タクシーを降りた二人は大学病院に入ると受付に向かった。
『いらっしゃいませ。診療でしょうか?』
「大学院木村敦研究室の田中と高橋と申します。脳神経科の草吹先生に3時からお時間をいただいているのですが」
大学同様、女性的な受付ホログラムに霞が答えると、直ちに担当者のスケジュールが確認された。
『うかがっております。12階の会議室までお越しください』
エレベーターまでの道筋が通路上に示されるとともにホログラムが頭を下げる。
会話のタイミングがつかめないまま、霞が雅也を見ると、彼は顔をあげて周囲をきょろきょろと見回しながら先に向かおうとしていた。
廊下には二人の足音だけが響く。病院とはいえ、ここ数年間でけがや事故が起こりにくくなったためか、患者も少なく
「大きな建物のわりに人の気配がないですね」
二人でエレベーターに乗った後、雅也が口を開いた。
「診察も治療もロボットが行う時代だもの。人間の医師は研究に専念しているみたいだし、病院にかかるのって出産の時くらいなんじゃないかしら?」
「あれ? 霞さん、ここに来たことあるんですか?」
「うん。一度だけ(この子、本当にマイペースなのね……)」
◆◇◆
会議室の中で二人が待っていると、ノックの音に続き、白衣を着た50歳くらいの男性が入ってきた。
「初めまして、草吹と申します」
「初めまして、木村敦研究室の田中です」
「同じく高橋です。本日はお忙しい中ありがとうございます(この人、以前会ったわね)」
「どうぞ、おかけください」
草吹という医師に勧められ、二人が椅子に座る。
「実は先生の研究されている脳波と記憶の関係について興味がありまして、ぜひ最新の情報を伺いたく」
さっそく雅也が切り出した。
「若い研究者の方に興味を持っていただけて光栄です。実際にお見せしましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろんです。行きましょう」
そう言って草吹は席を立った。
◆◇◆
草吹の案内でだだっ広い研究室に三人が入ると、壁際にさまざまな機器が置かれていた。いくつかの装置には電源ランプが光っている。
「いろいろな測定器がありますね」
興味深そうにあたりを見回しながら彼の後を雅也がついていく。さらにその後を歩く霞は、浮かない顔のままだった。
「はい。なかなか捨てられなくてね。今はほとんど、これだけしか使っていないのですが」
そう言って草吹が見せたのは見慣れた物だった。
「あれ? ヘッドセットですか?」
「はい。通常のヘッドセットです。これに私が開発したソフトをインストールして使っています」
「たったこれだけ? これで脳波から記憶が取り出せるんですか? すごい!」
「いやいや、まだまだなんですよ。実際に抽出できる記憶は破損していない視覚映像のみ。音声は抽出できていませんし、夢の世界や無意識なども具体化できません。おそらく脳の別の部分に格納されているのだと思います」
「将来はそれらも復元できる、ということですか?」
「そのために研究しているわけだからね。我々は」
「草吹先生、実際に取り出したサンプルみたいなものって、こちらで拝見することはできますでしょうか?」
霞が控えめに口をはさんだ。
「もちろんできますよ。これです」
草吹が操作すると、モニターに人間の視覚画像が映し出される。低い視野角から被験者の自宅とおぼしき光景が展開された。自分たちの自宅と比べて物が多く、時代を感じさせる。被験者は年齢的に自分たちの両親の世代なのかもしれないが、そのレトロ感がこのサンプルの実績を裏付けられている気がした。
「これは被験者が3歳の時の記憶です」
「かなり鮮明ですね」
雅也が食い入るようにモニターを見る。
「小さいころの記憶って、みなさん脳の中に残っているものなんですか?」
霞が草吹にたずねた。
「やはり人によって程度の差があります。この被験者は視覚優位者でしたのでこれだけ鮮明に出ているのだと思います。今後そのあたりもできるだけ掘り下げていきたいと考えています」
「ここに記憶として残っている以上は、『正確な記録』として認められる、ということでしょうか? 間違いなく事実と断定できるのかしら?」
「100%正確かどうか、と言われると答えにくい部分はあります。実際に目に映っているはずの対象物が記憶から抜けているケースもありますし。ホログラムなど、錯覚が関わってくるものは、そのまま再現されるとは限りませんので。ただ、夢などと混ざることはありえませんし、実際に被験者が見たもののみが記録されるのは間違いありません」
「先生、お願いがあるのですが?」
おもむろに雅也が言った。
「なんでしょうか?」
「このソフト、お借りすることってできませんか?」
「それは構いませんが、扱いにはくれぐれも気をつけてください。人のプライバシーに関わることですから――」
「はい! ありがとうございます!」
「それでは最新のものを準備しますね」
そう言って草吹は控室に入った。
◆◇◆
「すごかったですね。想像以上に」
帰りのタクシーでも雅也は嬉々として霞に話しかける。
「……そうね」
「草吹先生もいい人だったし、来てよかったですよ」
「……雅也くん」
「はい」
「もし博士の了解が得られなかったら、どうするの?」
「その時は僕が、自分で試してみます」
「そう……(そこまで言いきるなら、誰も止められないわね……)」
◆◇◆
研究室に戻った雅也は草吹から受け取ったサンプルデータをモニターに映す。
「被験者が3歳時の視覚記憶らしい」
「…………」
「こんなところまで研究が進んでいたなんて……」
モニターに映る光景に玲と真奈美は
「こうやって人間の記憶が掘り起こせる、ということは、歴史的にも『正確な記録』として認められる、ということか?」
「実際には『目に映っているはずの対象物』が記憶から抜け落ちる場合もあるらしい。ホログラムとか、錯覚が関わるものは、そのまま再現されるとは限らないんだって。でもこれを見る限り再現率は極めて高いよね?」
玲に答えながら雅也は、白衣のポケットからソフトの入ったメディアを取り出すと、全員に見せた。
「このソフトを一般のヘッドセットにインストールして起動させれば、さっきの視覚記憶データが取り出せる」
「そんなに簡単なのか!」
良助が驚いた。
「どうする? 玲くん」
霞が表情をうかがう。
玲は少し間をおいて話し始めた。
「雅也とまなみんは今晩博士と話して詳細を詰めてくれ。デックは涼音と一緒に演算サーバーとメディアカードの貸し出し申請に行ってくれ」
「了解」
涼音が即答した。
「……やるのか、やっぱり」
良助は少しためらって、言った。
「わたしは?(どうすればいいのかしら……)」
「霞さんはちょっと俺につき合ってくれ」
そう言って玲は立ち上がった。
◆◇◆
夕方のカフェテリアで食事をとる玲と霞。
周りにはちらほらとほかの研究員が見える。
「大学病院のことかしら?」
サラダを口に運びながら霞が切り出した。
「ああ」
「想像以上だった。雅也くん、興奮していたわ」
「研究員の規模は?」
「登録されている研究員の数は50人くらい。でもほとんど非常勤で実際には10人常駐しているかどうか、じゃないかしら?」
「どう思った?」
「論文は開示されているから誰を訪ねていけばいいかすぐにわかったけど、研究途中の成果をあんなに簡単に見せてもらえるなんて思いもしなかった。ソフトまでつけてくれるし、
「そうか」
玲はコーヒーを一口飲んで考え、しばらくしてから再び霞に聞いた。
「ところで、雅也の件、どう思う?」
「悩んでいるの?」
「ああ」
「玲くんがわたしに相談って、珍しいわね」
霞に言われ、玲が苦笑いを浮かべる。
「俺も博士が受けるとは思ってなかったし、まだ冷静になれていない気がするんだ」
「本気で博士を説得しに行ったの?」
「なんていうか……かえって博士をその気にさせるようなことを言ってしまったのかもしれない」
「あらあら――」
「すまない」
「なんであなたがあやまるの?」
玲に頭を下げられ、霞はびっくりした。
「反対じゃなかったのか?」
「そりゃ反対よ。大学病院の研究を見た上で言うけど、それでもわたしたちの取り組みとしては一線を越えていると思う。タイムマシンの研究との関連性もあるとは言えないし」
「…………」
「でも心配しないで。わたしはチームの意志に従うから」
霞が言ったそのとき、どこかで見た三人の男が二人のテーブルの近くを通りかかった。
「ん?」
「あ、どうも」
霞が頭を下げたその三人は二次試験の際、舌戦を繰り広げた相手だった。
彼らも研究員としてここに来ていたのだ。
「配属早々デートですか。いいねえ、若いねえ」
「はい。そうですが何か?」
霞がにっこりして男たちに言い返す。
「……最年少で研究員になったからって、あんま調子のんじゃねーぞ!」
「そうですね。肝に銘じておきます」
「…………けっ」
言い返せない三人はそのまま立ち去った。
「なんだ? あいつら」
「でも、安心した」
彼らの後ろ姿を眺めてつぶやいた玲に、霞がおだやかな声で言った。
「何が?」
「あなたも、人の子なんだなって」
「え?」
「だって玲くんて、人の考えていること、ずばっと当てるじゃない? ひょっとして人の心が読めるのかなって、怖くなるくらい」
「そんなこと……実際今、困ってるわけで――」
「だから安心したの」
そう言いつつ霞は、一口スープを飲む。
「そんな玲くんの目に映る雅也くんって、どんな男の子なのかしら?」
「そうだな……さっきの場面、もしここに雅也がいたら、喧嘩になってたかもな」
「雅也くんって、切れやすいんだっけ?」
「ああ」
「最初にあなたたちに会った時の、あれも?」
「そうだ」
「本当に人は見かけによらないわね」
「あいつを見ていると、俺もときどき怖くなる」
「…………」
「もし、自分が理性を失ってしまったらどうなるのか……」
「大丈夫よ」
「え?」
「その時はわたしが止めてあげる。ぶんなぐってでも」
霞はにこにこしながら言った。
「そうだな。そうしてもらえると、助かる」
玲は少しうつむいて苦笑い。
「かすみん、って呼んでくれていいわよ。わたしのこと」
「あ、いや、さすがにそれは――」
「じゃあ霞でいいわ。わたしもこれから玲って呼び捨てにするから」
「……わかった」