かつて250日を要したと言われている火星への旅路は、今ではたった2週間の道程だ。既に艦は着陸に向けての減速フェーズに入っており、明日にでも火星の大地を踏めるはずだった。
(……ついてないな)
タイトなシルエットのパイロットスーツに袖を通しながら、ユリアは小さな溜息を落とした。身体の底に引き篭った臆病な心臓が、トクトクと小さなリズムを刻んでいる。
アザトゥスは衛星軌道上に“巣”を作る。文明が打ち上げた数多の
コックピットに身体を滑り込ませると、ヘルメットを被る。チカチカと数度光が瞬いた後、柔らかな起動音と共に鮮やかなARウィンドウ達が一斉に視界に躍り出てきた。視界の右端で、イコライザが細かく跳ねる。
「ユリア、大丈夫?」
「……平気。兄さんは随分落ち着いてるのね」
「ユリアと一緒ならお兄ちゃんには怖いことなんてないからね」
いつもより幾分低い、穏やかな兄の声がユリアの耳を通り抜けて臆病に跳ねている心臓の上に落ち、柔らかに緊張を融かしてゆく。ユリアは言葉を返さず、目を伏せると小さく息を吐き出した。カチリ、と小さく奥歯を鳴らす。それは彼女の出撃前の小さなルーティンワークだ。すっと
「
「こちら
出撃の時は、いつもユリアが先にコールする。案外臆病なところがある自分の準備が整うのを、兄はいつも待っていてくれるのだ。
「
穏やかな声の兄のコールが響く。安心にちょっぴりの悔しさを混ぜた感情が、少しだけ女の子に戻りかけたユリアの胸の奥でぐるぐると渦巻いた。
「ヘイムダル
「「ヘイムダル
左翼格納庫01番にヘイムダルのエンジン音が轟く。青白い光の軌跡を描いて、ユリウスの1号機と、次いでユリアの2号機が
「兄さん。ダイモスが近い」
ARウィンドウに表示された星図のデータによれば、現在地は火星からおよそ2万キロメートルの位置であり、火星衛星ダイモスの公転軌道の間近であった。ユリウスはレーダーシステムを起動し、走査データをじっと見つめる。敵を示す反応はまだなく、ダイモス方面からの規則的な信号だけを捉えていた。
「ダイモス監視塔の
「……よかった。フォボスの悪夢はもうごめんよ」
ダイモスとフォボス。火星が擁する二つの衛星。一年前、まだ訓練兵だった彼らが同期のほとんどを喪った戦いがフォボスで起きた。4年間にわたる太陽系防衛戦役において、最も肥大化した巣の殲滅戦。人員不足により訓練兵まで駆り出され、多くの犠牲と引き換えに辛くも勝利を収めたその戦いは「フォボスの悪夢」と呼ばれた。同じく火星衛星であるダイモスの近くで出芽個体が現れたとなれば、否応無しにその記憶が頭をよぎる。
「ヘルヴォルが来るまで離れないで。出芽個体を倒したなら小型がまだうろついてるかもしれないからね」
「ナギが全部倒したって言ってたじゃない。いつになく心配性ね、兄さん」
「ナギが正気じゃないのは知ってるけど、撃ち漏らしがいるかもしれない。この辺は火星の静止衛星軌道からこぼれてきたデブリもあるから食って大きくなってる可能性もあるし」
出芽個体は多量の小型アザトゥスを孕んでいる。出芽個体を倒すと、その小型アザトゥス達がその胎から一斉に飛び出してくるのだ。ナギの乗っている哨戒機ヤタガラスは、レーダー性能が低い代わりに陽電子砲とレーザー砲を積んでいる。レポートを見る限り陽電子砲で本体を倒し、レーザーで小型の殲滅を行ったようだが、単機でこれを行うことは正気の沙汰ではない。だがそれを平然とやってのけるのがナギというパイロットだ。それについてはユリウスも理解しているが、撃ち漏らしについての不安は拭い切れはしないし、それはユリアも同様のはずだった。彼女が「兄さん」と呼ぶときは、不安が大きい時だ。頼られている感覚に口の端が緩んでくるが、そこはきゅっと引き締めて、格好いい兄を気取ることにする。
ヘイムダルはヤタガラスとは違い、性能をレーダー機能に全振りしている。兵装は簡易な機銃と低出力レーザーのみだ。高出力の圧縮レーザー砲を搭載し、味方機の防衛を主とする戦闘機ヘルヴォルが合流するまでは、あまり危ない事はしたくなかった。
『
「ヘイムダル
「ユリア、ヘルヴォルが合流する。
「
後方からヘルヴォルが近付いてくるのを見て、ヘイムダルの1号機と2号機は並列飛行を解除し、互いに距離を取った。
「
「ウィングマン、カレンです。護衛を務めさせていただきます」
「よろしく、ヘルヴォル
「早速だけど、これより
「「
「ユリア、データリンク開始するよ」
「
ピン、と高い音が一つ鳴り、ARウィンドウが拡張された。一度
「位置補正。火星に向かって0.5ポイント修正」
「最高だよ、ユリア。……おっと、お客さんだ。ヘルヴォル、おもてなしを頼む」
「よしきた。ピザのデリバリーをくれてやる。照準補正を頼む」
「
レーダーに示された闇の奥に向かって、一瞬の閃光が走る。鮮やかな光はすぐに掻き消え、光の尾を引いた最後の位置でぱりっと小さなスパークが弾けた。ガコン、とヘルヴォルの排熱パネルが開く音と共に、「やったか!?」というアルシュの声が通信に飛び込んできて、思わず苦笑する。
「それ言っちゃう? ……だめだ、かすっただけだな。ユリア、1ポイント戻して」
「
ユリアの機体の滑らかな動きに呼応して、レーダーのノイズがもう1段階小さくなり、ユリウスは頬を緩ませた。並のフライトバディ相手ではこうはいくまい。
「完璧だよユリア、ありがとう。照準データ修正。……
「
「気が早いな。—―オーケー、反応ロスト。……ヘイムダル
「カレン、こっちもデータリンクを。もう1体来てる」
「
「……捉えた。撃って」
ピン、という電子音と共にレーダーに灯る白点が敵影だ。ちょうど太陽からの光は火星に遮られる時間帯で、視界は狭かった。目視できないそれを、レーダーを頼りに撃っていく。反応が消失すると、ポン、と違う音程の音が鳴った。
ピン、ポン。ピン、ポン。ピン、ポン。
「くそ、ゲームでもやってる気分だ。実感がねぇ」
「こちらの方がありがたいですよ。あの不気味な連中が弾け飛ぶシーンを目視したいと? 先輩がスプラッタがお好きだったとは知りませんでしたね」
「いや実感欲しいだろが、殺ってやった! ってさ」
「別に要らないですよグロいだけだし」
ヘルヴォルの二人が茶化し合っているのを聞き流しながら、ユリウスは検出位置のマッピングデータを睨む。撃ち漏らしは確かに懸念していたが、居ても1匹2匹だと思っていた。
「撃ち漏らしにしては多いな。群れか……?」
現在地はダイモスの公転軌道に近いが、静止衛星軌道もまた近い。
(ダイモスは直径12kmの極小の衛星だ。|ゴミ《デブリ》目当ての群れがいるなら、静止衛星軌道だが——)
ピン。白点が灯る。閃光が走る。ポン。ピン、ポン。
(——これは、違う)
「……兄さん。衛星軌道じゃない」
思考に被さったユリアの声に、ざわり、全身の血管がさざめいた。宇宙空間は寒いくらいなはずなのに、掌にじっとりと汗が滲む。
「……ダイモス方面を走査しよう。少し精度を落として、範囲を広げる」
「
ユリアの機体が更に離れていく。火星に遮られてダイモスに届く光はなく、その小さな輪郭は暗黒の中に溶けていた。確かにそこにあるのに見えないそれに、レーダーが形を与えていく。ピン、と一つ音が鳴ったが、白点はすぐに掻き消えた。レーダーに僅かな違和感を持った揺らぎがあるのを見て取って、ユリウスはダイモスの地形データを呼び出し、照合を試みる。
<地表面データ照合……データ照合度76%>
「ヘイムダル
「
「先輩、それセクハラですよ」
「
ユリウスとアルシュの機体がエンジンを吹かして加速する。ユリアとのデータリンクを解除すると、レーダー視界が一気に狭まった。ARウィンドウを押しやって窓の外を見る。ダイモス表面に設置された監視塔がそろそろ見えてきても良い頃合いだったが、相変わらず小さな衛星は闇の中に沈んでいた。目視を諦めてデータに向き直る。
「は……?」
ARウィンドウを眼前に戻したユリウスの指が、ぴたりと動作を止めた。何が起きているのか理解することを脳が拒否している。
監視塔のデータは、レーダー周期ごとにぐにぐにとその形を変えていた。
「どうした、ユリウス」
「待てよ……だって
問いかけへの答えではなく、独白に近い形でユリウスが思わず言葉を漏らした時。
火星の向こうから太陽の光が薄く差し込んできて、ダイモスの地表を淡く照らし出した。
「クッソ――」
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている――
あまりにも有名なその言葉が脳裏をよぎる。血と、肉と、臓物をぶちまけたような。おぞましい姿のアザトゥス構造体がべったりと地表面に広がっているのを二人は見る。そこから生えた無数の目が、ぎょろりと動いて彼らを見る。頭の中にあった石と砂ばかりの世界からはあまりにも乖離した鮮やかなその光景に、一瞬思考が停止した。
停止した思考の合間から、かすれた声が零れ落ちる。
「……駄目だ、ユリア」
「兄さん?」
まだ状況を見えていないユリアの不審そうな声は、ユリウスの脳に一気に酸素を送り込んだ。停止していた思考がフルスロットルで動き出す。
「戻れ。
「クソクソクソ! ここまでのスプラッタはお呼びじゃねぇ!」
即座に反転したヘイムダルを追って、肉の塊と化した地表面から大量のアザトゥスが飛び出した。追いついてきたユリア達の目の前で、反転が僅かに遅れたヘルヴォルがそれに一瞬で飲み込まれていく。
「け……
反射的にユリアが叫ぶ。喉の奥から絞り出した声は悲鳴に近く、自らの口が紡いだ
「下がれ下がれ下がれ! 全速力で反転しろ!」
「え、援護します!」
「ヘルヴォルじゃ無理だ! 防衛個体だ、あれにレーザーは効かない! いいから逃げろ!」
「ヘイムダル
「巣!? ヘルヴォルは大破か!? すぐに
「無理です、ロストです!大量の敵に飲まれて反応すら確認できません!」
ピン、ピンと機内に満ちる音はもはや死神の足音に等しい。
「