話しているうちに、いろいろ思い出してくる。
記憶の中の彼女の容姿は、初夏の陽射しを浴びてきらきらしていた。思い出だからこその、きらめき。そうかもしれない。そうかもしれないけれど、それにしたって、変わりすぎだ。
あの日の、くるくる目まぐるしく変わる表情ゆたかな立ち居振る舞いは、おれの心まで弾ませてくれた。同級生から訴えられて、学級裁判にかけられてしまった彼女だけれど、落ち込むヒマがあるなら戦術を磨きたいと貪欲かつ果敢に挑んでいたのを覚えている。おれは弁護人という役割を引き受けたのだけれど、勝敗にかかわらず誰もが納得できる着地点を目指した。学級裁判は模擬裁判だから法的に拘束されるわけではない。ただし、生徒たちにとっては、精神的に負荷の大きな経験になってしまう。評判にも影響するし、交遊関係に亀裂が生じるのも無理がなかった。
結論から見れば、おれたちは勝訴をつかみとった。
裁判委員から厚情を得ることに成功し、可能な限りダメージを少なくできたと考えている。勝訴にはちがいないが、完全勝利ではなかった。なぜなら、風の噂というのが立ったときに、どのようにも弁解の余地がなかったからだ。
あの時の、おれはなにかを見逃していなかっただろうか。
その迷いのような螺旋は、判決がくだってからずっと続いている。気にしようとしなかっただけで胸の奥深く、削り取られたフィヨルドの港に置き去りにされ続けていたわけだ。いまも彫像のように、わずかながらの雲の切れ目から差し込む光を求めている。答なんてないだろうに、なにを求めて待っているというのだろう。
問いただしたいことは、山ほどある。
それらをすべて水に流して、勝訴は勝訴ちゃんと勝ったんだよと、仲間たちと祝杯をあげた。あの夜の、飲み放題の炭酸飲料水の乾杯は格別だった。とくに酸味が強烈だった、柑橘系。この世界には、こんなにも美味しくて愛おしく思える飲み物があったんだなって知ったよ。絞りたての果汁、そこに重曹を加えて、シュワシュワに泡を湧きあがらせる。くちに含めば、歯を溶かしてしまうのではないかと恐怖すら感じるほどの、はじけっぷり。それに負けない彼女の、はじけ模様。品行方正で知られるお嬢様の、お嬢様であるからこその、はじけっぷり。
いや、よそう。
過ぎたことだ。
おれはアキラの目を見る。
じっと、見つめ返されている。
おれが視線をそらさないかぎり、彼女も視線をはずさないかもしれない。それくらい吸着し合って、磁石のNとSのように、くっついた。いまならまだ離せるぞと想いつつ、じわじわと固まっていくのを楽しんでいるふしさえある。
その感情を映し出さない表情。
けれども声は、あの日のように誇り高く血潮に満ちているのがわかる。なんだろう、とてつもなく疲れているのだろう。だとしたら、あれから忙しくて大変だったのかもしれない。おれだって、そうだとも。いろいろ大変なことがあって、ほんとうに大変でね、窮屈した。リゾートを夢見て熱帯性の音楽を探し求めて聴きこんだし、わざと派手めの水着を選んで友だちと水際に繰り出した。それでも窮屈から抜け出せず、嗚咽を漏らす余裕も失ってしまう。
海では潮の香り、プールでは塩素の香り、夏だからこその陽射しは宇宙からの贈り物にちがいない。なのに夏は、あっというまに過ぎ去ってしまう。どんなに、つなぎとめておきたくても、その光は薄まってしまうし、気持ちに翳りを落としてくるし、なんでもできると思い込めた自分がどんどん非力で無力な存在に変わってしまう。自分の話、おれのこと…でも。
なあ、いったい、なにがあったっていうんだよ。
彼女は、おれに質問らしい質問をしてこなかった。
まるで、決まっていた約束の時間に落ち合って、くつろいでいるようにも思えてくる。行き当たりバッタリの、おれの行動なのに?
もしかしたら、おれがお邪魔して極上の休暇を汚してしまっているのかもしれないというのに。
おれには、これといった罪悪感がなかった。過去に対しては、悔恨が残っている。けれども、現実に対しては無感動で臨んでいられる不思議。
「あ、あのとき」アキラが語り始めた「ありがと、ほんとに。ほんとうに、ありがとう」
あのときというのは、おれたち唯一の接点である学級裁判のことだろう。出会いとしては哀愁のエピソードだけれど、あれはあれで楽しかったんじゃないかな。おれは楽しかった。
その心構えそのものが、間違っていたかもしれない。
正直、正解なんて、わからない。
そもそも現実への対処に役立つ参考書なんて販売されていないし、学級裁判をめぐる解説書もない有様だ。手さぐり状態で戦った。訴えたほうだって、それほど変わらないと思う。もう、どうしようもなくて、どうしようもないまま、あの流れになってしまったんじゃないか。そう理解している。
もしきみが新しくヒントをくれるのなら、ちゃんと全部まるごと受けとめて聞くよ?
あの日から覚悟していたけれど、会う機会がないのをいいことに、自然な装いで避けてきたんだ。少しは仲良く発展させられたかもしれない出逢いを自然消滅させるがごとく。もし、いまこの状況が、避け続けてきたことへの最後のチャンスだとしたら、おれは逃げたりしない。そもそも、予備校から逃げたばかりで、もうどこにも他に逃げ場所なんてないのだけれど。両親への言い訳なんて、これっぽっちも思い浮かばない。なるようになるさ、なるようになれ。
おれ自身、ほんとうに変わってしまったと感じている。
「いつか、ちゃんとお話、したいかなって思ってた。迷惑かな」
すっかり長く伸びて暴れ模様のアキラの髪は、漆黒に沈んでいる。夏の陽射しを浴びて、きらめいているにはいるのだけれど、芯からの勢いがなくなっている。でも、それって、なんだか、
「おれと似ている。でも、ほんとうに逆なんだな」
思ったままを、くちにしてしまった。
会話、成立していないじゃないか。おれが乱して、どうすんだよ。
でもしかたない、なるようにしかならないのさ。
「それって、体と心のことよね?」
とアキラが訊いてくる。
お?
その捉え方、たしかにそうなんだけど、そうだな、ちゃんと聞いてみたいな。なにか思うところがあるのだろうか。
「かもな」
おれは答える。無言だけは、やめておけよ? 自分の内側からアドバイスが来たよ。かもな、そうかもしれない、体と心、うん、うんうん、うん?
どういう意味だろう。
「わたし、とても気持ちは元気なんだ。わりとテンパッてるくらいに」
とてもそうは見えないが、わりと冗談でもなさそうだ。話を聞き続けていると、
「けど、ついてこれないの。からだが」
「ちょっとお疲れモードなのかな?」
おれは訊く、ちょうど彼女が視線をフッと回廊の先のほうへ向けてくれたので、おれは彼女の首筋から肩への線上に視線を移動させてみる。ちょっとだけ傾いたようで、さっきよりも房は立体的に見えてしまう。果実ではない、むしろ花粉を待つ蕊のよう。それをいうなら、もっと下のほうかな。そのまま視線をはわせてみれば、弾力的な素肌ながらも生彩を欠いてしまっているのが、よくわかる。どうしたというんだ、その雰囲気、その構造。
惜しげもなく空気に面する素肌の斜面が、地球をめぐる命を隠す。いかなる衣服もまとっていないが、皮膚そのものが命を覆い尽くして保護しているのだろう。恥丘は宝石のように輝き、あるかもしれない草原を想像せずにいられない。だが花園と呼ぶには、まるで鍾乳洞だった。花粉を待つ蕊は、暗く濡れた中庭で息を潜めているのかもしれない。精彩な生命力を持っているのにもかかわらず、生彩を欠いてしまっているが、かろうじて血液は順調に循環しているようだ。ふとももは命の片鱗を含ませながら、別の命の頬ずりを待っているようにも見える。
その役目、おれにくれないか?
ムリな相談…だよな?
「あきらは、恥ずかしくないの?」
どこか遠くでピチョンしたたる水の音、けれども耳元で鳴るピアノのようにも響いてきた。
「恥ずかしくないのって、なにがなににどんな?」
おれはアキラにその言葉の意味を問う。
とくに知りたいわけではないが、もうしばらく会話を円滑に楽しむとすれば、必要な情報だと感じた。
「だって、あきら…その、そんな格好しちゃってさ?」
え。
え、いまなんて?
おれからすれば、そんな格好というのは、きみのほうこそだよ?
むしろ、おれはきみに合わせている。
だって、ここはきみの秘密基地なのだから。
訪問者でしかないおれは、この国のルールに則るしかないんだよ?
ところどころにあるコンクリートのイスみたいな凹凸部にそっと腰をおろしては、にゅるりと足を組むのではなく、むしろそっとひらきぎみにして、つ、っっ、っっつと、身をよじる彼女、むずがゆそうでもあり、もてあましぎみな動きで、おれの目に新緑の渓谷が見えてくる…
と思った、思ったが新緑ではなく、落葉樹が新芽を待ちわびる寂しげな森のように感じられた。森には太古より泉がある。その泉は、ながらく湧き水を流していないような気さえする。まさかとは思うが、訊くに聞けない。
おれの視線を、どこまで意識しているのかわからない。
おれは、さっきまできちんと着こなしていた服すべて脱いでハンガーにかけてしまっているので、隠すことも隠れることもできない状態だ。それはそれでいい、とくに問題ない。なぜなら、この城の主さまが、同じようにそのような格好なのだから。
しかし、妙だな。
もしやと思う。
アキラは『恥ずかしくないの?』と訊いてきた。
わかる。
だがそれは、そのままブーメランのように彼女自身を問い詰めたりやしないのだろうか?
さらにこう言った『そんな格好』と。そんなって。
つまり、アキラは無表情でありながらも、しっかりと感情を働かせている気がする。さっきから注意深く観察しているが、頬は紅潮していない。恥ずかしがってるふうでもないし、照れてる感じもしない。相手が、おれだからかもしれないけどな。
顔見知り、友だちというよりは、戦友かな。
異性として魅力を感じる相手というよりは、学級裁判がきっかけで親しくなったよっていう存在。頼れる友だちになれたのかもしれない、それゆえの人間としての存在感か。
まあ、とりあえず客として、迎えてくれているのだろう?
完全なるプライベート空間だ、心を許してくれているのかもしれない。そうだとしたら、おれは全力でその信頼に応えたい。信頼関係というのは、どこかでなにかを頼っている感じがしなくもないので、おれは好きだ。頼り頼られ頼りあう。弱さのせいじゃないよ、あふれるエネルギーを持て余す動物が、さらに結果を求めて向上心を育てるときの意欲ならではの象徴だ。
と、いうことは…
『まさか、彼女。恥ずかしいと思っていたりする?』
そんな格好の『そんな』呼ばわりが、どこか思春期の乙女みたいで、おれの記憶の中のアキラと一致する。高貴で、わがまま、不遜ながらも思いやりのある乙女という印象だったから。
表情を少しも変えることなく、膝の角度が動いた。すぅ、と自然な動き、わずかにふるえるように波打つ、ふともも。膝と膝の間の渓谷が、航空写真のようにしっかりおれの目に映る。いや写真なんかじゃない、天然な果樹園の遠景そのものだ。肌をあらわにすればするほど、強くて烈しさに満ち満ちた生命体に感じられる。遮光も防虫もせずに、渓谷は姿を見せて、あるいはどこか、おれを招いているかのようにも思えてくる。
いやいや、あまり調子にのるな、おれの身勝手な空想だ。
招かれてなどいなかったし誰の許可も得ていないというのに、アキラはおれの存在を許してくれているのだろう?これ以上は甘えるな。
この城に招かれ特別な気分になっているくらいだ。やはり、おれは調子にのってしまっている。でも大丈夫。
おれの心は、もはや息も絶え絶えなのだから。もう、ずいぶん前からだよ。呼吸するのがやっとで、どんなにおなかがグーグー鳴っても食欲が湧かないし、そんなに眠ろうとも思わないから気づいたら自然にカクって落ちてしまっている。なにかを好き、だれかを好き、あれが好き、それも好き、これが好き、そういう感情が湧きあがらなくなっていた。
きみが傷つくようなことは、おれはしないさ。
それにもし、まさかの禁足地であったとしたならば、呼吸すら許されなくなるだろう。
それは、カンベンな?
こうして、なすすべもないみたいに、じっと、目と目が合う時間を楽しみに過ごせるのは、もうすでにじゅうぶんにご多幸の極みなんだよ、おれにとっては。
彼女が足をひらくと、しばし止まったかに見えたので、じっと目を凝らして網膜に記憶させた。離れた足と足は、それでいて密着を求めているように見える。けれども、他の誰かの筋肉との接着ではなく、むしろ自ら精製した油脂成分の弾力あふれる素肌と素肌の邂逅を待ち望んでいるのだろう。ゆっくりと動きが復活するときに、「よ!」と小さめの声をアキラが発してから、ぐぃーんと足を足に合わせて、ぴったりつけたふとももとふとももの、そのわずかな隙間に、回廊の湿気が液状化して溜まっていくように感じられた。