(終わった……)
連絡を切った霞が目を閉じると、気がゆるみ、そのまま意識が遠ざかっていく。
そして再び、時空を越えた霧の夢を見た。
◆◇◆
ピアノの音が聞こえる。眠る前にお母さんがいつも弾いてくれた曲だ。霧には音楽のことはわからないが、お母さんがそばにいる、という安心感がうれしかった。
曲が終わると、小さな霧はお話をせがむ。お母さんはゆっくりと話し始めた。
『昔、耳の聞こえないナミという女の子がいました。声を出して話すこともできず、体も弱く、病気がちでしたが、強い姉と賢い妹と一緒に、助け合って生活していました。
ある日、ナミの妹が嫁に行くことになりました。姉は妹に両親から譲り受けた家を与えました。ナミは妹のために、愛情を込めた料理を作りました。
結婚式の後、ナミは姉と家を出て二人で生活していましたが、今度は姉が嫁に行くことになりました。妹は姉に新しい家を与えました。ナミは姉のために花嫁衣裳を仕立てました。
そして、ナミが嫁に行く時が来ました。姉と妹はナミに何をしてあげられるのか考え、最高のプレゼントを用意しようとしました。ところが、ナミは二人に伝えました。あたしは何もいらない。二人はこれまで、自分の身を削ってでも、あたしに生きる力を分けてくれた。あたしの耳になってくれた。あたしの声になってくれた。あたしはこれまで、二人からたくさんの思い出をもらった……』
「それで…………どうなったの?」
『それからナミは幸せに暮らしましたが、ある時、重い病気にかかりました。ベッドの上で姉と妹と夫に見守られつつ、彼女は三人に伝えました。あたしは幸せだった。あたしには妹のような賢さもお姉ちゃんのような強さもなかったけれど、勇気のある旦那様に恵まれ、愛された。多くの人と長く、深くつながることができた。生きることの喜びを感じることができた。ひょっとすると世界で一番の幸せ者かもしれない。本当にありがとう。
そう伝えると、ナミは息を引き取りました』
「死んじゃ……死んじゃダメ!」
◆◇◆
(はっ)
夢か……。
目を覚まし、薄目を開けると、玲の顔があった。
「(あ、あれ? これって現実?)お、おはよう……」
しかし玲は黙って霞をにらんでいた。
気まずい空気の中、どうすれば良いのかわからない。
「(うわー、玲、超怒ってるって!)ちょ、ちょっと、レディの寝顔のぞくなんて失礼じゃない!」
「他に何か言うことはないのか?」
「(ひー! こわいよ~)ま、まなみんは?」
「雅也がついてる」
そう言いながらも、玲はずっと霞をにらんでいる。
「ひょっとして…………怒ってる……の…………かな?」
「今度は『階段から転げ落ちて』とでも言うつもりか?」
(ど、どうする? 霞)
だが霧は何も答えない。
「……どうやって、ここに?」
「お前がまなみんを見つけたのと同じ方法、と言えばいいか?」
「…………」
「何か言ったらどうだ?」
そう言うと玲は包帯の巻かれていない霞の左側のほっぺを引っ張った。
「
「やっぱり……まだ…………俺には心を開いてくれないのか?」
手を放した玲の目には、涙が光っていた。
余裕を見せていた昨日の玲の顔とのあまりのギャップに、心がドキンッと高鳴る。
「ううん…………解放された…………たった今」
観念して霞は答えた。
「黙っていて、ごめんなさい」
「そうやって…………いつも俺を置いて行きやがって……」
そう言うと玲は、霞の唇に口づけした。
霞の体の中を熱いものが流れる。
(ありがとう…………玲)
目を閉じて微笑む。
これまでの様々な思いが
(もう…………どこにも…………行かない)
◆◇◆
窓の外は夕焼け空。
病室の外には誰もいない。
雅也は椅子に腰をかけて真奈美の手を握っていた。
その真奈美は静かに眠っている。
しばらくして、外は暗くなった。
部屋の中にも明かりはつかない。
座ったまま眠る雅也の顔は穏やかだった。
そのほおから
やがて
空が次第に白み始め、部屋に朝日が差し込んだ。
――ピクッ
かすかに真奈美の手が動き、雅也が目を覚ます。
「まなみん?」
真奈美がそっと目を開けた。
「まなみん?」
焦点の定まらない目を向ける真奈美。雅也の鼓動が激しく高鳴るなか、
「えっ……と…………誰?」
不思議そうな顔で彼女は言った。
「そうだよな……長いこと…………眠っていたんだよな……長いこと…………一人で……戦って……いたん……だよな……」
雅也は、泣いた。
あどけなさの残る真奈美の顔を見ながら、泣いた。
「……あたしは…………誰なの?」
涙を拭きながら、雅也は無理やりの笑顔を見せる。
「きみは……木村真奈美ちゃんって子…………僕の…………大切な人」
「…………」
「僕に……幸せの意味を…………教えてくれた…………人………………なんだ」
そう言って一度ポケットに手を入れると、見つめる真奈美の手を両手で握った。
二人の手の中で握られた青いペンダントが、ほのかに光り……消える。
真奈美は目をつぶった。
「……ずっと夢を……見ていたのかな…………あたし……」
「ん?」
「なんか……いい夢だったなぁ…………ふわふわして…………あったかくて……」
「…………」
「誰かに……優しく…………抱かれているみたいで……」
「…………」
「あたしの心…………拾ってくれて…………ありがと………………雅也」
「……うん」
◆◇◆
車椅子に乗った霞が署長室で報告を終えた。
「わたしの憶測の部分も多いのですが、以上です」
「わかった」
二人しかいない署長室に流れる重い雰囲気。霞は動かない署長をじっと見つめていた。
「まだ、何かあるのか?」
「何だと思います?」
署長がそっぽを向く。
「…………」
「…………」
「聞かないといけないか?」
「はい」
「…………」
「…………」
「……お母さんに、会ったのか?」
「はい」
「……そうか」
署長は目をつぶった。
「わたしの中の……篠原霧の記憶………………消してください」
優しい表情で霞が言った。
「……そうか……戻ってくる気はないか」
「はい。高橋霞として生きていく自信が、つきました」
重い沈黙。
署長が立ち上がる。
「幸せになれ」
そう言って署長は後ろを向いた。
「今まで……ありがとうございました…………お父さん……」
霞は頭を深々と下げた。
◆◇◆
「私、なんで署長が署長なのか、わかった気がした」
霞のいない自宅で京子が聡に言った。
「ん? なんだ? 唐突に」
「アシュレイは見抜いていたんだわ。オールドタイプの適性を」
「相変わらずというか君、人のことを褒めているようにみせて、まったく褒めてないよな?」
「あら、私としては最大限の
「でも、怖いよな」
「何が?」
「タイムマインができてしまったら、俺たちの存在価値なんて、なくなっちまうんだろ?」
「そう? それはそれで、ロマンあるじゃない」
「また、似合わない言葉を……」
「だったら少しは私とデートしてよ! こんな美少女ほっとくなんて、罰が当たるわよ!」
「そうだな」
◆◇◆
真奈美の家の応接間では、良助が涼音の手料理を食べていた。
「…………」
「…………」
「……なんか言ってよ」
「うん、おいしい……」
「…………」
「で、でもお前、なんであの時かすみんも大学病院にいるってわかったんだ?」
「……だって、なんとなく」
「うそだろ? 知ってたんだろ?」
「……お姉ちゃんだから……わかったのかも」
「そうか」
「……もし玲くんが……良助のお兄さんになったら?」
「……ぜったい嫌だな」
「……雅也くんだったら?」
「もっと嫌だ。っていうか、その可能性はないからあきらめろ。それよりお前、おばーちゃんのことはいいのかよ?」
「……そうね。でも今は……良助と一緒に……いたい……かな」
「そうか」
短く答えると、良助は涼音の頭をなでた。
「……えへへ」
◆◇◆
初夏の大学の庭の木陰。あの日雅也が座っていたベンチで、玲は一人、空の紙コップを手にしてぼんやりと考えていた。
(あのとき、雅也を止めていたら、どうなっていたんだろうな?)
「そんなことばっかり考えてると、また誰かが嫉妬しちゃうぞ?」
突然後ろから耳元で、他人事のように
玲は思わず目をつぶって苦笑い。
「お待たせ。行きましょうか」
「……ああ」
玲は立ち上がり、霞の車椅子を押して歩き始めた。
時と霧の軌跡 完