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第15話 境界の彼方に射す未来 ②

 床も壁も白に染め上げられた廊下を真っ直ぐ進んでいくと、奥の部屋の前に痩せぎすの男が立っていた。淡いブラウンの髪をきっちりと撫でつけたその男は、アサクラの姿を認めると白衣を翻して最奥の部屋の扉に入っていく。扉は男を飲み込んで閉まったが、アサクラが部屋の前に至ると再び音も立てずに開いた。


 部屋の中にはすりガラスのように濁った半透明の、円筒形の筒が幾つも並んでいる。それらの中央に立ったミルコ・マティーニは、舞台役者のような大仰な仕草でアサクラを迎え入れた。


「お久しぶりです、アサクラさん。あなたがここまで足を運んでくださるとは思ってもいませんでした」

「こないだ話したばかりでしょ、ミルコ。あんまりにも楽しそうで覗きに来ちゃったよ」

「おや、これは意外ですね。いつまでもも放ったらかしだし、とっくに興味が失せたものかと思っていましたのに」

「あの子には悪いことをした。あんな玩具ハーメルンを作るような楽しい保育園に預けておくべきじゃなかったねぇ……」


 笑顔で対峙した二人の男の、切れ長の涼やかな目と深淵に堕ちた昏い目の視線が絡み合う。


「ハーメルンは素晴らしい仕様だったでしょう。ええ、ここでの仕事は実に楽しいですとも。を返していただけるともっと捗るのですけれどね」

「返す? ここのケース全部にならもう十分でしょ」


 そう言ってアサクラは一番近くの円筒形の表面を掌で撫でた。つるりとしたガラスの内側、すりガラスのように見えたそこには満遍なくびっちりと人間の皮膚が張り付けられている。


あの化け物ハイドラの皮膚は浸食を受けず、アザトゥス体も傷つけない唯一の素材です。実に面白いとは思いませんか? 混ざって産まれた結果、あれらは共存してるんです。何が作用しているのかは未解明ですが——」

「はいはい、ご丁寧に説明をどうも。あの予測ばかり並べ立てたレポートなら読み込んでるから、君の見解は別にいらないよ」

「……そうですか。ともかく、今後のアザトゥス体の研究にあれは必要不可欠というわけです。貴方に持っていかれてしまったから代替品を作ろうとしているのですが、どうにもうまくいかなくて困っているのですよ」


 ハーメルンの装填室チェンバーにもハイドラの皮が使われている。反物質弾自体はアサクラが考案したものだったが、反物質を生成するためのアザトゥス体の保持がどうしてもクリアできずにお蔵入りとなった技術だった。ヴェネクスはアザトゥスの浸食を受けない素材だが、浸食を受けない代わりにアザトゥス体を焼き焦がしてしまう。そこに実にうってつけの素材が転がり込んできたといったところだろう。異生物アザトゥスの混ざった少年の身体の再生は異常に早い。無限に採れる夢の資材だと、この男は言っているのだ。


「年端もいかない子供一人がいなくなったくらいで立ち行かなくなる研究なら、やめたほうがいいんじゃない? 再現性のない仕様なんて子供の工作と同じだよねぇ。もう少しまともなことに頭を使えばいいのに」

「婚約者を被検体にしていたあなたに言われたくはありませんね」

「一緒にしないで欲しいな。あれはソラと僕の共同研究だったんだからね」

「了承なら私だって得ています。あの化け物は実に協力的ですよ。涙ぐましいじゃないですか、母のために人類のために、出来ることがあるならなんでもすると言ってくれたのです」

「世界を知らない子供に都合のいい価値観を刷り込むことを、世間一般には洗脳って言うんだよねぇ」


 ミルコは肩を竦める。


「子供ね。人間の子供ならそうでしょう。アレは人間ですか? かつての大戦時代では、人間そのものを使って様々な実験を行った。その中にはのちの医学の発展に大いに貢献したものもあります。人間ではないモノを使っている私など優しいものではありませんか」

「認識の相違だねぇ。視野だけでなく人間の境界まで狭いとは恐れ入った」


 ミルコは不愉快そうに眼をすがめてアサクラを見た。アサクラはもうミルコの事を見ていない。深淵の目は、濁ってほとんど見えない巨大な試験管の中をじっと覗き込んでいた。ガラス面に添えられた手の小指が僅かに震えているのを見て取って、ミルコはわざと踵を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ると、頭一つ背の低い矮躯を見降ろす。


「気に入りませんね」

「君はいつだって僕のことが嫌いだったじゃない。今更どうしたの」


 相変わらず振り返ろうともしないアサクラの腕を、ミルコは苛立ったように掴んだ。強く力を込めたわけでもないのに、アサクラの目元が苦悶の色に歪む。


「今度は痛覚遮断の研究ですか? 大方あの化け物のためでしょうが、成果は芳しくないようですね」


 振り払おうとするアサクラの袖を、ミルコの手が捲り上げた。無数の傷に爛れた腕が露わになった瞬間、アサクラがその手を振りほどく。


「やめてよ、ヘンタイ。僕にそっちの趣味はないんだから」


 袖を戻しながら、アサクラは半眼でミルコを睨みつけた。ミルコは両手を上げて肩を竦めながら半歩下がる。


「何故です、アサクラさん。あなたほどの頭脳があればもっと早く人類を救えるはずだ。その頭脳が乗った体を実験に使うなんて馬鹿げている。実験動物モルモットに情けを掛けて人が死んでいては本末転倒ではありませんか」

「倫理は踏み越える者がその咎を負うべきなんだ。ここでやっていることもね」

「無理ですよ。私は男ですからね」


 ねっとりとしたミルコの視線から逃れるように、アサクラは皮張りの試験管の合間を縫って歩いた。試験官の中では何かが蠢き続けている。肉がぶつかるような湿った音の中に、時折ごつんと硬いものが当たる音が混ざった。


「あれのクローンが作れれば話が早かったのですがね。いつも胚の時点でダメになってしまって無理なんです。だから同じ方法で作ろうと思ったんですよ」

「ふぅん」


 アサクラの掌が、試験管を撫でていく。


「でもやはり小型ではだめですね、知能が低すぎて食べてしまう。子猫を箱に押し込めても交尾をしないようなものなのでしょう」


 皮張りの円筒の内側に、ぺたりと5指を備えた手が張り付いた。その手に重ねるように掌を合わせて、アサクラは振り返る。


「キミはフィールドワークが嫌いだからねぇ。試験管の中だけでは彼らは本質を見せてくれないとも。一ついいことを教えようか」


 アサクラの唇が鮮やかな笑みを刷いた。普段の彼からは想像もつかないほど、明るく楽しげな笑顔。ミルコが眉を寄せる。



 そう言ってアサクラは円筒から手を離す。そこに貼り付けられた円形の機械を見て、ミルコの顔が引き攣った。アサクラは笑顔で軽く握ったもう一方の手を開いてその中身を見せる。黒光りする起爆装置の、真っ赤に塗られたボタンを躊躇いのない動作で押し込んだ。


「待――」


 閃光と爆音が連鎖する。耳を劈く警報音が鳴り響いた。アサクラが貼り付けて回ったお手製の小型指向性爆弾が円筒の内側に向かって次々と弾け、肉とガラス片と金属片が炎に交じって降り注ぐ。それらを一切浴びない位置に立っていたアサクラは、朗らかな笑みを浮かべてミルコを見上げた。


「ひ……」


 かろうじて素肌にアザトゥス体を浴びなかったミルコが、恐怖に歪んだ顔で肉液が染み込んだ白衣を脱ぎ捨てる。びちっ、と床の肉溜まりから雫が跳ねて丁寧に磨き上げられた皮靴に飛び散った。ひっ、と息を吸い込んだ痩躯がバランスを崩して後ろに倒れ込む。どうやら腰を抜かしたらしい。見開かれた緑の瞳の眼前に、ガラスの中からべちゃりと丸い肉の塊がまろび出る。アサクラは笑顔で言った。


「倫理は踏み越える者がその咎を負うべきだ。よかったね、ちょうど昨日、


 猥雑な悲鳴を無視して、アサクラは振り返った。ガラスの砕けた試験管から滑り落ちた、人間の裸体がそこにある。下半身を蠢く肉に覆われた、QPよりも成熟した肢体の栗毛の少女は、虚ろに濁った眼を宙に彷徨わせていた。靴底だけが金色の、擦り切れた靴が肉溜まりを踏む。じゅう、と酸を掛けたような足跡を残してアサクラは少女に近づくと、躊躇いなく彼女の頭を拳銃で撃ち抜いた。


「ごめんね」


 そうアサクラが呟くと同時に、研究室の中に防護服と火炎放射器を携えた一団が雪崩れ込んだ。ミルコに迫りつつあったアザトゥスを、業炎が薙ぎ払う。乱れた前髪を炎に焦がされながら、酷く混乱した様子でミルコが叫んだ。


「な……何ですかこれは! くそ、これはクーデターだ!」


 アサクラはくすくすと笑う。


「クーデター? 僕より階級の低い君が僕に何をひっくり返されるんだい? これは査察と処置だよ」

「クソ……お前らどこの所属だ!? 警備は何をしている!」

「キミは火星の英雄のつもりだったみたいだけど、第二研究所キミのやり方が気に入らない連中は火星基地にもふつーにいたのさ。警備の彼は……んだろうねぇ。ま。よーするにキミはぜーんぜん、あちこちから信頼されてなかったってこと」

「ミルコ・マティーニ中佐。失礼します」


 除染部隊の一人がやってきて、ミルコの足元に火炎放射を浴びせる。靴先のアザトゥス体と共にズボンの端が燃え上がり、ミルコは悲鳴を上げて飛び退った。除染隊員は躊躇いなく彼に近づくと、手にしたバケツの薬液を彼にぶちまける。そして手早くその痩躯を拘束すると、ヴェネクス箔のシートをぐるぐると巻き付けた。


「第一深度汚染の可能性あり。除染室にお連れしろ」

「はっ!」

「おい、私はここの所長だぞ!」


 金色の芋虫になってじたばたしながら数人の除染隊員に抱え上げられたミルコにアサクラは歩み寄ると、笑顔でその耳に囁いた。


「身綺麗にする時間をあげる。二週間後にもう一度査察を入れるから、それまでにカタをつけておいてね」




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