「なっ!」
暗がりから突然声をかけられ、二人とも跳び上がった。近づく影に得体の知れない恐怖を感じた雅也は、思わず玲の腕をつかみ、
「逃げろ!」
そう言って駆け出した。
「ちょ、待てよ!」
体勢を立て直した玲と公園を飛び出すと、二人で住宅街の知らない道を走る。
後から考えれば気が動転していたのかもしれない。だが玲の話の後では冷静ではいられなかった。この世界の秘密を知ってしまった以上、捕まったらどうなるかわからなかった。本能的に危険だと思った。
後ろから音が徐々に迫ってくる。どこに向かって逃げれば良いのかわからないまま二人で走っていたそのとき、前から声が聞こえた。
『あんたたち、こっちよ!』
見上げると、向かいの明かりのついた民家の二階から、手を振る女の子が見えた。
迷う間もなくその家に駆け込み、二人でドアを閉める。
「「ハア……ハア……」」
「おやおや、大丈夫かい?」
白髪に白いヒゲを
「ど、どうも……」
老人は雅也の言葉にうなずくと、細い目をさらに細めながら二人を交互に
「君の指だね。出血に反応して巡回ロボットが出てきたんだろう。ちょっと待っててね」
そう言って奥に下がると、止血スプレーを持って戻ってきた。
「少し
腰を曲げた老人が、しわの少ない手で玲の指をとり、スプレーを吹きかけたとき、
――ピンポーン♪
玄関の呼び鈴が鳴った。
「ロボットかな。ちょっと待っててね」
老人は再び奥に下がるとインターホンで何か話していたが、すぐに戻ってきて二人に声をかけた。
「もう大丈夫ですよ。
「……え?」
「僕らのこと、知ってるんですか?」
驚いた二人が聞き返したとき、老人の後ろの階段を、色白のかわいらしい女の子が下りてきて言った。
「もちろんよ。おじいちゃんが『仮想空間』を作ったんだもん」
「「は?」」
唐突すぎて何のことか意味不明だったが、それ以上にこの子の、堂々とした態度にどう反応すればよいのかがわからない。
ピンクのパジャマ着で、肩にかかるくらいの赤茶けた髪を右手でかきあげながらとんとんと下りてくる。風呂上がりだろうか? 少し濡れた髪と首元の青いペンダントが光っていた。
声からして間違いなく、窓から二人に呼びかけた子だ。老人の前に出てくると、彼女は再び口を開いた。
「玲くんと雅也くんよね? 二人とも南区小学校?」
「そうだ。君は?」
玲が顔色を変えずに聞き返す。
「あたしは真奈美。女学院初等部なの。ここで立ち話もなんだから、お上がんなさいよ」
そう言いながら階段横のドアを開け、応接間らしき部屋の明かりをつけると、彼女は雅也に目を向けた。
「どうする?」
横目で玲を見ると、彼は不敵に言った。
「いいんじゃないか? せっかくだしお邪魔しようぜ」
◆◇◆
靴を脱いだ二人は、そのまま応接間に招かれた。低いテーブルを中心にソファが置かれ、入口の向かいにはピアノが見える。
「今、お茶をいれてくるわね」
真奈美と名乗った女の子はそう言うと奥の部屋に向かった。
「真奈美、浮かれすぎてこぼさないようにな」
「はーい!」
「さ、どうぞ」
老人にうながされ、二人とも向かいのソファに腰を下ろす。
「あの子も、私との二人暮らしが長いものでね。あと、帰りは気をつけて帰んなさいよ。ご自宅からここまではそう遠くないでしょう。フードデリバリーにぶつからないようにだけ気をつければいいから」
「ありがとうございます。けど、なんで僕らの名前をご存じなんですか?」
最初に聞くべきことを雅也は聞いた。
「君たちがマークされていたからね」
「「えっ?」」
「今日の6時間目の前に玲くんが『じゃあ、後でな』って言ったでしょ? あの言葉で君たちマークされちゃったの。教育システムに」
「ってことはおじいさん、教育関係の方ですか?」
「まあ、そうです」
答えながら老人は目を細めた。特に怒っているようには見えないものの、監視されている自分たちの立場が微妙だということは理解できた。
「うかつだった……俺としたことが」
「暗号、意味なかったね」
こめかみを押さえた玲にぼそっと答えると、雅也は老人に向き直って聞いた。
「僕たち、どうなるんですか?」
「どうって、何も。危険視されているわけじゃないですし。あの程度の行動ならシステムも特別なアクションは取らないでしょう」
そう言われても、緊張が急に解けるわけではない。巡回ロボットに追いかけられるのも、他人の自宅に上がり込んだのも生まれて初めての経験だ。しかし玲は息を整えると、老人にたずねた。
「で、それと仮想空間とはどういう関係が?」
確かに雅也にも教育と仮想世界の関連性がわからなかった。このおじいさん、いったい何者?
「ああ、昔の話です。最近はスカンディナビアを中心とした、教育システムの構造を研究しています。ただ、今となってはシステムが進化しすぎて、人が関与する余地はほとんどないんですけどね」
「なら俺たちが外出した理由まではわからない、ということか?」
「さすがにそこまでは。私が調べてわかったのは、お二人が南区小学校の6年3組の生徒で、成績がずば抜けて優秀、という程度ですよ。他には今日の一時間目のテストで玲くんが0点を取った、ということくらい」
「なにっ?」
ぎょっとする玲。
「そんなことまでわかるんですか?」
「ほとんどの人は知らないけど、初等教育のテスト結果は関係者に公開されていますからね。あのマークシート形式のテストで0点取れる子がいるってことは目立つんですよ。意図的にやるのは難しい。あと申し遅れました。わたくし、こういうものです」
そう言って老人はポケットから二枚の名刺を差し出した。
二人でそれを受け取り、まじまじと見る。
「木村
確認するように玲がつぶやいた。
「周りからは博士と呼ばれています」
「えーと、では博士、うかがいたいのですが、僕らのクラスの生徒って、みんな実在するんですか? というか、僕や玲のほうがおかしいのかな?」
自分の気持ちを整理するように、小出しに質問してみた。
「……その疑問にいつ気がつきました?」
聞き返され、言葉に詰まる。玲が言ったことはやはり本当だったのか? それをここでしゃべっても良いのか? と、絶望と不安を感じつつも、思考が追いつかないのがもどかしい。
「今日だ。本当は少し前から疑問に思ってはいたんだが、今日のテストで確信を
代わりに玲が答えたとき、
「あら、そうなんだ。あたしは前からわかってたけどね」
お茶を運んできた真奈美が会話に入ってきた。