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第16話 渓谷の上昇気流

 言葉は不思議。

 想いとつりあわない重さで風に吹かれて抜けていってしまうから。

  記憶して、何度も何度も繰り返し再生して、さらに幾度も空想を脳内に再現していけば、

  その重さに見合った刻印が生まれるかもしれない。

  途方もない時間だろうけど。

   アキラが発した言葉は、

   まるでドライフラワーのように、

   おれをたたいた。

    すでにもう枯れきっているのに、

   あたかも成長し続けているのではないかという香り。

    放たれるかんばしさは、

     ビーナス誕生の絵画そのものなの。

    あらためて凝視ぎょうしすれば、

    誰かが書きなぐった伝言みたい。

     あまりにも変わり果てた姿に涙は失礼だろうか。

     どんなに胸がきしんでしまっても、

     いまも存在し続ける芳香ほうこう

      まのあたりにする現実って、

      おれにはハーブの香りみたいに感じられた。

     確かに存在するし、

     誰かと共有もできる。

     けれども、香りを見るのは難しい。

      その声を聞き取るのも。

      そんなとき、ふと思い出すんだ。

      なぜだろう、いつも、


 「いきなり消えないでほしい」とアキラが言う。

 そう、その声だ。決して聞き違えたりなどしないし、するものか。でも。

 『空想のなかでは誰なのか、さっぱりわからなくなってるんだよ?』

 おれは自分の声を整えながら答えていく、

 「わかった」なにを?それは、かれていないのだから「約束する」


 目と目が合ったまま刻々こくこくと秒単位で進む時間は波のようだ。ゆらぎもある。

 「消えないよ」

 おれは自覚できる、これは嘘ではないと。

 自分の言葉に責任を持てるし、そう断言できる根拠もあった。

 うん、黙ったまま首を少し動かして「じゃぁゆるすぅ」とアキラが言った。

 ゆるすぅ、その声はどこから出てきたのだろう。

 くちびるの動きは穏やか。

 かすかな空気の流れで舞い踊る髪の一本一本が太陽光に照らされて自己主張している。

 ちゃんと目を見ていなくちゃ。そう自分で自分に言い聞かせているのに、おれの視線は急降下してわずかに旋回したあと恥丘ちきゅう渓谷けいこくに向かってしまった。

 砂漠のように乾ききった大地でも、地下深いところに湖があったりするらしい。

 だからいま、おれが見ているのはドライフラワーではなく、息もえだとしても命そのものだ。

 「ありがと」おれは答える「サンキュ」と。

 小さな一歩だが、皮膚の下で筋肉が動くのがわかる。躍動は素肌に浮かびあがりきらめく。

 おれは夏草の名前を知らない。

 「うん。いい笑顔だ」

 アキラの言葉に驚いた。いい笑顔?

 なだらかで、うっすらと影が生まれては消え、その律動りつどうは呼吸とは別のよう。命の躍動のひとつだろうけど、だとしたらどの器官の働きだろうか。皮膚呼吸のシステムを正確に把握できていないことが悔やしい。彼女のふとももは、あきらかにせていた。もともとほそみな体躯たいくながら、スカートからのぞく素肌の弾力感の強さといったら。いまでも、すぐに思い出せる。おそらく特別わざわざミニスカートを選んで穿いているのではない、みんなと同じように規格通りのスカートを穿いていただけ。アキラの身長の高さが、脚を長く腰を高く位置させてしまうから、短く感じるだけ。その細身ほそみと対照的なひざうえひろがる丘陵地きゅうりょうち隙間すきまなく閉じられた渓谷が、みずみずしい入江いりえを想起させてしまうほど。彼女の身長に見合った長さの足というだけなのに、恵まれた造型に見えてしまうから不思議。なによりも、そんな豊穣ほうじょう資質ししつ凌駕りょうがするほこりにあふれた性格。

 あの、ありとあらゆる要素を棄て去ってしまったような、穏やか過ぎる現況げんきょう

 熟れるまえだからこそ、かじりつきたくなる果実かじつ。かじるまえに、てのひらでしたくなる果皮かひ。彼女のふとももは細くなってしまった。入江いりえは引き潮で乾き、いままで塩水で満たされていた磯の洞窟が見えてしまいそうなほど。

 くちびる、あの感触を少しだけ思い出してしまう。

 「別に笑ってないけどな?」

 ぶっきらぼうに答えてすぐ『しまった余計なひとことだった』とかえりみる。おれは表情に とぼしくて、おおげさに笑ったりしなければ笑ってるようになんて見えないはず。

 それにいま、おれは微笑んですらいない。

 なのに、なぜアキラは『いい笑顔だ』と言ったのだろう。

 アキラが首を、しかもややおおげさに左右ゆっくりめに振って、「笑ってる。ほらそれ、いい笑顔」


 どくん。脈打つ血管。心臓が来る。いや来ない。だがねる。なんだ、いったい。

 「わたし、泣きながら笑えるひとって大好きよ?」

 アキラが言う。ちょっと意味がわからなかった。でもまあ、そういうひとがこのみだということだろう。彼女のことをまたひとつ知ることができた、そう思うことにしよう。おれは視線をあげていく、エンジン止めたグライダーが上昇気流で浮かびあがるように。渓谷けいこくを眺めていたいけれど、ゆっくり丘も越えて、空に出た。

 目と目が合う。

 「ほら」

 ふいうちに、彼女の指先がおれの目元に刺さる。

 つ、と。つつつ、と横。ふわりとだけど、ピンッてはじくなにか。

 え。

 彼女の指先は、潮の香りが濃密。

 いまの、なに。


 「そんな格好で、こんなに涙たらしちゃって、ほんとにまあ、もう」

 さっきまでの無表情とは別人の、いきをしいききらす演技顔えんぎがお


 アキラがなにを言っているのか、まるでちっとも理解できなかった。


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