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第4話 イーゼル。

「さっき絢奈が言ってた風景画はこれか……」

「はい。惚れ惚れしますよねっ」

「あたしも! なんかエモい」


 その日の放課後、俺は同じく美術部員である絢奈と瑞季と三人で第二美術室にやって来た。ここを訪れるのは一週間ぶりだ。うちの学校の文化部は全体的に結構緩いのだが、美術部はその中でもかなり緩い方である。それはさておき――。


「……これ、惚れ惚れするほどか?」


 俺が描いたというその水彩画を棚から取り出してみたのだが、曲がりなりにも美術部の人間を感嘆させるような出来ではなかった。確かに下手と言うほどではない。形もある程度捉えられているし、色具合も悪くない。しかしその絵は、端的に表現してしまえば「写真の劣化コピー」だった。上手く言語化できないことがもどかしいのだが、絵であることの良さ、味わいみたいなものがあまり感じられないのである。今の俺の絵がそこまでレベルが高いかどうかはともかく、方向性が全く違うことは確かだ。


「な、なな何を言ってるんですかっ!」

「そうよ。自分の絵を卑下するのは良くないって」

「これ、ほんとに俺が描いたんだよな……?」


 記憶が無いので分からないものの、瑞季が言うならそうなのだろう。自分で言うのもなんだが、俺はもう少し上手い絵を描けたような――。


「とにかく二人とも、もう少し審美眼を磨いた方が良いと思うぞ?」

「そんなぁ……っ」

「何それ、あたし今わりと傷ついたんですけどっ!?」

「あー、もしかして逆に俺のことを励ましてくれてたのか? 済まないな」 

「先輩……」

「いや、そうじゃなくてさぁ……」

「ん? 違うのか?」


 今度は呆れられてしまったようだ。つまり二人は、この水彩画を本当に素晴らしい絵だと思っているらしい。ちょっと言い過ぎたかなと思いつつも、二人には絵の善し悪しをしっかり判断できるようになって欲しいと思うのだ。


「なら、今度美術館でも行くか。大した解説はできないけど」

「ほんとですかっ!?」

「楽しみー!」

「お、おう……」


 絢奈と二人で美術館デートでも、と一瞬考えたものの、瑞季をハブるような形になってしまうのはよろしくないだろう。思いのほか二人からの受けが良いので、そのうち近くの美術館に行くのもアリかもしれない。絢奈への埋め合わせは別口ですることになるが。


 それにしても、この絵は本当に俺が描いたんだよなぁ……と、疑問と諦念が入り混じった複雑な気持ちになっている俺を見かねたのか、絢奈が俺の肩を軽く叩いてきた。


「それはそうと、先輩。折角ここに来たことですし、何か活動しません?」

「そうだよー。あたしたち美術部なんだし!」

「確かにな。でも、イーゼルは全部第一の方にあるし、そこでは先輩たちが真面目にやってるだろうし……」


 ここ、第二美術室は半ば作品置き場みたいになっている小さな教室であり、キャンバスを立て掛ける三脚の画架――イーゼルはここよりも広い第一美術室に置いてある。そこでは三年生の先輩たちがコンクールや文化祭に向けて真剣に制作しているので、サボりがちな後輩としては入りづらい。


「かといって外は雨だしなぁ……」


 ならば外に出てスケッチをしようかとも思いかけたのだが、窓の外はあいにく大雨だし――。


「何を言ってるんですか、先輩?」

「……え?」

「外、晴れてるじゃないですか」


 視線を絢奈の方へ一瞬向けてから、もう一度窓の外を見てみれば。


「なっ……!?」


 ついさっきまで雨雲に覆われていた空は晴れ渡っていて、水溜まりの一つさえ残っていない。まるで今までずっと快晴でしたと言わんばかりである。

 雨が降り止んだとか、ただの天気雨だったならともかく……俺が目を離したのはせいぜい三秒くらいなのだ。その間に大雨が止んで、雲一つ無くなるなんて。こんなことが有り得るのか?


「なぁ瑞季、さっきまでずっと大雨だったよな?」

「うん。それがどうかした?」

「いや、『どうかした?』って……大雨が一瞬で止んだんだぞ?」

「別に大雨だって止む時はすぐに止むでしょ。ちょっと大丈夫なの、颯太? なんかおかしくない?」


 狐につままれたような気分だった。瑞季が平気な顔で嘘を言うようなヤツじゃないことは、幼馴染だからよく知っている。その彼女に真顔で心配されたのだ。ならば、やはり俺の頭の方がどうかしてしまっているのだろうか?


「絢奈……お前、超絶晴れ女だったりする……?」


 頭を抱えてすがるように聞くと、絢奈はガッツポーズを作ってみせた。


「晴れ女っていうか……雨雲なんて、わたしの元気で吹き飛ばしちゃいましたっ! さぁ行きましょう先輩! 瑞季先輩も!」

「そうね!」


 軽やかに走って行く女子二人を、俺は三人分のスケッチブックやら水彩絵の具やら、荷物を抱えて追いかける羽目になった。  



 ***



「どうですか、先輩っ」

「うーん、なかなか悪くないと思う。木が全体的に傾いてるけど」

「あたしのは?」

「…………」

「な、なんで黙るのっ!?」


 高校のすぐ近く、小高い山の上にある公園の風景をスケッチすること一時間。描き上がった絢奈と瑞季の作品は、思ったよりは悪くない出来栄えだった。もっとも瑞季の場合、「彼女の画力にしては」という但し書きがついてしまうのだが。


「……まあ、確かに颯太の絵は上手いけど」

「やっぱり先輩の絵は凄いですっ」

「ありがとう。まあ、先輩たちに比べれば全然だが」

「何それ、嫌味かっ」


 幼馴染にはふて腐れた顔で、彼女には純粋に感動している顔で褒められて、嬉しくないわけがない。母は俺が一歳の時に亡くなってしまったし、父は真正面から息子を褒めるような性格ではない。だから、誰かに褒められるという経験がほとんどないに等しいのだ。正直言って照れくさかった。


「で、どうだ? 俺の絵とさっきの絵、結構違くないか?」

「そりゃあ、今の先輩の絵の方が断然上手いですよ。そのくらいは分かります」

「そうじゃなくてさ。作風だって全然違うと思うんだが」

「そ、そうですかねぇ……瑞季先輩はどう思います?」

「確かに違うかもだけど、高校生なんだし画風なんてすぐ変わるんじゃない?」

「おいおい、ずいぶん適当だな」


 納得はいかないものの、それでも良いかと思う自分がいた。

 楽しかったからだ。

 ここに来てから大して喋っていないのに、程良い距離でただ並んで座りながらスケッチしているだけなのに、その沈黙がこんなにも心地良いなんて。


「うわ、もう六時だ……そろそろ解散にするか」

「えー、まだ明るいじゃないですかっ」

「また明日会えるだろ?」


 まだ確たる証拠はないものの、夜神絢奈という少女には何かがある――そんな気はしている。でも、それが何だというのだ。俺が覚えている昨日までの日常では、こんな楽しさを味わうことは出来なかった。それで良いじゃないか。

 ふとスマホで時刻を確認して、俺は解散を宣言した。まだ夕暮れが始まったばかりではあるけれど、あまり遅れては二人の家にも迷惑がかかってしまうかもしれない。絢奈にも瑞季にもまた明日会えるのだし、一緒に絵を描く機会だってこれからもたくさんあるだろう。急ぐ必要なんてないのだ。少し不満そうな、そしてどこかはかなそうな顔をしている後輩彼女に、俺はなるべく優しく微笑んだ。


 この日、七月三日の日の入りは午後七時頃だということを、この時の俺は知らなかった。


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