た、あの金色の燐光に似ているような気がした。



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