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第9話 ここじゃなくて、あそこ

 「ところでひとついてもいい?」


 いまさらなんだよと思いつつ「どうぞ?」と答えた。見あげる空は青く深く、その青さがどのように海とちがうのかわからない。かといって、つながっているとは思えない。空のかなたには宇宙があるのだろう、おれの理性が告げる。そのくせ海みたいだなと考えてしまう感情もいた。白い雲が細く漂っていれば波に思えたかもしれないが、遠く水平線のあたりで泡のようにわきたっているだけだった。入道雲か。おれは心で、つぶやく。どうでもいい。それどころじゃない。


 どうぞ。そう確かにうながしたと思うが。アキラは言葉を続けてこなかった。どうしたんだい。そう聞くこともためらわれて、この場合この沈黙は埋めるべきか放置すべきか。たいたいなら埋めようと努力するのかもしれない。同級生数人と話しているときって、たいていそう。なぜか自然に生まれた沈黙なのに『なにか言えよ』と急かすやつ。『なにか言ってよ』とうろたえるやつ。どうでもいい、いつもそう思っていたし、ついにおれが憤怒を言葉にしてしまったことがある。おれは会話の合間に出現する沈黙そのものも好きだった。考えているわけではないが、なにかをお互いに感じ取っていると思うから。その静寂は人と人とを、より深く親密にしてくれている…そう思ってるんだけどな。そう思わない同級生のほうが、おれの周囲には多い、多すぎる、なぜそんなに言葉で空間を埋めたがるのか理解できない。

 だからおれは待つよ、気長に。がまんくらべでもいいさ。さあ、どうぞ。


 「あきらはどうしてそんな格好でいるの?」


 それは「これか」この格好は予備校で授業を受けるための武装みたいなもので同時にこの季節「夏」をできるだけ快適に過ごしたいと考えていてだな、かといって自分が持っている服にもどこかのお店で販売されている商品にもピンとくるのがなくて、その、作ったんだ「生地を選んで羽織れるように調整し」てなんとかまあそれっぽく。

 説明の途中だけれど、うまく説明になっていないよなと自覚してしまう。かといって、途中で解説を中断するのもどうだかなって思った。どつぼ。いいや、黙っとこう。おれはくちびる閉じてみてから、ニッて、笑ってみる。


 「そういうんじゃなくてね?」


 どういうのなのかな。

 あきらかにあきれましたって顔ならわかりやすかった。けれども微妙。途中で中断して良かった。あのままだと、いつまでもいつまでも延々と語り続けていただろうから、おれ。いくらでも、いくらでも、いつまでも語ってしまう。それが的外れだと自覚できない限り、本気で静かに暴走する。サイレンスイズゴールデンと歌いたい。さて、さて、さて、そういうんじゃなくてどういうのなのかな。おれは素直にとまどってみる。


 心の声が聞こえるひとがいるのを知っている。アキラがそうなのかは知らない。でも可能性が高いなと思ったから、せっかく沈黙を選んで対峙しているのだから胸の奥に脳内の饒舌さを反響させてみよう。さあ、教えてください。どういうんだね?


 「うん」まるで応えるかのように短く返事? それ返事だよねっていうタイミングだった、さらに続けてこう語る、


 「わたしが言いたいのは、いつまで服を着たままいるんですかってことょ」


 「いつまで」おれはオウム「それは、まあ」試しに両手を広げて、ばっさ、ばっさ、ばっさ、「泳ぎにきたわけじゃないし?」

 ごめん正直に言うと、きみの質問の意図がわからないです。言葉は通じていて、それっぽいことを延々と語れても、きみの欲しい答とかけ離れてしまいそうだ。どうしようかなこれ。


 「海水浴およぎ目当てじゃないのね」アキラが瞳孔キラッとさせてつぶやく「もともと海水浴場じゃないけどねココ」彼女の渓谷に降り注ぐ陽射しは、ありとあらゆる湿度を乾燥へ導くのだろうか「まあ泳ぎたくて来れる場所でもないし?」その語り口は淡いなりに意気揚々と感じられることもあって、なんだろう違和感「そもそもここに来れたってことが、すべての答な気がするし」


 「すべての答?」おれは訊き返した。

 「そ」ちょっぴり、おおげさに『うん』とうなづく仕草で彼女が答える「ここは特別な場所だから」

 ザザザっと波まじりに風が砂を削る音が聴こえた。塩たっぷり含んだ水が砂鉄に吸い込まれていくような、ズザザザっとした荒々しい律動と旋律も続いている。

 うん。おれには、わかる。その浜辺この渚あの辺りから黒々としていて、おそらく砂鉄ではないかなって思う。自然な砂鉄なのか、放棄された鉄屑てつくずが粒子に分解されて蓄積されたのかわからない。でも磁石を近づけたらきっと、弧を描いて引き寄せられてしまうだろう。

 そういえば『ここは特別な場所だから』ってどういう意味だろう。さっき、誰の許可を得てここに、みたいにも言ってた気がする。確認しておくか。


 「あのさ」


 「ん?」くちびるとじたまま彼女の返事「んーん?」


 「ここって」おれは言葉を探す、どのように訊けばスムーズだ、どんなニュアンスならスマートか、でも結局ちょっとつかみどころがなくて「なにか特別な場所なんだ?」と質問する。


 「ん」

 彼女が立ちつくす。どっちが逆光だ。まぶしい、手をかざしたい、さりげなく陽射しの強さをけようとするたび、おれの視線が地球を意識する。ここは惑星であろう、球体ならば重力と反重力との関係において離岸流とも呼べるような空気中の現象があるのではないか。っと、足が砂に沈む。靴の中に少し、靴下ごしにザラザラっとしてくる。靴、脱ぎたいな。おれは思わず反射的に言う、


 「脱いでもいいかな」

 そう言って、いまのでは言葉が足りないなと気づく。ちょっと言葉を補足しようと思ったのと同時に、

 「どうぞ」さらに彼女の表情が華やいだようにも感じられた「遠慮なくね!」

 「ありがとう?」おれは靴を脱ぐ。ああ、しまった、靴の中でものすごい汗。濡れた靴下に砂がからみつくのがわかった。まいったな、これ。でもどうしよう、まじで。考えながら迷いつつ、靴下も脱ぎ始めていた。だってしょうがないじゃんか。はだしのほうがサラサラしてくると思ったから。実際は逆。汗が乾くスピードよりも、砂が貼りついてかたまるスピードのほうが速かった。

 あああ、なんて嘆いてもしかたない。そもそも、つい見失いそうになるけれど、やっぱりおれは部外者だ。せいぜい訪問者といえるかどうか。答えてもらってないけれど、許可を得ていないし、たまたまここにちょっとした知り合いのアキラがいただけ。それだけ。これって、どういう。

 「あ」

 「あ?」

 「あ」声に続いて、その手がおれに向けられる、「ちょっと待って」長い髪が気づけば穏やかになっている「ここじゃなくて、あそこ」

 あそこ?

 「どこ?」おれは問う。

 「あそこ」アキラが、くいっと顔を、そのあごが大気を揺らしつつ、いらっしゃいませのポーズな手のひら返しで「どうぞだよ」と言う。

 それは白いかごのような建物。

 いや、その手前だ。岩陰のような場所にコンクリートの避難所みたいな要塞がある。

 「ひょっとして」おれは思った、きっと更衣室だろう。

 それならカバンを置くことも可能かもしれない。夏の暑さは苦にならないが、腕を伝わってわきから手首へ流れる汗を不快に感じ始めていたから。すでにカバンの持ち手のあたりが汗を吸い始めている。誰かが言っていた、汗は無味無臭だが布や肌に生息する菌を繁殖させる効果があると。汗の匂いじゃない、菌の匂いがヤバいんだと。制汗せいかんスプレーを持っていないので、おそらく菌の繁殖は容赦ないだろう。そのかわりといってはなんだが、汗拭きシートは携帯している。これを使うとスッキリするから好きだ。汗を抑えられないけれど、流れた汗がベタついてぬるっとしているのを除去する瞬間の快感といったらもう、たまらない。さっきはしったしな、無我夢中で駆け下りたから。いまはまだヒリヒリしていないけれど、このまま昼を迎えたらどうなるかわからない。肩や背中なによりもわきの毛穴という毛穴を解放したくなってきている。おれ思うんだけど、腋毛って剃っちゃってよくない?

 毎朝、ひげを剃るみたいに。いっそ、つるつるにしてしまいたいよ。そうすれば不要な不快感が自然消滅するんじゃないのかな。と思ったときに、ふと、この目は彼女の恥丘ちきゅうを求めていた。薄いね?

 そこ、それって自然のままなの剃ってるの。思ったけれど訊くに聞けない。すると渓谷に差し込む太陽が熱を強めた気がする、彼女の透明な穂波ほなみが蒸されていく音がする。潮風とは関係ない、こんがりと焼かれて立ちあがる。しおれてしまう夏草ではなく、空へ向かおうとするバベルな向日葵ひまわりのように。

 ひょっとしてその要塞に「置かせてもらえますか」とたずねる。おれの荷物、このかばん、靴。靴下はさすがに靴につっこんでおくしかないだろうな。すると、

 「ええ」アキラが快諾してくれる「ハンガーもあるわ、ご自由に。あとね、使ってないシューズハンガーあるから靴下もかけておくといいよ。この気温、しばらくすると洗いたてみたいに乾くから」

 「へえ?」おれは感謝よりも驚きを先に声にしてしまった「シューズハンガー?」

 「そ」いつしか彼女はおれの前を上手にサッサッサッ進んでいてチラリ振り返ってはニヤリな表情でサッサッサッさらにチラリ、

 「そうだ、こうしようよ」なにかを思いついたみたいな顔と言葉でアキラが提案してくる、提案?、「これからもここに来ていいからさ」

 うん、ありがとう、「わかった」いや、なんなの急に歓迎しているみたいな罠っぽさ、「でもいいのかい、特別な場所」

 「もちろん。だって、わたしが許可するもの。いまから」

 「ありがと?」

 「それじゃあ、どうぞ?」

 さっきは距離があるなと感じたけれど、着いてしまえばすぐだった。コンクリート造りの要塞は避難所というよりも別荘っぽい。誰かの誰の、あぁ、そういうことか。

 「おはいりくださいませ~」

 どこかのホテルのコンシアージュみたいに、立ったまま脚を交差させてから手のひらくるっと。ずいぶんと慣れた感じ。

 「おじゃまします」おれは砂からコンクリートへ移動する、そのときヒンヤリ足の裏が異常なほど冷たく思え、その次の瞬間ぬるっとした。おっと、いけね。

 「あ。ごめん、気をつけてそこ」

 面目ない。彼女は忠告してくれたのに、ほぼ同時だった、倒れはしなかったけれど、おれはバランスを失ってしまった。




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