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第11話 回廊を突風が駆け抜ける

 なるほど。ひとの視線にはあつがある。

 これほどまでに無表情どころか生気せいきを失ったかのようなひとの視線でも、見られているだけで伝わってくる波がわかった。さっきまでは存在しなかった、ゆらぎ。空中を伝播でんぱしてくるのは、好奇心でもなければ躍動感でもない、ほんの観察ただの考察ゆえの顕微鏡レンズのような透明感で歪みを正しく元に戻そうとするチューニング師の意思に感じられた。

 アキラは、なにかをチューニングしているのかな。

 だとしたら、なおそうとしている歪みって、なんだろう。

 おれは思う。けれども言語化できない。安易な文章力では、かえって弊害しか生まないのと似ている。もくすれば輝くとは限らないが、相手が自由で勝手きわまりない推測をしてくれる可能性だけは高まる。まあ、いいけど。脱ぐよこれも。じっと見られているのがわかる。なにも面白くないだろうに、いや、面白そうでないことは見ていてわかるが、それにしても沈黙の検察だな。まあいいや、えいっ。


 おれは一瞬だけ思考した。どれに、どのように掛ける。おれの右足から、つづいて左足からも抜け出した、ハンガーにかけたことのないインナー。こいつみたいに挟むか、にしても、それじゃあ悪いよな。あまりにも、あんまりだろうと思い、


 「あのご相談」おれは言う。


 「どうぞ」

 アキラは目を見ることなく、おれの顔でもなく、いまさっきあらわになった茎と球根のようなたたずまいを眺めたまま声を静かに放つ。どうぞ、か。


 「洗濯機って、ある?」おれは尋ねる「もしあるなら、お借りしたいんですが」


 「は?」

 アキラの視線が移動するのがわかった「あるわけないじゃん、なに言ってんの」


 「だよね?」

 じゃあ、しかたない。おれのカバンに、しまっとくか。


 「って、どこいくのよ」

 アキラが呼び止める。どこへ、って、ちょっとそこまで? さっきの金庫の前に置いた、おれのカバンだよ。


 「それにいつまで持ったまま? 掛けちゃいなさいよ」

 いや、それがためらわれるからでしょうが。そもそもいいのかよ、おれの服ならともかく服は服でもインナーですよ肌着ですよ、あそこをやさしく包んでいたんですよ。

 かぎはしない、だが匂いも気になってしまう。こればっかりは、どうすることもできない。

 「ほら。まだあるんだから、これ、さっきみたいに挟めばいいでしょ」


 「洗ってからなら?」と抵抗すると、

 「洗いたいならハンガーごと洗えばいいじゃない」とアキラが言う、それは合理的であるがよ、そもそもそういう発想したことないんだけどな「どっちにしろ、あとにしようよ」

 あとにしようよか。

 洗濯前提になってきたけれど、まあいいか。洗って返すのなら、それほど気に病む必要がない…かな。すでに数秒もしくは分単位の時間が経過しているのだろう、あんなに湿った空気だと思っていたのに自分の肌もサラサラしている気がした。あんなに走ってきたのに。汗たっぷりかいてるはずなのに。

 まあ、いいか。

 「お待たせ」


 回廊を突風が駆け抜ける。

 アキラの長い髪が乱舞した。

 おれの短めの髪でさえ、踊って暴れているような錯覚におちいってしまう。


 「うん」アキラの表情が、ちょっとだけ体温を感じさせる「わたしと同じになったね」


 思いきり音をたてて深呼吸したくなったが、いまは制御する。自分の汗も、吐く息でさえも、いかなる匂いも相手に感じさせたくなかった。無理は承知、鼻が利くひとならば容赦なく分析できてしまうだろう。しかし、こんなことになるとは。


 なぜか少し、楽しくなってきていた。顔に出ているかどうかわからないけれど、アキラの顔を見ていると変化がわかる。ほんの、ちょっと。たしかに、ちょっとだけなんだけれど、なにかこう悪巧みほどではないけれども悪戯めいた遊び心というのか、気持ちの変化が顔色に反映されている気がした。だとしたら、おそらくおれもだろう。自分を鏡で見れば、わずかな変化でも気づけるかもしれない。

 そういえば鏡がないね。


 「シャワーある?」おれは質問する。なんとなく、いままででいちばん長い沈黙な気がした、まるで言葉を選んでいるような発言そのものをためらっているような、そして、

 「あるよ」という答がくる。


 海風、潮風、渚風。

 潮というより塩の味みたいな匂いがしている、海草なのか磯藻なのか植物性の香りも混ざっていて、けれども清潔感ばかりが浮きあがるのは不思議。あんなにぬめぬめしていた足裏がキレイさっぱりサラサラになってしまえば、どこのホテルか民宿か、あるいは別荘かという雰囲気。別荘。まさか。


 「ここってどういうところ」って質問してもいいのかな? と思いながら口先が声を発してしまっていた「失礼だったらゴメン」けれども詮索せずにはいられないほどの、そもそもの存在感。


 「ありていならプラべ」とアキラが言う。聞き取れなかったし、意味もピンとこなかった。けれども、隠さなければならない秘密の入り江というわけではなさそうだった。「あきらならもう気づいていると思うけど」と不気味なことを言い始めてくる「ね?」

 もうもなにも気づいていないが、なんとな不気味に察知していることならある。この世ではない異界、もしくはトランジットルーム的な夢空間。思い当たるふしならいくらでもあるし、この奇妙な現実感そのものも不思議といえば不思議。自分でありながらも、自分を観察している感覚にもなってしまう。脳が情報処理しているけれども、まるで追いついていないのだろう。せめて海岸に名前があるのなら、

 「じゃあ名前だけでも教えてくれない? この海岸…海水浴場ではないよね」

 「私の伯母おばの別荘よ」そのニュアンスは迷惑そうで言いたくなさそうで、でも質問されたからには正直に答えなければという義務と責任が満ちていた。伯母の別荘と聞いて、なぜかおれは安心する。身内なのか、ならば安全圏内と言えるだろう。どのような格好でいようが、許容範囲なわけだ。それに、誰の許可を得てここへ来たかという質問にも納得できる。なるほど、ちゃんと、

 「私の伯母から許可されたの?ってことだったか」と私は言ってみた。


 「そういうわけじゃないけど」アキラは言う「まあ、それならそれでもいいか」と。


 しかし別荘とは、そうは見えなくもないけれど?

 おれの疑問を察したかのように彼女が言う、

 「あきらは見えるひと、だったよね」


 「見えるひと」おれは鏡のように真似て言う「見えるものは見えるけど、見えないものは見えないよ」

 思い出した。霊的な話だ。まだ彼女と知り合ったばかりの頃に、ご先祖さまや守護霊さらには前世のことなど、ずいぶんおしゃべりしたことがあったっけ。他愛のない趣味めいた話題であるし、公共の場で選手宣誓するならともかく、個人的に個人的な交友関係者たちとの間だけでの話題なら問題ないだろう。そう思って、おしゃべりを楽しんだことを思い出す。まさかとは思うけれど、

 「見えるって、えるってこと?」


 アキラはクリップ式のハンガーに挟まれて吊るされているインナーに一歩近づく。おい、よせ。

 「本当に視えるひとは区別がつかないんだと思うの」アキラが、まるでうわのそらでふわふわした不思議ワールド全開な詩人のようにつぶやきはじめた、「だって視えてるんだもんね、だから見えてるって言えちゃうよね、ほかに深い意味も違う意図もないっていうか」


 まさかとは思うし、いまさらではあるけれども「まさか禁足地じゃ…では、ありませんよね?」俺は尋ねた「伯母さんの別荘ではあるけれど、はいってはイケナイ場所とかとか?」

 あっさり否定してほしかったけれど、どうも願いは通じないらしく、

 「うーん」とアキラが「うーん?」なにかとまどっていて「うーん…」グラスの底に沈んでいる茶粉を細くて長めのスプーンで勢いよく混ぜるみたいにして「うん?」と言葉を濁した。

 まじかよ。まいったな。

 「あ、でも」アキラの瞳孔に、うっすら陽射しが反映した気がする、「出れるし帰れるし戻れるよ」

 「で」

 その答を聞いたら、やはり許可なく来てはイケナイんだなと理解できる。まずったかな、やっぱり。でも遅いし覚悟なら決めてるし、でもなんだろうな、あきらめがつかないというか。


 まあでも予備校をサボった天罰だというのなら、甘んじて受けるとしよう。それに、こんなとこ、こんな格好でいるのを誰かに見られたらもうカッコつけて生きるなんて難しい気がする。


 そっか。

 つまりここは、ひょっとすると、

 「審判」

 おれは声に出してつぶやいた、

 「天国へ、あるいは地獄に。行き先を決めるための空間かな」


 「どういう発想よ」

 アキラが笑う「でも、いいかもねそれ。少なくとも裁判やる法廷じゃないなら」

 「やっぱり気にしてるのかい?」おれは思わず、つい、聞いてしまった、

 「あの…あれのこと」

 あの裁判、高校生になって間もなくの頃の学級裁判いや模擬裁判だったか。他校の生徒であるものの、おれも弁護人のひとりとなって彼女のチームに参加した。判決は勝訴、だが心に落ちた影は消えないし消せないし、もう正直どうにもならない。勝てば済むってものではなかったし、勝ったからといって救われるというわけでもないのだと知った。後悔はないけれど無念がある。いちばんの張本人が目の前にいて、しかも、その格好だし。なるほど、無関係ではなさそうだな。それに、よりによって、ここにおれがいる。この組み合わせ。運命というより、ただの偶然だろうな?

 あの裁判、あの勝ち方。


 もともと、おれは嘘が嫌いだ。その一方で、嘘があるからこそ心を軽くできることもあると知っている。嘘を望むひともいる。かつてのおれは、そういう望みに対して、なんとか応えてあげたいと努力するほうだった。それがゆえの後悔なら多数ある。けれども、だからこそ生まれ変われたんだ。あの日々があったからこそ、なんとかできるだけ誠実であろうとする現在の自分がいる。手遅れと言われたこともあるけれど、それはそれ、少なくとも高校一年生の模擬裁判が終わってからは、可能な限り嘘はつかずに生きている。

 そう思っている。

 つかなければならない嘘もあったし、いまもある。けれども、心を痛めることがない。いやむしろ、


 おれの心は、もう痛がったりなどしないのだろう。


 思わずアキラを見る。まさかとは思うが、脳内ひとりごとも心のつぶやきも、こんな迷いめいた想いも見透かされてしまうのでは。

 案の定だった「うん」アキラが返事をした。




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