なんだか酷く
薄緑のカーテンに区切られた狭い空間には、沈黙と消毒薬の匂いが満ちている。片肘をついてもそもそと身を起こすと、点滴のチューブがぴんと張った。
ナギはちらりと腕に目をやると、躊躇いなく針を引き抜く。たぱたぱと細い針の先から透明な雫が散った。白すぎるその肌の肘の内側だけが、繰り返しルートを取られたせいで黒ずんでいる。黒ずみの中央にぽつんと浮かんだ
カーテンを少しだけ開けて左右に素早く目を走らせる。誰も居ないとみるや否や、猫のような動きでするりとカーテンから抜け出した。足音を殺して素早く医務室の扉に歩み寄る。扉の脇にあるセンサにバングルをかざすと、控えめな駆動音と共に扉が開いた。再度首だけ出して、左右を確認。人影がないのを確認してととと、と廊下に駆け出した。
裸足の足にリノリウムの床がひやりと冷たい。柔らかに足裏を押し返す床の感触が、火照った身体を冷ましてくれるようで心地よかった。包帯だらけの身体のあちこちが一歩足を踏み出す度にきしきしと悲鳴を上げるが、黙殺して医務区画を駆け抜ける。身を低くして上半身に動きを伝えず、最低限の動作で走るその所作は傭兵時代に身につけたものだ。医療班の詰め所の前を素早く駆け抜け、医療区から出るための最後の扉を開けるためのセンサにバングルをかざした時だった。
ビーッと拒否感の強いアラームが鳴り響く。
「やっべ」
ナギがそう呟くのと同時に、詰め所のほうから「こらーっ!!」とマリーの叫ぶ声が聞こえてきた。アラームは鳴ったものの、扉自体は開いたのでそのまま逃げだす。後方でだん! と足を打ち鳴らす音が聞こえ、思わず振り返ったその視界いっぱいに蜘蛛の巣のようなネットが広がった。
「嘘でしょ」
咄嗟に避けようとしたが叶わず、対人制圧用の特殊ネットがナギの全身を包みこむ。ネットの端につま先を引っ掛け、バランスを崩しながらもうまく受け身を取りながら転がったナギは、流れるような動きで足をまさぐり「あっクソ、ナイフがない」とぼやいた。着せられているのは簡素な病衣なので当たり前である。ナギはしばらく絡まりがひどくならないように慎重な動きでネットの中でもぞもぞ動いていたが、やがて諦めたように肩を落としてむっつりと近づいてくるマリーを見上げた。靴音高く駆け寄ってきたマリーは、バズーカ型のネットランチャーを肩に担いでいる。
「何そのえっぐいの。患者に向けて使うものじゃないでしょ」
「だ・れ・の・せいで配備したと思ってるのかなぁー?」
そう笑顔で答えたマリーの目は全く笑っていない。笑顔を絶やさないタイプの医療班長はネット越しにナギの細腕をむんずと掴むと、バングルのバイタルデータを紅い瞳に突き付けた。
「いたたた」
「39.4度! よくそれだけ動けるわね。呆れるわ」
だがナギは反省する様子もなく、ペロリと舌を出して見せる。
「部屋に帰りたいんだよ。ナイフも
「この
マリーは苦虫をまとめて数匹噛み潰すと、笑顔を消して
「あのね。今何人治療中か分かってる? いつ容態急変してもおかしくない人が何人いるか分かってる? あなたと押し問答してる間に誰か急変して手遅れになったら責任取ってくれるの?」
畳み掛けるように詰られて、ナギの目が丸くなった。医療区からはしょっちゅう脱走しているナギだが(そしてそれはたびたび成功していた)、ここまでマリーが神経を尖らせているのは珍しい。
「はいはい、戻りますよぉ。ボクなんかほっといて寝ればいいのに」
「そういうわけにはいかないわよ」
ぐるぐるとネットを腕に巻き付けて回収しながら、マリーはさも当たり前のように言った。律儀だね、と言い置いてナギは脱走してきた道を戻る。扉を開けてカーテンを引き、ベッドに座り込むと大きなため息をついた。右手を軽く握ったり開いたりしながらその手をじっと見つめていると、ぱたぱたとマリーが部屋に駆け込んでくる。
「痛む? 痛み止め足そうか?」
「そんなに痛くないよ。ちょっと目が冴えちゃっただけ」
そう? と言ってマリーはナギの腕を取った。点滴のルートを取りながら尋ねる。
「寝れてないなら一緒に眠剤落とすけど」
「いらない。部屋に帰れば寝れるんだけどなぁ。点滴まだ要るの?」
「あと少しなんだから我慢しなさい」
「はいはい……」
手早く点滴を打たれ、仰向けに転がされる。薄い上掛けを掛けられながら、ナギはぼんやりと天井を見上げた。もう脱走しないでよね、とぷりぷりしているマリーに軽く手を振ってカーテンから追い出すと、やることがなくなってしまった。仕方なしにカーテンのランナーの数を数える。52個。繰り返し数えて脳に刷り込まれているその数字は、今日も変わらず52だった。
遺伝子欠陥を抱え、生理機能に問題のある体は定期的な投薬治療が必要だった。幼い頃はさほどでもなかったが、特に宇宙空間での戦闘に従事するようなってからその頻度は増している。医務室には第二の家ともいえるレベルで入り浸らざるを得なかったが、正直もううんざりだった。今日だって大した傷でもないのにこうして寝心地の悪いベッドに押し込まれている。包帯を巻いたまま戦場を駆け回っていた頃が懐かしかった。
起点を変えて再びランナーを数える。四隅のそれぞれから数えて一巡したころ、ようやく瞼がとろりと重くなってきた。熱に火照った体は重怠く、首の付け根のあたりからずぶずぶと異世界に沈み込んでいくような感覚を覚える。墜ちていくのに任せて、ナギは静かに意識を手放した。