「受けましょう」
博士は目をつぶって言った。
「本気なの?」
真奈美の目が大きく開く。
「はい。もちろん機密をもらさない工夫が必要ですし、今の脳波測定技術がどこまで進んでいるのかにもよりますが」
「でもさ、仮想世界の技術はどうなの? 脳波の解析がどこまでなのか、気になるんだけど」
「仮想世界の情報交換機能は脳波の感情的な部分から類推しているだけなんだよ」
「え、そうなの?」
「仮に視覚記憶を取り出せたとしても、人によって見る角度も違えば視力も違い、脳に残される色合いも保存精度も個人の映像記憶能力によって全然変わってくる。元がデジタル信号ではない以上、それらを整合させることは簡単ではない。おまけに音声や感情が別々ともなれば、そこまで徹底的にやるのは効率が悪い。だから脳波として基本的な心の動きを採取して、本人の行動や言葉と整合させ、デジタル情報に変換しているんだ」
「つまり『互いの共通部分を脳波でつないで共感につなげる』というのは、単純に『喜怒哀楽』の共通点を見つけていただけだった、ということか」
「そうです。技術的には仮想世界が開発されるよりも昔からあったものです。それでも意外に機能するから不思議なものですよね」
「なるほど」
納得したように玲がうなずく。
「じゃあさ、人間の記憶的な部分は今も使われていない、ということなのかな?」
「それは私にもわかりません。ブラックボックスなんです」
「え、そうなの?」
「真奈美、仮想世界の研究が人間の手から離れているのはなぜだと思う?」
「やっぱりプライバシーの問題かな? あたしだったら、絶対に他人に知られたくないもの」
「そう。だから、仮に脳波の面で進化していたとしても、人間が取り出すことはできないんです。ただ、外から仮想世界を見ている限りでは、進歩が著しいのはむしろアクションの側のようですね。人間の五感すべてが、どういったトリックでどう感じるか、というホログラム理論の方です」
「そういうことだったのか!」
「え? 玲ちゃん、今の話だけでわかったの?」
「あ、いや、なんでもない。なるほど、なんとなくですがイメージはつかめました。では大学病院の情報と総合して検討します。ありがとうございます。失礼します」
そう言って玲と真奈美は応接間を出ていった。
「これが運命……なんですかね」
残された博士が一人、つぶやいた。
◆◇◆
「まさかおじいちゃんが受けるなんてね。少しだけそんな気もしてはいたけど」
帰りのタクシーの中で真奈美が気持ちを口に出した。
「お前は怖くないのか?」
「なにが?」
玲が下を向く。
「……俺はあいつを止める自信がない」
「あたしが止めるわ」
「え?」
「今、はっきりとわかったけど、玲って一人でも大丈夫じゃない」
「は?」
「だけど雅也は違う。まったく常識ないし、誰かがついてないと危なっかしくって」
「…………」
「だから、いざとなったら、あたしが止める」
前を見据え、真剣な顔つきで真奈美が言った。自分に言い聞かせるように。玲はそれを微妙な表情で見ていた。
◆◇◆
玲と真奈美が研究室に戻ると、雅也と霞も帰ってきていた。
「どうだった?」
雅也が心配そうに聞く。
「ああ、許可をもらった。条件つきだが」
「マジか!」
良助が色めき立った。
「そっちはどうだ?」
「うん、今見せる」
そう言って雅也は大学病院から持ち帰ったサンプルデータをモニターに映した。
「被験者が3歳時の視覚記憶らしい」
「…………」
「こんなところまで研究が進んでいたなんて……」
玲と真奈美は驚愕した。
モニターには鮮明な視覚映像が映し出されていた。低い視野から見える風景は自分たちの自宅と比べて物が多く、時代を感じさせる。被験者は年齢的に自分たちの両親の世代なのかもしれないが、そのレトロ感がこのサンプルの実績を裏付けられている気がした。
「こうやって人間の記憶が掘り起こせる、ということは、歴史的にも『正確な記録』として認められる、ということか?」
「実際には『目に映っているはずの対象物』が記憶から抜け落ちる場合もあるらしい。ホログラムとか、錯覚が関わるものは、そのまま再現されるとは限らないんだって。でもこれを見る限り再現率は極めて高いよね?」
玲に答えながら雅也は、白衣のポケットからソフトの入ったメディアを取り出すと、全員に見せた。
「このソフトを一般のヘッドセットにインストールして起動させれば、さっきの視覚記憶データが取り出せる」
「そんなに簡単なのか!」
良助が驚いた。
「どうする? 玲くん」
霞が表情をうかがう。
玲は少し間をおいて話し始めた。
「雅也とまなみんは今晩博士と話して詳細を詰めてくれ。デックは涼音と一緒に演算サーバーとメディアカードの貸し出し申請に行ってくれ」
「了解」
涼音が即答した。
「……やるのか、やっぱり」
良助が少しためらって、言った。