この事件を境に、霞と良助を取り巻く状況は一変した。今村はすぐに少年院行きとなり、残りの中学生三人は今村に催眠をかけられていた、ということで自宅内保護観察処分となったが、その三人から噂が広まったのだ。
もっともそれは、
――高橋霞には手を出すな!
という話だったわけだが。
それ以上に大きな変化が起きたのは、良助の内面だった。この一件がきっかけになったのか、見違えるように日に日に成長していく。引っ込み思案だった性格もがらっと変わり、多くのことに興味を持ち始め、たちどころに吸収していった。
そして一年後、小学4年生になった良助は、相変わらずやせ形ではあるものの、一年前とは見違えるようにたくましくなっていた。
それと同時に霞は空手道場に通うのをやめた。最初の事件以降、表に出ることが任務にも、良助のためにも良くないと感じた彼女は極力目立たぬよう、裏方に回るように努めていたが、良助を守る必要がないと判断すると、すっぱりと道場に通わなくなった。髪を伸ばし始めたのもこのころからだ。決して色気づいたわけではなく、周りから年相応の女の子に見られた方が都合が良いと思っていた。
(ちなみに基本装備はほぼ毎日、黒のジャージだった)
そんなある日のこと、良助が言った。
「かすみん、次の大会、見に来てくれるんだろ?」
「いいわよ。でも勉強も頑張ってね」
「わかってるよ。で、今日はなんだっけ?」
良助の部屋の中、宿題を始める二人の声が響く。
◆◇◆
スカンディナヴィアへの移管後、一般社会に出た霞と良助にはそれぞれ、カムチャッカ所属の仮の両親があてがわれていたが、良助はそのことを知らされていなかったし、霞も言わなかった。二人はただ、同じマンションのお隣さん、という関係だった。血のつながった姉弟という事実も霞は絶対に口にしなかった。自分のせいで良助が記憶を失ったことも、自分が捜査官で、実は良助とは住む世界が違うことも、言えなかった。
だがそのせいで良助は、霞に淡い恋心を抱き始める。霞もそのことを薄々と気づいてはいたが、13歳になって仮想世界の蓋が外れれば、良助の気持ちは自分から離れていくであろうと思っていた。
◆◇◆
空手大会の当日、霞は一人で会場に向かった。この学区では理由があれば子供だけでの外出が認められていたが、元々カムチャッカの霞には特別な理由など必要なかった。
会場には小学生の空手少年たちが集まっている。その熱気や気迫を霞はなつかしく感じた。
道場の一団を見つけて歩み寄ると、すぐに良助の姿が目に入った。すでに道着に着替えていた彼は道場の模範生らしく、低学年の子供たちを取り仕切っていたが、霞を見つけると走り寄ってきた。
「かすみん、今日はオレ、やるからな!」
「うん、頑張ってね」
笑顔でそう言ったとき、良助の向こう側の子供たちの視線に気がついた。誰もこちらに近づいて来ようとしない。そしてその視線の先は久しぶりに顔を出した自分にではなく、良助に向けられていた。
(わたし、良助以外の子たちとは関わらなかったから気づかなかったけど、こいつ人望あるのね)
すでに良助のことを他人として扱うことに慣れてはいたものの、彼の意外な一面を見ると、なんだか誇らしい気持ちになる。
ところが、その良助から去り際に、
「オレがかすみんにふさわしい男だってことを、証明してやる」
と言われ、言葉が出なくなった。
(ひょっとして、優勝してわたしに告白とか考えてる? でも……まさかね……)
そんなことを思いながら霞が道場の面々から離れたところに席を取ると、同時に第一試合が始まった。良助はトーナメントを勝ち進み、あっという間に準々決勝まで勝ち上がる。
優勝候補を倒した彼に対する、周囲の指導者たちの声が霞にも聞こえてきた。
『篠原良助って、まだ小4らしいな』
『ひょろっとしてるが、速いじゃねえか』
『次の相手は小5の尾崎か』
『尾崎の体は小学生じゃねえな、デック・フライみたいな筋肉だ』
『……いつの時代の格闘家だよ』
大人たちの噂を耳にしつつも、霞は何か、どこからか自分が見られている気がしていた。
そんな中、良助と尾崎の試合が始まる。
しかし勝負は一瞬だった。
尾崎の一撃で良助は吹っ飛ばされたのだ。
(…………)
良助になんと声をかければよいのか霞はわからなくなった。
ところが良助のところに行ってみると、本人の表情は思ったよりさっぱりしていた。精神的なダメージはないようだ。
帰り道、霞がそれとなく聞いてみると、
「いや、世の中『上には上がいる』ってことだよ。オレが一人、道場でいい気になってただけだ。目が覚めたぜ」
そしてその笑みを浮かべたまま、会場の方に振り返り、自分に言い聞かせるように言った。
「来年、絶対あいつに勝ってやる」
◆◇◆
翌日、霞が勉強のために良助の部屋を訪ねると、彼は両手でダンベルを持ち上げていた。
「ちょっと、何やってるのよ!?」
「見りゃわかるだろ? 筋トレだよ」
そう言って汗をかく良助を前にして霞はため息をついた。
「そんなことやってると、一流にはなれないわよ?」
「なんで?」
「どうせ昨日の尾崎って子に影響されたんでしょ?」
「ああ。あいつのパワーに打ち勝たなきゃ。オレ、年はあいつと同じはずなのに、あれだけの力の差を見せつけられると、やらなきゃって気になっちまって」
「気持ちはわかるよ。でもね、あなたにとっては逆効果よ」
「どうしてだ?」
「あなたとあの尾崎くん、どう見たって元々の身体のつくりが違うもの」
「じゃあ、オレはあいつに勝てねーってことか?」
霞は首を横に振った。
「勝てるわ。でも、今のあなたは力に頼っちゃダメ」
「どういうことだ?」
「あなたの武器はスピードでしょ? 筋肉つけたらスピードが極端に落ちるわよ。せっかく今、バランスとれた身体してるのに。道場だってそんなに筋トレなんかやらせてないでしょ? ご飯しっかり食べて走ってストレッチしなさいよ」
「そんなんじゃあいつには勝てねー」
「来年には勝てるようになるよ」
「……なんでだよ?」
霞はもう一度ため息をつくと、真剣な目で言った。
「じゃあ良助、わたしに勝つ自信、ある?」
「そりゃあ、まあ……ないけど……」
「なぜ?」
「そーいえば、考えたこともなかったな」
「わたしの武器は、力でもスピードでもない。相手の動きを読み切るテクニック。でもね、それは良助にだってできることなんだよ」
「それってなんか……卑怯じゃね?」
霞はひっくり返りそうになった。こめかみをおさえ、気を取り直して再びさとす。
「じゃあさ、昨日の尾崎くんの試合、録画で全部見てみなよ。そしたらわかるから」
「何が?」
「何がって、『なぜあなたが尾崎くんに勝てるか?』が、よ」
良助は霞の言葉の意味がよくわからなかった。
「いずれにしても、筋トレはしばらく中止。身体ができていないのにそんなことやるもんじゃないわ。さっ、勉強するよ」
良助はしぶしぶ従った。
◆◇◆
霞が帰った後、良助は昨日のデータを端末で読み込んだ。
(かすみんはああ言うけどさ、どうやってあんな奴に勝てって言うんだよ)
そう思いながらも、霞に言われた通りに昨日の尾崎の試合を見る。
尾崎は一試合目からずっと、一撃で相手を沈めていた。そして準決勝、良助にとっては思い出したくもない一戦。自分もそれまでの相手同様、気持ちよく吹っ飛ばされる。
だがそれを見たとき、良助は初めて気がついた。
(こいつの勝ちパターン、全部一緒じゃねーか!)
尾崎はいつも、先に相手に打たせてから打ち返していた。わざと隙を作って相手を誘導し、筋肉の鎧で食い止めてからさらに踏み込んで繰り出される重い一撃は、間合いに入った相手を確実にしとめていた。
(けどいったいどーやって闘えと? やっぱ打ち合うしかねーじゃねーか)
良助がそう思う中、動画が進んだ。決勝の相手は6年生の西崎。自分のようにやせ形で背が高い。
(ってことは、最後まで同じパターンで決まりだな)
ところが試合は予想とは異なる展開を見せた。積極的に突きや蹴りを繰り出す西崎に対し、尾崎の反撃はまったく当たらない。素早い上にリーチの長い西崎がまるで、尾崎の動きを完全に見切っているかのようだった。
(なんだこれ? どーなってんだ?)
驚く良助が見ている中、勝負は突然ついた。相手にプレッシャーをかけようと尾崎が前に出たところで、西崎の蹴りがカウンター気味に入ったのだ。尾崎がヒザをつき、良助は自分の目を疑った。
結局、自分を圧倒した尾崎は優勝していなかったのだ。
(いやー、何が何だかよくわかんねーが、かすみんがすげーってことだけはわかったわ!)