その夜、自室で寝具に包まっていたハイドラはどうにも眠れず部屋を出た。緑の誘導灯だけがぽつぽつと灯って薄暗い通路は、暖機もしていない今はしんと静まり返っている。耳に痛いほどの静けさの中に、自分の歩く足音だけが響いた。足を切断された時のQPの絶叫はまだ耳の底にこびりついているようで、静かな場所ではそれはより顕著だった。
人間のパイロットの盾になることをまず刷り込まれている彼女達は、侵食や致命傷を受けることがとても多い。浸食を受けたパイロットの乗る機体は、たいていは自爆して敵の戦力を削ぐことに使われた。医療用ナノマシンがインストールされていないのは、彼女たちの四肢を切断するまでもなく殺してしまうからだ。欠損したクローンの治療も、介護もコストに見合わない。自律して食事を取り、排泄を行い、コックピットまで歩いて行けることが彼女達の価値だった。
だからQPの断末魔は大抵激しい戦闘音や爆発音にかき消されてしまう。戦闘が終わってから、静かな回線の中に絶叫が響く経験は初めてのことだった。彼女――Bat13-13は一命を取り留めたというが、あの凄まじい叫び声を上げていない個体のほうが死んでしまったという事実がまたかえって恐ろしい。
誘導灯の作る影が少し揺れたような気がして、ハイドラは眼を眇めた。面白がって幽霊という存在を彼に教えたのは研究所の職員だ。その時は魂の在り方として面白いものだと思っていたが、この暗い中一人で歩いているとそれは冷たい恐怖となって静かに心臓を締め上げた。火星ではたくさんのQPが死んだ。オリジナルから分かたれた彼女たちの魂は、どのような在り方をしていたのだろう。複製された魂は、それぞれ個別の意思を持っていたのだろうか。死んでしまった彼女たちは人間を恨んで、今もこの火星を彷徨っているのだろうか。
突然ひそやかな少女の声が耳を撫で、ハイドラは背筋を凍りつかせた。時間は日付を越えて、深い夜の底にある。人の気配を感じられない通路の先から、かすかに聞こえてくるその声は淡いメロディを紡いでいるようだった。一瞬ぎょっとしたものの、よく耳を澄ませてみれば不思議と嫌な感じはしない。
歌声に誘われるように、おぼつかない足取りでハイドラは通路を進む。淡いメロディは、耳にこびりついたQPの絶叫を優しく溶かしていくようだった。通路を抜けると、士官用のラウンジがある。外の景色がよく見えるそのラウンジは、この巡航艦フェニックスにおいては誰にも平等に開かれていた。
砂に濁った空には小さな月――フォボスが浮かんでいて、ラウンジに薄明りを投げかけている。ぼんやりとした光が降り注ぐラウンジの椅子に腰掛けて、栗毛の少女が歌っていた。桜色の唇がメロディを紡ぐたびに、小さく揺れる頭がふわふわの栗毛を揺らす。
ラウンジの入り口に突っ立ったまま、ハイドラは呆気に取られた様子でその姿を見つめた。
「——綺麗だ」
我知れず、そんな言葉が喉を駆け上がる。唇から滑り出たその台詞は少女の耳に届くのに十分な音量をしていた。ぴたりと歌がやみ、クピドがはっとした表情を振り向ける。
「ごめんね。起こしちゃった?」
少しばつが悪そうな顔で、少女は言った。ハイドラはかぶりを振る。
「ぼくが部屋を出てうろついてただけなんだ。そんなに遠くまでは聞こえてないと思う」
「そっか。良かった」
そう言って安堵の表情を浮かべたクピドは、再びぼんやりとしたフォボスの姿に目を向けた。
「君が歌っているところ、初めて見た」
「好きなんだけど、
「ここなら、きっとみんな喜んでくれるよ。とても綺麗な歌だった。昼間も歌えばいいのに」
「ありがと。でもこれは、死んだ子たちを送る歌だから。今、ここでいいの」
「そっか」
静かに死者を悼むその姿に、先程幽霊の存在に怯えてしまった自分が恥ずかしくなる。ハイドラはクピドの横顔を見つめた。ふわふわした柔らかな栗毛の下で、黄金の瞳が輝いている。
「コンタクト、外してるの?」
そう問えば、少女はするりと椅子から降りてこちらへやってきた。二対の黄金の目が見つめ合う。じっと覗き込まれてわずかにたじろいだハイドラに、クピドはくすりと笑ってみせた。
「そ。あなたとお揃い」
「……ぼくのせいで不自由をかけてて、ごめん」
「コンタクト付けるくらいで不自由なんて言わないよ。でも、もう要らないかもね」
クピドのヘーゼルの瞳は、コンタクトによって彩られた偽りの色だ。
ソラコ・アサヒナのクローンを作るにあたり、防衛軍の倫理委員会は一つの条件をつけた。それは“クローンであることがわかるようにする”というものだった。
アサヒナが死に、アサクラが去ってからハイドラがやってきた。乱雑に切られた鉄錆のような赤い髪の下で、黄金の瞳が輝く
ふいっとクピドは視線を逸らした。再びラウンジの中央に立つと、両手を広げて微笑む。
「ね、聞いていって。わたしとハイドラ君だけの、お葬式だよ」
「……うん」
ハイドラは手近な椅子に腰を降ろした。クピドは一、二度軽く咳払いをして再び歌い始める。金の瞳が、少女をじっと見つめた。
フォボスの月光が柔らかに照らす少女の白い喉と鎖骨は、ハイドラの底に眠っていた一つの記憶を呼び起こす。
ある日、突然服をすべて脱がされ小さな部屋に閉じ込められたことがあった。その部屋には先客がいた。先客であるクピドよりも成熟した体の栗毛の少女もまた、一糸まとわぬ姿だった。滑らかな白い肌を隠そうともせず、少女はぼんやりと自分を見ていた。何のタスクも与えられず、ただ二人で床に座り込んで過ごした。食事は与えられなかったが、なぜか部屋には甘い匂いが立ち込めていて、ただただ不快だったことを覚えている。
二人でただ身を寄せ合ってどれくらいの時間が過ぎたのかはわからなかったが、空腹と渇きで少女が気を失ったことで“実験”は中止された。精神だけが先行して成長していたハイドラは、その時何を求められていたのかに薄々は気が付いていた。だが狭い部屋に繁殖動物のように押し込められた彼女も自分もただひたすらに哀れで、到底そんな気にはならなかったし、そもそも彼の体はまだ幼すぎた。研究者たちは彼の腕に住まう異形がその欲望を開放することを期待していたようだったが、触手たちもまた沈黙を守っていた。
(ああ……なんてことだろう)
空に溶けていくような透明な歌声に包まれて、ハイドラは目を覆った。耳の底から溶け落ちたQPの絶叫に取って代わるように、目蓋の奥にクピドの肌の白さが焼き付いている。
(ぼくは、最低だ)
姉妹を悼むその歌が、脳を溶かして脊髄に流し込んでくるようだった。身体の芯が熱い。あの日は沈黙を守っていた触手たちが、今日はどうしようもなくざわめいている。
自覚してしまったその感情は、本来であれば甘酸っぱいものだったのだろう。だが、そこにはただひどく苦い絶望だけがあった。
ああ、ぼくは。
同じ目を持つ、きみに。ぼくは、