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第10話

 いや、これはあまりにもあんまりだ。

 ぬるぬるコンクリートを注意深く歩いていく。わずか、ほんのわずかな距離、いや距離とさえ呼ぶ必要のない、すぐ、そこ。そこまで簡単にたどりつけない。


 「よ」


 なのにアキラは、ちょんとつま先、ぺたり足ふまず、ぬめっと素肌、なんなのその動き。冷静に理性的かつ躍動的だが無言。一瞬よりも短く追い抜かれた。呼び止めるまでもなく、取り残されつつ前進を試みる。

 うわ。ぬるだって、ぬるっ。


 「おい、大丈夫? 早くなよ」


 なんだよそっちこそ、むしろ、そっちこそなにか「なよ」と思いつつ声を出す。


 「わたしはてるしいてるぞ?」


 無表情のまま誇らしげな達成者。

 『いてるぞ』って聞こえたので、そりゃまあなにかにとりかれているんだろうなあと納得してしまう。いやほんと杖でも手すりでもつかみたい。彼女が隣を湿った音とともに通り抜けるとき、思わず「よっとっと?」と抱きつきそうになってしまった。なんとか抑えられることができたけれども、まったくこれっぽっちもふれていないというのに、その柔らかく突き出た生菓子のような房をむぎゅってしてしまったような気分におちいる。どこからともなく必要以上の血液が首を登ってくる。理性ではわかっていても「ごめん」と言ってしまった。なにもあやまる必要などないのに。ああ、それにしても、それにしてもで、それにしてもだ?

 この洞窟のような建物は、いったい…

 誰がどのような目的で造ったのだろう。なんとか越境を果たして内部にくと、とたんにサラッとした感触。あれ、あれれ。


 「どうぞご遠慮なく」


 すでに敷かれていた不思議な板が、ぬめりけもろとも水分を吸収してくれた。石板?

 「これって」おれは質問する「玄関マットみたいなもの?」


 「そう」アキラは「むしろバスマットかな」と、そっぽむいたまま答えてくれた。なるほど、それなら実用的かつ衛生的かもしれないと思った。あんなに濡れていた足裏が、いまこの瞬間きれいサッパリ乾いている。どこからどう見ても、湿気ばかりの空間のようだが、そうでもないらしい。

 「あがって?」

 そう手招きされて近づけば、扉のない区切り。段差もなく、安心して歩ける。誰かの部屋というより研究施設のような空間で、想像していたよりもモノであふれている。蛇口らしいものもも見えるが、水が出るのだろうか。水道が敷かれている感じがしないのだけれど、まさか浜辺の井戸。いや、そこから出てくるのは海水かもしれない。飲料でなければ海水でも役に立てられることもあるだろう。


 「よかったら、こちらにどうぞ?」

 丁寧に案内されたのは手軽に持ち運べるタイプの金庫…のようなもの。いくつか積んである。

 「貴重品を入れておくのに?」とくと、

 「時計とか定期券とか鍵とか財布とか?」とき返される。

 ひとつひとつの箱は独立していて、小さくても重く、そおっと指で押しただけだはピクリともしない、ひんやりしただけだ。鍵穴が見える。汚れていない、サビらしき色もなく、こけもなし。そういえばこれだけ海に近くて、いや近いどころかほぼ隣接状態で、らしき姿が見当たらない。まさか空調可能なスペースなのかとさえ。

 もう一度ひょいと指で押すと、ガチャっ金属音で引き出しが飛び出した。うおっと、思わず声に出そうになったが体が緊張しているのか声にならない。

 「そこにいれたらあとは、こっちね」とアキラが言う、おいでおいで、そんな手振りで「自由に使ってね」と。

 細長くて廊下のような、ウォークインクローゼットみたいな空間。その向こうは大きな窓があり、空が見えた。海ではないのか。どういう高さなんだ、ここ。

 ぐるっと見まわしたが服がなくてハンガーばかりだ。わかった、服はここに掛けておけと。うん。

 「ありがとう」おれは振り返って礼を言う「でも水着ないんだけどね」

 「どういたしまして、そんなに気をつかわないで。それに」アキラが近づいてくる。潮の香りとは別の、どこか果樹園の蜜めいたかおりがはしる。彼女の体からではなく、まるで彼女が羽織っている薄絹うすきぬが放つかんばししさのようだった。いや、なにもまとっていないけど? 近づくけれども、しっかりと距離は保たれていて、「わたしと同じ」と言う。

 わたしと同じ。同じ? なにがどう同じだって?

 おれが問いたいのを言葉に置き換えようと理性的に試みようとした次の瞬間に、

 「きっと、あきらも気にいると思う」と笑顔それも満面の笑顔それはそれはもう「服なんてじゃまなだけだしね」どこにも策略は感じ取れないし悪意が込められているようにも思えない、ひたすら偶発的な善意を言語化したかのようだ。いちおう、もう一度、彼女の体躯たいくふちる空気に目をらす。うっすらと、コーラルピンクの文字その言語化された抽象的な感情が宙に浮かびあがる。見える。見えた。つまり、それは、


 脱げってことでいいですか。


 「あの」おれは問う「いちおう言っておくけど」わかっていると思うけれど念のため、万が一というよりも時間稼ぎのために質問する「おれ男ですよ」そりゃあ、知ってるだろうし、いま見てもわかるだろうし、わざわざ説明するのは野暮やぼだけれど、ね?

 「ええ」と反応、ちょっとだけ指で鼻先なのか、くちびるか、なにかの暗号を伝えるような仕草しぐさでクルンくるんクルンひとさしゆび回転させながら「知ってる。知ってるし、でも」ちょっと斜めな視線その先をたどるとコンクリートな天井というよりも星空があるみたいな、「相変わらず、おんなのこっぽいよね?」と疑問形。断定されないだけヨシとしよう。そういう目で見るなよな、と思いながら彼女をじっくり観察するふうで、おれは髪の先からつめの先まで、頭も指も足も腕も首すじも、ふとももからおなかのあたりの素肌と、潮の香りに負けたことなんてないよという生命力あふれる瞳孔どうこう、さらりぬるり眺めた。言いたいのを抑えながら。すると、


 「まあ、そこがいいとこなんだけど」


 とアキラが笑う。無表情ではなくて、ずいぶん整った決めポーズのようでもあり自然な。いや、急に自然すぎて不自然だな。

 おれは察する。水着がないよ、つまり、それは、きみと同じ格好になるよってことだよ?

 おれの誤解を含めて、是正が必要ならばいつでもいくらでも訂正しよう。覚悟するまでもなく。おれはシャツを、ひらく。ハンガーは樹脂製のようだった。ベルトゆるめてデニムをおろせば、さてこいつはどれに、どのように掛けるべきか。すると察してくれたのか、


 「これ」と手渡そうとしてくる、まさに手渡される直前に「こう」と使いかた、なるほど。

 おれは砂まじりのジーンズをはさませる。ちょっと無理があるような。もしかするとスカート向けのものなのでは。薄ければ問題ないだろうけれど、おれのは少し厚く感じられて、実際ちゃんと挟んだのにもかかわらず、ぬるっと落ちそうになった。

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