翌日、霞が良助の部屋を訪ねると、彼は一人で楽器の練習をしていた。
「何してるの?」
「バイオリン。息抜きだよ」
「あなた、思い立ったらなんでも始めちゃうのね」
「でも面白いぜ。人に聴かせられるようになるにはまだ時間がかかるけどな。で、突然どうした?」
「来年、わたしとあなたで研究職のテスト受けるから、その対策を考えようと思って」
あえて既定路線のように言ってみた。
「研究職のテスト? かすみん研究者になるのか? っていうかオレも?」
「わたしはなるわ。あなたはならなくてもいいけど、つき合ってよ。どうせ勉強してるんでしょ? 賢いんだからわたしが合格するならあなたも大丈夫よ」
しっかりと嘘をつく霞。
「そりゃ、まあ……いいけどさ」
「何か断る理由でもあるの?」
そう言われて良助が黙った。霞がジト目で返事をうながす。
「いやさ、オレだけ受かって、かすみんが落ちたら、嫌だなって」
「言ってくれるわねー。じゃあわたしに教えてよ。絶対合格できるように」
「どんな内容なんだ?」
「一次試験は高等数学と、社会学と、選択科目らしいの。わたしは選択を地理地学って決めてる。でないと来年に間に合わないから」
良助にデータを転送して説明を始める。
「来年に間に合わなければダメなのか?」
「そう。絶対に」
「でもかすみん、中学生になったばっかじゃね? 何研究すんの?」
「それは勉強してから考える」
「はあ? 順序逆じゃね? ほかに理由でもあるのか?」
「まあ、あるけど――」
「なんだよ、教えろよ」
「…………」
いつになく強気な良助に霞はたじたじになった。
「ひょっとして……研究員の中に、いい男がいる、とかか?」
「……実は」
「マジか……」
「……うん」
もうどうにでもなれ、と霞は開き直った。
「……わかった。つき合うぜ」
「あ、ありがとう」
良助の考えていることがわからなかったが、とりあえずなんとかなった、と霞は思った。
だが良助の機嫌は相変わらず悪そうだ。
「でね、高等数学の範囲はこんな感じ」
「なんだこれ? こんなのさっぱりわかんねーよ」
「わたしもよ。でもね、これ解いちゃう小学生がいるんだって、5年生で」
「マジか? どこに?」
「南区小学校……らしい」
しまった! 口に出して霞は後悔した。良助が興味を持ってしまったら、彼らに会いに行きかねない。
「マジか……オレも頑張るしかねーな」
「そ、そうね。で、社会学だけど、こんな感じ」
あわてて話題を変えながら社会学のカリキュラムを見せる。
「オレ、こんなの習ったことねーよ」
「大丈夫。わたしが授業で習ったことをそのまま伝えるから」
「何点くらいとれば合格するんだ?」
「それぞれ100点満点、計300点のうち、6割取れたら受かるらしいよ」
「え、そうなの? じゃあ大丈夫か」
「そ、そうね……(なんなの、その自信は?)」
「で、地理地学ってどんなの?」
「こんな感じ」
霞がざっと内容を見せる。
「…………」
「どう? 面白そうでしょ?」
「オレ……やっぱやめとくわ」
「えっ?」
「興味わかねー」
「良助……」
霞は良助の
自分に対して若干いらだっているようにも見える。
「ちょっと教えてほしいんだけどさ、今日のあなた、なんか変じゃない?」
「どこが?」
良助は口ではそう言ったが顔を背けた。
「なんか、これまでと違うというか……」
「…………」
無理矢理目を合わせると、良助は黙った。何か理由があることだと霞は直感した。
「……嫌なんだよ」
そう言って良助が目をそむける。
「何が?」
「……かすみんが……オレのことを……男として見てくれないことが」
「えっ?」
「なんていうか、オレはかすみんのことを姉貴だと思ってるよ。だけどかすみん、オレのこと、自分の子供みたいに扱うよな?」
「……ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「ずっと見下されてるみたいで、嫌なんだよ……本当は力になってやりたい、やりたいんだけど――」
良助を見ていた霞の目に涙が浮かんだ。
「え? かすみん……ひょっとして……泣いてるのか?」
「あ、あれ……なんだろな……」
思わず顔をそむける。
「いや、そんなきついことを言ったつもりはなかったんだけど、ただ、対等でいたいと思っただけなんだよ、オレ」
「……わかってる」
涙をぬぐいながら霞が続ける。
「ごめん、良助……それ、悪いのは完全にわたしなんだ」
「えっ?」
「ほら……あなた、天才じゃない。わたしのこと、あっという間に追い越していくしさ」
「…………」
「あなたが遠いところに行っちゃう気がしてさ……」
「…………」
「わたしの中で、姉として、バランスを取りたかったんだと思う。むしろわたしのほうが下だと思われたくなかったんだよ。それだけなんだよ……」
霞の本心だった。
良助の顔が赤くなる。
「かすみん……オレのこと、好きなのか?」
「……それって、恋愛対象ってこと?」
「……ああ」
「それは絶対ない」
霞は振り向いて無表情ではっきり言い切った。
「そ、そうか……そうだよな、姉貴だしな」
「……うん」
そう言いながらうつむく霞は、内心「やってしまったー」と動揺していた。
「試験のこと、ちょっと考えとくわ……」
気まずそうに良助が言った。
「うん」