(いつからこんな家族になったんだろ)
窓の外では昨晩からの雨が止んだようで、澄み切った外気が秋の訪れを告げていた。
しかし室内は、別次元のような
テーブルをはさんだ目の前には、青白くこけた母の顔。そして無精ヒゲで覆われた父。着古したパジャマと荒れた肌、ぼさぼさの髪に思わず目をそむける。
間にポリポリと漬物をかじる音だけが響く。
――カチャ
耐えきれなくなった雅也は箸を置いた。そして、
「じゃ、行ってくる」
小声でそう言うと、彼は自分の部屋に戻った。
8時25分。
薄暗い部屋の中、古臭い時計だけがコチコチと音を立てていた。
ぼんやりと室内をながめていた雅也は、ふとその時計に目をやると、腰を伸ばす。そしてカッターシャツとジーパンに着替え、一つため息をついて机の上に置かれたヘッドセットをかぶった。
椅子に座り、スイッチを入れると脳波を感知するセンサーが起動し、画面が雅也の意識を吸収していく。
認証が終わると同時に
意識とネットワークが完全につながったことを確認し、自分の席に座ったまま背筋をのばす。
(うちだけがおかしい、のかな?)
日に日に表情を失っていく両親を思い返しながら、なんとなく周囲に目をやる。
他の生徒たちはめいめいおしゃべりしたり、曲を聴いたり、教室の外を見たり。
やんちゃに暴れまわる子供は一人もいない。変わらない、いつもの日常。
――キーンコーンカーンコーン♪
チャイムが鳴ると、教室に先生が入ってきた。
先生といってもホログラムと呼ばれる仮想キャラクター。先生だけではなく、この学校の空間すべてがホログラムで構成され、生徒もそれぞれ自分自身の等身大ホログラムでこの教育システムに参加している。
そのため、乱暴な性格の子供がいても物理的な喧嘩は起きないし、教師の体罰も発生しない。
「仮想空間のほうが現実よりも教育に適している」という研究結果が出たのは25年前のこと。12歳までの子供たちを一元管理する仮想初等教育システム「スカンディナビア」が発足し、実在する小学校が次々に教育空間に移管されてその優秀さが立証されると、立て続けに中等教育も自宅における仮想カリキュラムで完結することになった。
1時間目の授業は高等数学。
脳を適度に活性化させる環境で行われる授業は密度が濃く、スピードも早いが、クラスの生徒全員がほぼ理解していた。
「今日はこれまでの復習テストです。準備ができたら始めてください」
先生の合図でテストが始まる。シャツの袖をまくった雅也は机に浮かび上がった解答欄の答えをマークしながら、別のことを考えていた。
(一年生のころは、良かったな)
自分のくせ毛に手をやりながら、回想に
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「じゃ、行ってくるね」
「頑張って来いよ」
さっぱりした身なりの父の言葉を受け、小学校に入学したばかりの雅也が自分の部屋に入る。机に向かってヘッドセットをかぶると教育空間の1年3組の教室が視界に広がった。
近くから他の生徒のおしゃべりが聞こえてくる。
『俺ら外で会ったことないよな。今度どこか遊びに行かないか?』
『でも外出は禁止されてるし……』
『そうだよ、ダメだよ』
『そうか』
『うん』
『…………』
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
そこまで思いだしたところで、雅也は違和感を覚えた。当時は気がつかなかったが、何か不自然な気がしたのだ。まるで自分に向けられた意図のような。
時計に目をやるとテストの残り時間はわずかだった。違和感を振り払いつつ、あわてて選択肢を選ぶ。
「終了です。ペンを上げてください」
合図と同時に答案が消え、採点結果と間違った箇所が瞬時に映し出された。
雅也は93点だった。
自分の間違いをチェックしながら、耳に入ってくる先生の声を拾う。
「今回のテスト、クラスの平均点は77.8点、標準偏差は14.98でした」
(えっ?)
学校のテストは平均点が80点強になるように調整されていることを、過去の経験から雅也は知っていた。今日の問題が普段と比べて特別難しかったとも思えない。
標準偏差が10を超えることなんてこれまで一度もなかった。
それが今回はほぼ15。
(どういうことだ? この平均点だとマイナス方向にしかばらつきようがないし……。そして40人のクラス)
思わず顔をあげた。
(誰かが0点だった、ということ? けどマークシートで0点……って……わざとか?)
そう考えた雅也はそれとなく周囲を見回す。
他の生徒たちが特別何かに気づいた様子はない。
むしろ、いつも以上に淡々とした雰囲気。
ただ、雅也は窓際の大杉
(まさか……玲?)
そのとき、
――キーンコーンカーンコーン♪
授業終了のチャイムが鳴った。
「次は体育の時間ですね。各自の部屋でトレーニングを行ってください」
ヘッドセットを外した雅也は時計を見て、1度深呼吸する。そしてテストの結果について、もう一度考えた。
雅也は自分がとびぬけて優秀な生徒だとは思っていなかった。元々勉強は好きではなかったし、授業以外で苦手科目を勉強することも、弱点を克服しようと努力することもなかった。テストの成績が安定して90点を超えるようになったのも5年生になってから。それに今でも成績で群を抜いていたのは玲だった。
玲は元々お調子者で、クラスの人気者。そのくせテストは毎回ほぼ100点。それがここ1年で妙に大人びてきて、口数がめっきり減り、教室で雅也や他の生徒としゃべることも少なくなっていた。
時計を見ると、2時間目の開始時刻。
雅也が部屋のコントローラーを切りかえると、周囲に陸上トラックの背景が映し出された。
「今日は500m走だ、柔軟体操が終わったら準備しろ」
体育教官の声が響く。体育の授業だけは仮想空間では不可能なので、自分の部屋で行うことになっていた。もっとも部屋でできる運動は限られるため、体育というよりもトレーニング。4年生まではバランストレーニング、瞬発力トレーニングがメインだったが、今年から持久力トレーニングが加わった。
雅也は服を着替えてからストレッチを済ませ、ランニングマシーンを持ってくると、距離をセットして走り始める。徐々に呼吸が苦しくなる中、ふと思った。
(玲も今、こうやって走っているのかな?)
雅也は自分の目の前を走る玲をイメージしながらペースを上げる。
350m、400m、450m
二人が競うように加速していく。
残り数十メートルで横並びになると、二人は同時にゴール。
「おいおい、予定よりかなり速いぞ、なんか変なものでも食ったのか?」
声をかける教官の横で雅也はひざに手をつき、ハア、ハアと息を吐いた。
「しっかりストレッチして終了だ」
肩で息をしつつ身体を伸ばしながらも、雅也の頭の中は玲のことでいっぱいだった。
休憩が3分残っていることを確認し、雅也は玲の机に向かう。
雅也と同じシャツを着た玲は、細めの黒いパンツの足を組んだまま、普通よりやや長めの黒い前髪を押さえ、切れ長の目を窓の外に向けていた。
「玲、さっきのテストの事だけど」
「ああ、俺だ」
振り返った玲が落ち着いた声で答えた。
「そ、そうか」
自分の言わんとすることを見透かされた気がして、雅也は口ごもった。
「なんだ? それ以上聞かないのか?」
「いや、なんか聞いたら悪いのかなって。気まずいじゃん」
「お前……女だったのか?」
「は?」
「いつものお前だったら俺と張り合おうとするだろ? なに奥ゆかしくなってんだ?」
かちんときた。顔立ちが中性的な玲に言われ、思いっきり馬鹿にされた気がした。
「じゃあ何か? 悔しかったら0点より低い点数取ってみろ、ってこと? それとも昔の目立ちたがり屋の玲ちゃんのくせが出ただけか?」
「いや、そんな気はさらさらないが――」
「じゃあ、なんでだよ?」
問い詰めると玲が真顔になった。
「ちょっとな……気になることがあって。何かに気づいてしまったというか――」
「何に?」
玲は顔をそむけて黙った。さすがに雅也もいらつく。
「あのなー、聞いてほしいのかほしくないのか、どっちだよ?」
「お前……最近、おかしいと思うこと、なかったか?」
顔をそむけたまま聞き返された。
「え、なんだよ? はっきり言ってくれよ、気持ち悪いな」
雅也が言ったそのとき、
――キーンコーンカーンコーン♪
再び授業開始のチャイムが鳴った。
「そうだな。気持ち悪いことなんだが、少し整理するから待ってくれ。後で言う」
いつものストレートな玲とは違う態度を見せられ、雅也はさらに戸惑った。
「え? あ、うん。じゃあ後でな」
後ろ髪を引かれる思いを感じつつ、チャイムの音が鳴り終わる前に雅也は自分の机に戻った。