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第9話 勉強会。

「お邪魔しまーす」

「どうぞ。外は暑かったか?」

「風があって涼しかったよ。それより……どう?」


 七月八日、土曜日。俺は何年かぶりに瑞季を家へ上げていた。グレーのバッグを肩に掛け、白いワンピースに身を包んだ彼女は、いつもよりどこか大人っぽく見える――そう言うと、瑞季は満足そうに鼻を鳴らした。

 時刻は午後一時過ぎ。今日も今日とて休日出勤している親父は、あと四時間ほどで帰ってくるだろう。親父には瑞季が来ることを一応話してある。もっとも二人は顔見知りで、話したことも何度かあったはずだから、万が一鉢合わせても俺が小言を言われるだけで済みそうだが。


「おぉー。リビング、変わってないねー」

「よく覚えてるな」

「そりゃあねー……そうそう、お昼はもう食べた?」

「インスタントラーメン。瑞季は?」

「あたしは近くでハンバーガーを食べてきた。栄養補給はバッチリよ」


 リビングで勉強しようかと思っていたのだけれど、俺の部屋の方が良いと瑞季が言うので、リビングから椅子を一つ持ち出して二階に上がった。ここも全然変わってないね、と笑われる。最後にこの部屋で二人きりになったのは、中学一年の夏だっただろうか。


「あ、でもフィギュアはなかったかも。これ、去年放送してた『莉子理子リコリコ』の錦戸莉子ちゃんでしょ?」

「へぇ、瑞季も見てたのか」

「うん、超ドキドキしたよねー! それにしても、へぇ……颯太って錦戸ちゃんみたいな女の子がタイプなのかぁー」

「いや、井之上理子ちゃんも普通に好きだけどな」


 アニメを布教しておいて良かったなと思いつつ、二人で勉強するには少し小さい学習机に教科書とノート、参考書、ワークを広げる。最初の教科は俺たっての希望で、俺の苦手科目かつ瑞季の得意科目である数学になった。それぞれ自分のペースで問題を解いていき、ときどき解答を見せ合うというスタイルだ。一人ならすぐに集中力が切れて心も折れるテスト勉強も、二人なら――瑞季と二人なら、いつまでだって続けられるような気さえした。


「あのさ」

「どした?」

「ここの因数分解なんだけど」

「あー、因数定理ね。xに代入して左辺が0になる数を見つけるの。この問題は1ね」

「それは分かってるんだが……適当に代入してくしかないんだっけ?」

「候補を絞り込む方法もあるけど、定期試験ならプラマイ1、2、3くらい代入する方が早いんじゃない? 知らんけど――てかその筆算消すの勿体なくない?」

「残しても良いの?」

「いや良いでしょ……」


 軽いノリで瑞季に教えてもらうのが、俺にとっては凄く有り難かった。高校の教師というのは真面目なのか、どの先生も大雑把な解き方しか載っていない教科書をそのまま型どおりに解説するだけで終わってしまう。それで練習問題を解いて来いと丸投げされては、俺のように平凡な生徒は四苦八苦せざるを得ないのだ。自力で解くことも勉強なのだろうが、教科書とノートを見ただけで解けるなら高校に通う必要などないわけで。


「ねーにーぬーぬるぬれ……えーと、ねよ……?」

「おい色々間違ってるぞ」

「あれっ」


 一方の瑞季は早くも数学を終えて古文の活用表を音読しているものの、未だに覚え切れていないらしい。聞こえてくる限りでは、中間テストの時からあまり進歩していないような気がする。活用は基本中の基本だと思うのだが、この子は大丈夫なのだろうか。


「ナ変だろ? なーにーぬーぬるぬれね、だよ」

「えー……なんで最後は『ねよ』じゃないの?」

「現代人の俺に理由を聞かないで頂きたいな」

「じゃあこれ全部機械的に覚えるん? 無理ゲー過ぎ……」

「俺が覚えられたんだから瑞季だって覚えられるだろ」

「あのねぇ、いつも言ってるけど、颯太は自己肯定感が低すぎるんだって」


 お互いぶつくさ言いながらもちゃんと勉強する、きつすぎず緩すぎずのちょうど良い空気感。それは学校でも、中学生の時に辞めてしまった塾でも絶対に手に入らないもので。もし今ここに絢奈がいたらどうなるんだろう、とふと思った。


「絢奈ちゃん、呼んでも良かったのに」


 二時間くらい勉強した後、一旦挟んだ休憩タイム。リビングで紅茶をすすりながら、瑞季はまるで俺の心を見透かしたかのようにそう言った。


「いや、何か用事があるとかでな」

「用事?」

「ああ。詳しくは教えてくれなかったけど」

「そっか」


 結局その後も、俺たちは真面目に試験対策を続けた。同じ机で勉強したから距離感はそれなりに近かったものの、それだけだ。最近の瑞季にあった不自然な積極さはなく、今まで通り仲の良い幼馴染に戻ったような雰囲気だった。少し身構えていた俺としては拍子抜けだったが、平和なのは良いことに違いない。

 親父は思ったより少し早めに帰ってきて、瑞季と鉢合わせてしまった。あらかじめ話しておいて良かったと俺が安堵している間に、陰の方で何やらコソコソと密談している二人。その内容を何度問い詰めても、両者ともはぐらかすばかりだった。


「送っていこうか?」

「ううん、まだ明るいから大丈夫」

「そうか。じゃあ、また学校で」


 帰り際。玄関で軽く手を振った俺に、微笑んだ彼女が静かに呟いた。


「ごめん……あたし、そろそろ無理かも」

「ちょっ、今なんて――」

「……じゃあね、颯太っ!」


 呼び止める間もなく、瑞季は夕焼けの中へ駆け出していった。

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