「どんな気分なの?」
生命力を失くしかけていた体躯の少女とは思えない声で問われる。
もっとも、心は活き活きとしていたようだから、好奇心は止まらないのだろう。いままで無口に思えたのは、発声するための器官が休みたがっていたからかもしれない。あるいは脳内では、おしゃべりしまくりだったかもしれないし。
貴婦人のような聡明ささえ漂わせながら、こんなにも細くて立体的で凹凸の明確な乙女だったんだなと気づかされる。眩しさは媚薬のように、おれを多少は刺激し続けている。
生命力が乏しくなりつつある神経のおれは、お年頃の少女たちを興奮させてあげられるような美辞麗句を述べるのが困難になっている。あんなに、かつては嘘ばかり平気でついていたというのに。嘘まみれの嘘つきボーイだ、恥じらいも外聞も知ったことかよ?
でも…いちばんの嘘は、そんなの「自分」じゃないってわかっていたのに「自分」だと偽り演じ続けたこと。
かつて小学生の時に学級裁判では、とある嘘を訴えられて敗訴した。その経験は苦き思い出でありながらも、おれがおれになるための特効薬にもなった。評判を変えることはできなかったけれど、自分らしさってなんだろうと姿勢を正すことには成功した。
中学生は大人だよ。いままでとおなじ電車に乗るときだって、大人料金の切符を買わなければ。いままでとおなじように呼吸しているけれど、体幹は大人を意識している。正式に授業を受けることはできなかったけれど、初潮がなにかを知っている。先生は指導をしていないけれど、たったひとりの布団で目覚めたときに精通を覚えた。それぞれの意味を学びながら、その関係性を想像したこともあるけれど、新しき生命を産み出すための欲望を開放することはなかった。制御なのか制限なのか、あるいは未到着ゆえなのか。わからない、わからないことだらけだ、けれども桜の舞い散るホームで偶然に会ったときの彼女がスカートを風に揺らしたままでいるのを見て、おれの気持ちは乱舞した。大人になって、大人だけれど、成功は否認を前提にしている。そのあたりは、本当に微妙だった。微妙だったけれど、現実の壁は硬くて大きく透明だった。短期的に労働で現金を稼ぐことでさえ、できないと思い知ったからだ。準社員とは保護者と学校の許可を以て成立となる。金融機関にある自分名義の口座でさえ、母親の手にかかれば貯金箱。お年玉を貯めておきます?
気づいたときには、からっぽさ。おろされてたよ。
働きたくても働かせてもらえないで、ほんとうに大人と言えるのだろうか。
大人料金を求められるけれど、必要な支払いのためにと目的を限定したとしても稼げない。
そもそもが与えられる存在なのだから。
自分名義って、なに。おれの名前だけれど、管理者は別。保護者という名のもとに、いったいどれだけ奪われていく。いや、そもそも奪われるというのが錯覚めいた発想なのかもしれない。もともとおれのものではなかったとしたら。
子供への急降格、それは人生設計そのものを分解してしまう破壊力。
なんのための受験だっけ、どうして中学受験したんだっけ、なぜ両親はおれに『嘘』を強要した?
なぜ?
なぜ?
なぜ。
爆ぜろ、おれ。
喜怒哀楽は健康な人間の証明である。志望校に合格した喜びは、次のステージへ移行する必然性を連れてきた。だからさあ怒れ、怒りなさい、怒りこそが…
いまの自分を純正律へ調律してくれますよ?
ただし、調和を乱す要因になってしまうこともありますけどね。だってこの次に待ち構えているのは『哀』なのでしょう?
「塩水が必要なんだって。知ってた?」
唐突だったがアキラが元気に言い放つ。
塩水が必要か。生命の源を想えば当然にも聞こえるけれど、それとは別の話かな。おれは耳を傾ける。
「歩きにくくない?」
そう問われれば、みもふたもない。だが、おれはいま、知ってしまった。この手に感じる体温も、自分のものとは異なる素肌の感触も、離れがたくて放しがい。
「海の話かい?」とおれが訊くと、
黙って、ちょっと先のほうを、指差した。
砂浜は太陽光の反射で白くもあり、砂鉄成分ゆえに黒くもあり、けれども植物の繁殖を許容するがゆえの緑もあふれていた。さらには磯だ。あれは、そう。
ここに来るとき、おれが駆け降りてきた坂。道のようで道ではないが、未整備ゆえの自然な通り道だった。
「こわかったら言って」
そう言われたら答えるしかないだろう「こわいわけないじゃん」
「そういうことじゃなくてね?」
アキラがつぶやいて…笑った。
ように見えた。
次の瞬間またもや無表情。でもいい、ムリしてない感じがするから、良きであろう。
「アキラ?」おれが話しかけると、
「さ。いくよ」
腕がからめとられて胸板に髪がまとわりついて、不自然な骨格構成になりそうだったので、おれはフッと力みを外す、彼女の動きに自分を委ねてみることにした、すると自然におれの手は彼女の腰をそっと包み、一瞬だけ向かい合って肌と肌が合わさったのだけれども接着はしなくて、ちょっぴりそのときフサフサ、フサァ、と丘の穂が触れた。おれたちは動物だ、けれどもときどき植物のように自然に風と光を浴びる。光合成はできないみたいだけれど、志望する夢を攻略して制覇するための活力は湧くらしい。紫外線を浴びた皮膚の下にビタミンDが生成されるように、赤外線が感情の下に愛情を掘り起こすのだろう。
もともと、みんなが持っている。
生まれてきたからには、逃れることなんてできない。
逃れられないけれど、逃避行そのものを旅に例えて愉しむことならできるだろう?
一瞬だけ、おれの脳裏に文字が横切る。父の声が重なる、それは『非行少年』
その妄想のステージで、おれは脚本家に交渉して『避行少年』に変えてもらおうとしている。
そっか。「逃」は、いらないんだ。
逃げてるけれど、いつだって身体は前を確認しながら進んでいくのだから。立ち止まった場所で「こっちが前」「あっちが後ろ」だとしても、歩きだせば常に前へと一方通行。おれ思うんだけど、人生そのものが一方通行なんじゃないのかな。
さ。いくよ、か。
「ああ」おれは返事する。
目的も目標もわからない、気まぐれなのか計算ずくなのかさえも。けれども、おれは彼女と皮膚と皮膚を自然に重ねながら動き始めた。素肌だからこその感触が、こんなにも強烈だなんて…知らなかったよ。
「あきら」と呼ばれた。
知っていたけど、知らなかったんだ。知らなかったからこその喜びだろうけれど、ほんとうは最初から全部なにもかもか知っていたんだ。名前を呼び合えるってさ、最高級に至上の会話だね。
だってさ、この世界に生まれてきたってことは、こういうことだろう?
なにもかもを与えられて、与えられたからこその産声なんだ。
なにもかも覚えていないけれど、なかったことになんてできないんですよ。
せめて今日この日この時この場所でのことくらいは、覚えておきたいな。
いつでも好きな時に思い出せるように。
アキラと指からめた手と手が、彼女のツメをおれの血管に刺す。皮膚に浮きあがって紅くて蒼い痛みが碧く奔りまくり、おれに「ああ、いま生きてる、生きてるんだな、おれたち」と実感させてくれた。