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第13話 ノクティス迷宮探査戦 - Phase 5:戦女神《イシュタル》 ①

『あれは――あれは駄目だよ、クピド』


 手負いの獣のような荒い息の中に混じった、ハイドラの声。いつも穏やかで落ち着いたその声が見せる初めての表情に、クピドの全身がぞくりとさざめいた。


『おま……要救助者だぞ! 何やってんだよ!?』


 正気に返ったライナスが怒鳴る。神経に接続して直接脳に叩きつけられる怒声は鼓膜をびりびりと震わせる感覚を覚えるほどで、クピドは動けない棺桶操縦モジュールの中で思わずわずかに首をすくめた。途切れ途切れの声で、ハイドラが答える。


『救助? それは人間にっ、適用される概念でしょう……っ!』

『人間だったろうがよ、しかもまだ生きてた!! 助けられたんだぞ!』

『あれが人間なもんか!』


 ハイドラが声を荒げた。もはやハイドラはぜいぜいと荒い息を隠そうともせず、喘鳴混じりの声で続ける。


『人の形をしていれば人間ですか!? あれはもう人間の枠外だ、人間の世界に連れて帰っちゃいけないんですよ!』

『んだとォ……』


 ライナスの声の怒りのボルテージが一段上がる。だがそれはハイドラも同様だった。再びトーンを落とし、低く淡々と紡がれるその声には、確かな怒りの感情が混ざっている。


『要救助者? あれに救いはありません。無理だ。もう助けられない。あなたは火星を知らなすぎる。ぼくの代わりになんて、できません』

『お前、何言って……』


 一転して困惑した様子のライナスの声に、クピドは瞑目した。あの閉じた世界エリュシオン第二研究所の中を知らないしあわせな人。苦い諦観と共に、その閉じた世界から自分は逃げ出せたのだという昏い喜びが胸を満たす。

 重い沈黙が降りた回線に、ナギの呆れた声が流れ込んだ。


『ねぇちょっと、済んだことの口喧嘩は終わった? 誰かを助けるって言うならこっちで命削ってる美少女軍団を助けてよね』


 表皮を剥いた両生類のような巨体から真夏の轢死体にたかるハエのように渦を巻いて現れる小型を、カドリガとヤタガラスが押しとどめている。第13調査大隊の誇るエースパイロットであっても数の暴力には押され気味のようだった。


『ご、ごめんナギ君。管制室フリプライ、こちら救助隊レスキュー、アンカー。初期母体と前駆巣アルファコロニーを発見、交戦中です! 応答願います。……管制室フリプライ? くそっ、駄目か』


 管制室への問いかけにはノイズが返るのみだった。自分も飛び出そうとしたクピドの視界の端で、ゆらりとハーメルンの砲身が動く。


『ぼくがやります』


 低く唸るような声でハイドラが言い、反物質砲が光の尾を吐き出した。瞬間、溶け崩れた輸送艦の陰からゆらりと数本の触手が伸びる。それは俊敏な動きで反物質弾を掴み取った。先端が弾け、肉が散る。塗りつぶされたような漆黒の巨大な目に、爆発の白光が散るさまが映り込んだ。


『……っ、はぁっ……はぁっ……』


 ハイドラの呼吸は過呼吸じみた、喘ぐようなものへと変化している。クピドは眉根を寄せた。撃ちすぎている。しかも無駄撃ちだ。

 反物質砲は強力な兵装だが、万能ではない。反物質弾はアザトゥス体に触れると対消滅を引き起こす。そのエネルギーは莫大だが、貫通はしないため触手や小型に阻まれてしまえば本体にはダメージを与えられない。

 この暗い穴の最奥で、この個体は着々と手駒を蓄えていたに違いない。皮を剥かれた両生類のような母体の足元の肉の壁には、無数の繭が連なっている。それは次々と食い破られ、渦を巻く群れとなって隊に襲いかかっていた。輸送艦の影には先程戦った蛸状個体も潜んでいる。これだけの“盾”に守られた相手に、初手から反物質砲を撃っても消耗していくばかりだ。

 クピドは射線を塞ぐようにハーメルンの前にカドリガを進める。


「ハイドラ君、待って。最後のダメ押しのために我慢して。お願い』

『クピド、でも……これはっ、これだけは……』


 少年の喘ぐような声に、胸が苦しくなる。魂が震えるような、焦りと怒り。それを持たない、いや持たなかったハイドラだから、今まで反物質砲の運用がうまく行っていたのだと思い知る。

 だが少年が今怒っていることに、クピドは泣きたくなるくらいの喜びを感じている。やっと、彼ものだと。少女は口の端に刷いた笑みを振り払って言った。


「わかってる。わたしだって怒ってる。確実に仕留めるために必要な時に撃てないと困るの。射線を通すから待って」


 こんなところで潰れられては困るのだ。クピドの眉が吊り上がった。神経遮断されているはずの指先がピクリと動き、不快なビープ音が棺桶を満たす。


「ケイさん、提案があります!」

『何かな! 手短にお願いします!』


 クピドは肉色の巨大な両生類を見た。ご丁寧にあばらの造形を浮かべ、小さな手を握ったり開いたりしているそれは、きょろり、きょろりと巨大な瞳を時折動かしているものの、それそのものが動く気配はない。


「ハイドラ君以外の全員で小型を抑えてください。あの蛸はわたしとシエロさんがやります」

『ハテ。お呼びが掛かりマしたか?』


 イドゥンから補給を受けていたシエロ機が、前線に戻らずこちらへやってきた。クピドは網膜に直接投影された、銀の機体をじっと見つめる。


「シエロさん。無茶なお願いをしたいんですけど、いいですか」

『囮ですカ? 引き受けましょウ』


 間髪入れずに返ってきたその台詞に、クピドは目を見開いた。


「……どうして」

『乙女のカンです。……冗談でス。貴女ならそういうかと思っテいました』


 滑らかな女性の声を操って肩を竦めるような調子でそう答えると、シエロはくるりと機首を翻した。


『サッサと済ませましょう。足はなるべく伸ばしまス。刺し身にしてやっテください』


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