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第3話 運命的な出会い。

「じゃあ、また後で」

「はい、先輩っ」 


 俺と絢奈が通う都立天王子てんおうじ高校の校舎は十年ほど前に大改修が行われたらしく、コンクリート打ちっ放しのモダンな雰囲気を漂わせている。一学年は四十人ずつの八クラスに分かれていて、首都圏の高校によくある特進コースみたいな制度は特にない。

 彼女には風紀委員会の用事があるそうで、俺のクラスとは中庭を挟んで反対側の二階にある職員室へ向かっていった。下駄箱で上履きに履き替えた俺は遠ざかってゆく絢奈の後ろ姿に軽く手を振って、三階にある二年一組教室へと階段を上った。それにしても本当に元気な子だな、と一人になってみて改めて思わされる。このたった十分ほどの間に、もう普段の一週間分くらいは会話したんじゃないだろうか。家ではもちろん、俺は学校でも誰かとつるんで話すことは少ない。強いて言えば――。


「やっほー、颯太。なんか朝から疲れた顔してんねー」

「おはよう、瑞季みずき。いやまぁ、ちょっと色々あってな……」


 窓際の自席に座ったところで声を掛けてきたのは、俺の幼馴染である有働瑞季うどう みずき。ベージュっぽい茶髪を肩口で切り揃えた活発系美少女である。身長は俺より僅かに低いだけで、女子の中では結構高い方だ。成績は学年でも結構上位に入っているし、運動だって出来るくせに、何故か俺と同じ美術部に入っている――が、正直言って絵はあまり上手くない。


「おっと、それは僕も気になるねぇ。いつも無表情の君に、いったい何があったんだい?」


 どこか芝居がかった口調で揶揄からかってきたのは上喜多悠翔かみきた ゆうと。高身長イケメンで運動神経抜群、しかも成績優秀という完璧超人だ。所詮俺とは住む世界が違うと思っていたのだが、実際の彼はモテ男を通り越して奇人であり、何故かこうして俺によく話しかけてくる。


「別に大したことじゃない。ちょっと記憶喪失になったらしいってだけだ」

「き、記憶、喪失…………」

「瑞季くん!?」

「瑞季? おい! 大丈夫か!?」


 俺が何気なくそう口にした途端、瑞季が顔面蒼白となって崩れ落ちた。危うく倒れかけた彼女の身体を悠翔が凄まじい反応速度で抱き抱え、俺にジト目を向けてくる。


「な、何だよ」

「はぁっ……まったく、君には配慮というものが無いのかね?」

「そう、だよ……びっくりしたじゃん……」


 クラス中の非難がましい視線が一斉に突き刺さってきて、流石の俺も合点がいった。


「驚かせてごめん、瑞季。記憶喪失と言っても、瑞季との思い出はちゃんと覚えてるから安心して欲しい」

「ほ、本当に……?」

「ああ。例えば中学二年のある朝、瑞季が何故か黒い眼帯をつけて――」

「いやぁああっ! もう分かったっ! 覚えてるのは分かったからそれはっ! それだけは言わないでぇええーっ!!」

「……瑞季くん?」


 困惑した様子の悠翔だが、一応理解はしてもらえたらしい。これまた四方八方から怨嗟えんさに満ちた視線が突き刺さってくる中、俺は今朝の出来事を二人に説明した。


「なるほど……絢奈ちゃんのことを……」


 自分事のように涙ぐんでいる瑞季ってやっぱり良い奴なんだなと思いつつ、俺は顎に親指を当てて考え込んでいる悠翔に目を向けた。


「確かにエピソード記憶障害というものは存在するよ。しかし、ある人に関する記憶だけが何もかも、すっぽり抜け落ちてしまうというのは聞いたことがないねぇ……もちろん僕は脳科学者でも何でもないから、有り得ないと断じることは出来ないが」

「やっぱりそう思うか……俺も不自然だと思っていてさ」

「だったらどうして記憶がないの?」


 そう言われると、結局のところ説明のしようが無かった。まるで何かの陰謀で、絢奈に関する記憶だけを巧妙に抜き取られたというのだろうか。でも、誰が何のために――?


「まあ、良いじゃないか。ねぇ、瑞季くん?」

「あたしっ!? そ、そんなことは……えっと……」

「そうだな。今はあまり深く追及しないでもらえると助かる」


 会話を打ち切った悠翔は何故だかニヤつき出して、頬を薄く染めた瑞季は何やら口ごもっているが、取り敢えず俺は胸を撫で下ろした。その時ふとポケットの中で小さく震えたスマホを取り出してみれば、それは絢奈からのメッセージだった。



 ***



「……屋上って立ち入り禁止じゃなかったっけ」

「大丈夫ですよー」

「自ら率先してルールを破っていく風紀委員って……」

「だってほら、他にも人はいますしっ」

「赤信号も皆で渡ればってやつか? 意外と悪い子なんだな、絢奈って」

「そうでしょうそうでしょう」


 昼休みに待ち合わせた屋上では、何組かのカップルが思い思いに散らばって昼食を口にしていた。ラブコメアニメのような青春が、こんなところに実在していたとは。この甘やかな光景を見れば、立ち入り禁止の屋上に足を運びたくなるのも確かに理解はできる。


「先輩っ」

「どうした?」

「わたし、ここで先輩と出会ったんです」


 可愛らしいポニーテールが涼やかな初夏の風にそよぐ。微かに揺れる鮮やかな空色の瞳に、俺はどこまでも吸い込まれてゆくような気がした。


「一か月前の先輩は、ここで風景画を描いてたんですよ。覚えてませんか?」

「いや……ごめん」

「いえ、良いんです。放課後に見に行きましょう。それで、先輩はちょうど一番奥にイーゼルを立てて――」


 屋上の端まで歩いていった絢奈は銀色の高い柵の傍に座り、持ってきたお弁当の包みを広げる。俺も彼女の隣に腰を下ろして、今朝食べた残りを適当に詰め込んだ弁当箱を開いた。七月上旬らしい陽射しを浴びたコンクリートの床はかなり温かくなっていて、あと一週間もすればいよいよ座れなくなりそうだ。


「――校庭で練習してる人たちとか、その奥の街並みを描いてましたね」

「それが俺と絢奈の出会いだって?」

「はい。実はその時、わたしは先輩が美術部の人だって知らなくて」

「あー……俺、結構サボってるからなぁ……」


 責めてるわけじゃないんですからねっ、と彼女は笑った。


「あの時はもう放課後で、他に人もいなくって」

「じゃあどうして絢奈は屋上に来たんだ?」

「風紀委員で見回りに――って言いたいところですけど」

「……青春?」

「ふふ、その通りですっ」


 校庭やその隣の体育館の方から響いてくる体育会系の部活の掛け声は、控えめに言って俺の性には全く合わないのだが、そんな自分でもそれに青春を感じてしまうのだから不思議なものだ。


「誰もいない夕方の屋上で、黙々と風景画を描いている先輩の姿……わたしはそれに凄く運命を感じちゃったっていうか」

「確かに運命的なシチュエーションかもな」

「そうでしょう? はい、あーん」


 平然と微笑みながら、それでも少し赤い顔をした絢奈が卵焼きを差し出してくる。うわもう来ちゃったかちょっと心の準備がまだなんだが、などと逡巡しゅんじゅんしている間に彼女の箸がぴくぴく震え出し、折角の美味しそうな卵焼きが落下しかけているので、俺は思い切ってその綺麗な黄色を口の中に入れた。


「……ど、どうですか?」

「うん、めちゃくちゃ美味い」


 卵焼き自体も超美味しいし、それを美少女にあーんされるというのがまた格別だった。ドーパミンがドバドバ分泌されているのが分かる。


「よかったぁ……頑張って作ってきた甲斐がありましたっ」

「そっか」


 お返しに俺もあーんしてやろうかと自分の弁当を見てみたものの、ミニトマトや冷凍食品のシューマイをあげるのは流石に少し気が引ける。幸せなことに、こんな素敵な彼女がいてくれるのだ。俺も明日からは本気を出して弁当を作ってこようと心に決めた。

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