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第2話 13番 ②

 薄緑色のカーテンが引かれる音がして、少女は緩慢な仕草でそちらを振り向いた。本日の定期回診は午前中には終わったはずだったが、何か不備があっただろうか。


「……?」


 だがカーテンの隙間からひょこりと顔をのぞかせたのは、ふわふわもこもこの羊の顔だった。黒く艶やかな大きな目を、天井の灯りが四角いハイライトで彩っている。理解が及ばず、少女はわずかに首を傾げた。

 その羊の向こうから、おずおずとくすんだブロンドを雑に流した青年が顔を出す。見覚えがあるその顔を見て、少女は二、三度まばたいた。ゆっくりと記憶をまさぐり、口を開く。


「先日の捜索でご一緒した方ですね。ご無事でなによりです」

「あ、ああ……」


 青年は腰が引けたような声で曖昧に頷いた。Bat13-13は首を傾げる。


「戦闘記録の提供が必要でしょうか?」

「いや、そうじゃないんだ。その……これを」


 名乗りも上げずに羊を少女の腕に押し付ける。ふわふわの毛に埋もれて一瞬瞠目した少女は、青年の手を離れた羊を訳も分からずに抱き留めた。


「これは……」

「ああ、これは火星羊のMr.ラムラックっていうキャラクターで……いや違う。ああ、違わないんだが……その、見舞いの品ってやつで」

「見舞い。羊が?」


 少女は生真面目な様子で聞き返す。コンラートの心はダラダラと大量の冷や汗を流し始めた。畜生ヘイデンのやつ。何が間違いナシだ。


「……失礼ですが、どなたかとお間違えでは? 私は戦闘用試作型クローンType_QP、シリアルナンバーBat13-13です。このようなものを頂く必要性はないはずです」


 コンラートの心がすっと冷えた。ぬいぐるみ自体を拒否されているのではないという安堵と、相変わらず冷ややかなQP達の自己認識に対する拒否感が、水たまりの泥のように歪に混ざり合う。コンラートは膝を折った。ベッドに上体をもたせ掛けているBat13-13の高さに目線を合わせて、ヘーゼルの瞳を覗き込む。


「いや。お前にだ、これは。お前は俺の命の恩人だから」

「パイロットの保護は最優先事項であり、Type-QPの基本行動指針です」

「だとしても、だ。俺がお前に救われたという事実は変わらない」


 型押しのクッキーのように、戦闘中と同じことを言うBat13-13の台詞をコンラートは強い口調で遮った。困惑の色を強めたヘーゼルの瞳に問いかける。


「……その、気に入らないか? 嫌いだったら、その、すまない……持って帰るんだけど」


 ビシッと決めるつもりだったのに、その台詞は尻すぼみだ。女の子に贈り物などしたことがないのだから仕方がない。Bat13-13はじいっと羊の黒い目を見つめた。小さく華奢な手がふわふわの毛並みを撫でる。Bat13-13しばらくじっくりと羊——Mr.ラムラックのぬいぐるみを吟味していたが、目線をコンラートに戻して口を開いた。


「申し訳ありません。気に入る、などの評価は私には難しいのですが……手触りは、良好です」

「そ、そうか! そいつはお前のものだ。存分に撫でてやってくれると俺も嬉しい」

「承りました。撫でさせていただきます」


 どうやら受け取ってもらえるらしいということを理解して、コンラートは表情を緩めた。少女はおぼつかない仕草で羊の毛の上に手をすべらせ続けている。


「なあ、少し外に出てみないか」


 目線を落としてじっと羊の黒い目を見つめていたBat13-13は、機械を思わせる動きで顔を上げた。


「申し訳ありません。現在自力歩行が不可能なため、随行の要請にはお応えできません」

「勿論俺が連れて行く。明日には火星を出るんだ。ラウンジからでも、一度見ておかなくていいか」


 Bat13-13は僅かな時間、考え込んでから答える。


「出航は明日なのですよね。明日でも、いいですか?」

「おう? 構わないが……」


 コンラートは首を傾げた。少女は視線を空中に彷徨わせて、言葉を探している。はくはくと動く少女の唇が言葉を紡ぐのを、コンラートは黙って待った。


「火星を離れるところを、見たい……と、思いました」


 おずおずと、Bat13-13は言う。コンラートは一瞬驚いた表情を作ったが、すぐにそれを崩して大きく破顔した。


「オーケー、任せてくれ。明日はラウンジの特等席に連れていく。だが今日も出掛けていいんだぞ」

「いえ。連日では明日の外出許可が降りない可能性もありますので」

「そっか。まぁ無理するこたねぇわな。ってことはあんま長居すんのもよくねぇのかな」


 そう言って立ち上がりかけたコンラートに、Bat13-13が「あの」と声を掛ける。


「お? どうした」

「お名前を伺っていないと思いまして」


 しまった、と呟いてコンラートはくすんだブロンドをがしがしと掻き回した。再びしっかりと膝を折ると、姿勢を正してBat13-13を正面から見る。


「コンラート・リーヴス。これがお前が救った男の名だよ」


 * * *  


 翌日。Bat13-13は生まれて初めて、胸の奥で何かが踊っているような、掴みがたい感覚を得ていた。普段はベッドにじっと体を横たえていることに何の苦痛も感じないのに、尻が動きたがっているかのようにむずむずとする。その感覚の置き場が分からずに、大きな羊のぬいぐるみをただぎゅうと強く抱きしめた。


「……お、おお。随分気に入ってくれてみたいでよかった」


 永遠にも思える時間が過ぎた後、引かれたカーテンの向こうから車椅子を押して現れた男は、強く抱かれて斜めにつぶれている羊を見て目を丸くしている。そのくすんだブロンドの髪を見ると、むずむずする感覚がすうっと潮が引くように消えていった。

 力強い腕に抱きかかえられ、壊れ物のようにそっと車椅子に座らせられる。左足部分だけ中身がなく、ぺちゃんこの病衣を見てコンラートの表情に苦いものが交じった。膝掛けを掛けながら、彼はぽつりと尋ねる。


「まだ、痛むのか?」

「もうほとんど痛みません。マリーさんが言うには、培養槽での成長促進の影響で通常の人よりも細胞分裂が早いのだろうと」

「そうか。すごいな、お前たちは」


 コンラートは膝掛けを整えてBat13-13の頭に手を軽く置くと、立ち上がって車椅子を押して歩きだした。病室から出て、医療区を進むと行き交う医療班のメンバーはいちいち足を止めて声を掛けてくれる。その一つ一つに丁寧に返事を返しながら、ゆっくりと医療区を出た。

 医療区を出てしばらく進んだところで、Bat13-13はかすかな声で呟いた。


「私は、処分されるべきではないのでしょうか」


 出航直前で、通路を行き交う人員はまばらだ。少女の漏らした呟きは、コンラート以外の誰にも拾われていないようだった。どう答えようか考えあぐねているコンラートに向けてか、ただの独白なのか、少女は言葉を続ける。


「四肢のいずれかを失ったQPは基本廃棄処分です。日常生活の介助はコストが高すぎます」


 ヘーゼルの瞳は、虚空を見つめていた。軽く肩を落として、コンラートは訊く。


「それ、マリーさん達にも言ったのか?」

「言いました。ですが処分はしないと言われています」

「それじゃ、それが答えだよ。第13調査大隊ウチはお前たちを使い潰さない」

「何故ですか? 理由がわかりません」

「そうだなぁ。合理的な話をすれば、カドリガのシステムならお前はまだ十分戦えるだろ。パイロットは貴重だ。捨てる理由がない」

「ですが私たちは量産品です。合理的に考えるのであれば、壊れていない新品を連れていくべきだったと思います」

「そうだな、だからここから先は合理的じゃない話だ。命の恩人を処分なんてさせるかよ。感情論だ、これは」

「感情、論」


 少女は黙り込んだ。考え込んでいる風のBat13-13を、車椅子が淡々と運んでいく。


「なぁ、一つ提案があるんだが」

「はい」

「お前の呼び名を考えないか?」


 まっすぐ前を向いていたBat13-13が、振り向いてコンラートの表情を仰いだ。


「私のシリアルナンバーはBat13-13です。Bat13は第13調査大隊を示しますので、13番サーティーンと呼んでいただければそれで」

「合理的にいけば、そうだよな。だからこれも感情論なんだけどさ」


 コンラートは足を止める。ラウンジはすぐそこだった。出航に際して、ラウンジから外を眺める者は多い。出航前特有の熱をはらんだざわめきが、空気に乗って鼓膜を撫でた。


「連番の番号ってのはどうも人間扱いしてない感じがして嫌なんだ。だからこれは俺の我儘だ。俺はお前だけの名でお前を呼びたい。……嫌なら、そう言ってくれれば今まで通りにする」


 Bat13-13は困ったような顔をした。昨日から困惑してばかりだった。今までは、やるべきことが明確に決まっていた。生命維持をして、ブリーフィングを聞いて、戦いにいく。番号で管理され、ただ一つ持つこの身でさえ自分のものではなかった。そのことに違和感を感じたことはない。学習装置メモリ・インフューザーで書き込まれた常識に照らせば、これはだった。


「よく、わかりません……」


 彼女は知るべくもないが、それは共同碑の前でその姉妹シリーズのひとりが発したのと同じ台詞だった。コンラートの表情が悲しげに歪んだのを見て心臓のあたりをぎゅうと掴まれたような感覚に陥る。


「私が、嫌かどうかは……わかりませんが。マリーさんや、あなたが……今のような顔をすると、ここが苦しい感じが、します」

「あ……すまない」


 コンラートは慌てて表情を取り繕ったが、無理に口角だけが上がったその表情に、より一層胸が苦しくなった。人間の表情に関するデータは持っている。だが、悲しいのタグ付けがされた表情に、無理に嬉しいを上乗せするとそれはちっとも嬉しそうではないということを知った。選んでいいと、言うのなら。


「あなたが私の呼び名を決めることで、昨日羊を頂いた時のような顔になるのなら――決めて、ください」


 自分の名前のことはよくわからなかった。でも、昨日のあの顔ならもう一度見たいと、そう思った。


「——ミラは、どうだ。13は忌み数だが、お前は俺を守って、自分もちゃんと生き延びてる。この奇跡ミラクルが、今後もお前と共にあってくれるように」


 優しく緩めた表情で、コンラートが言う。その顔を見ながら、Bat13-13——ミラは、こくんと黙って頷いた。


「決まりだな」

「ひゃっ」


 その顔がにやっと笑ったかと思うと、突然車椅子が走り出す。小さな悲鳴を上げて肘掛を掴んだミラを見て、コンラートはカラカラと笑った。

 ラウンジに入ると車椅子に乗った幼い少女の姿に人波は自然に割れて、二人は窓際に難なく辿り着く。艦は既に、ゆっくりと動き始めていた。

 反重力装置で重力圏から脱するため、振動も轟音もない穏やかな離陸である。エレベータに乗っているかのような、静かな上昇だった。赤い砂の大地が遠くなる。タルシス台地にはいくつものドームが連なって、しゃぼんの泡のようだった。もうあの泡のどれに研究所があるのかもわからない。


「広いだろ、世界」


 空気が澄んでいく。きらめくしゃぼんの泡たちが、火星の濁った空気の中に沈んでいった。何か答えなければ、と思ったが、喉の奥からはただ吐息だけが漏れた。コンラートは勝手におしゃべりを続けている。


「改めて、第13調査大隊にようこそ、だ。さっき、13は忌み数だっていったろ?オレらがなんて呼ばれてるか知ってるか?」

「いえ……」

「不幸の艦隊だよ。まーだいたいアサクラさんのせいだよな。確かに訳アリは多いんだけどさ……」


 楽しげに話を続けるコンラートの声は脳を上滑りしていく。今のこれを不幸と言うのなら。いつまでも不幸13番でありたいと、そう思った。

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