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第8話 呼びかけてみた、もう一度

 「そっか、なるほどね。だからなのね」


 いったい、なにを納得したというのだろう。わからない、だが、なんとなくわかる。おれ自身が意味不明な困惑の渦中かちゅうで精神だけ躍らせている。それにしても、なんてやわらかそうな素肌だろう。この夏の陽射しは肌だけでなく心まで焼いてしまうのかもしれない。まだ決して長いとはいえない時間だが、すでにおれの首まわりは日焼けしている気がする。ココナツオイルを塗れば、きっとこんがりだ。あれ、そういえば。


 「あまり焼けてないんだね」


 おれは無意識につぶやいていた。完全無欠の白さではないけれど、ややカフェオレ色の素肌。観察しているわけではないが、おれの視程してい距離の範囲内で質感と彩度が計算されていく。ふわり、風もなく髪そよぐ。ふくよかでありながらも膨らませ過ぎていないゴム風船のように、ふわりぱんぱん芳香に満ちた空気を想起させてくる。ふれたい。そう願ってしまう自分の想いに反応したのか、いやそんなわけないだろうけど、そよぐ髪でカフェオレ色の胸がひらいた。カーテンが音もなくシャァッと引かれるみたいに、踊り舞う長い髪が一瞬だけ見せてくれた。ショートケーキに載せた実のように、あるいは蜜豆みつまめにトッピングされた薄紅うすくれない色の球体の生菓子。なんという情報量だ、どこかの展覧会で観る絵画どころではない。なまみであること、生きていることの膨大なデータそのものが波打っていて、日に焼けていない胸が穏やかにはずんでいる。


 「うん」すうっと隣に来て耳元で声が静かに反響する「日焼け止め塗ってるから」

 ちょっとだけ、目と目で通じ合うテレパシーめいてしまった。けど錯覚だね。追い出される気配は、まるでない。ただしそれは彼女がおれに手を出さないということでしかなく、もしもボディガードがいてタイミングを見計らっているのだとしたら、そろそろか。ぐいっと首根くびねっこつかまれてポイだなポイ。いや、それではあまりにもおれに都合が良すぎる。狙撃かな。一瞬でパシュッ、おそらく消音タイプの長めな筒からドングリの実みたいなやつが、やってくる。しかたないさ、やられても。やるなら一発で仕留しとめてくれ。悔いだらけの人生だ、せめて今際いまわきわくらい静かに朽ちていこう。勝手にはいりこんだ、おれが悪い。誰にも恨みはないさ。おれが悪くても、自分をも恨みたくない。なにもかもが消えてなくなるだけのこと。まあ、せめてもう一度あの両親には感謝の言葉を述べておきたかったかな。お世辞でいい、心にもないことの御阿追従おべんちゃらさ。だが他に、なにかあるか。彼女の顔が思い浮かぶ、ついこのまえ会ったばかりのおさななじみ。こんなときくらい、いままででいちばんやさしい笑顔を思い出しておくとしよう。さあ来い。おれは意識を体中からだじゅうに駈け巡らせた。頭のうしろ、首あたり、背中から胸、あるいは想像もしない内臓それは困るけどな、痛くて苦しむのは避けたいからやるんだったらホント瞬時に頼む。それが無理な注文というのなら、いっそ見逃してくれ。むしろ助けてほしい。

 なあんだ、もしや、これが本音だったりするのか。

 見逃してくれよ、助けてほしいだなんて。

 わがままな子供と変わりないじゃないか。もっとも、おれは子供の頃そんなにワガママ言えていないけどね。いや、それが良くなかった。いまでは反省している。子供は子供としての振る舞いをしていたほうが、保護者である親にとっても実は嬉しいのではないだろうかと。あまりにも手のかからない、聞き分けのいい子なんていうのは都合のいい存在にすぎない。ちゃんと親に「しっかりしなさい、もう」とか「何度言えばわかるのよ」と怒らせてあげたほうが、そのほうが。

 『うわべだけのいい子を演じるよりも、よっぽど親孝行だったかもしれないな』


 「ん」するとまるで脳内ひとりごとを聴いていたみたいに「そういうもの?」と彼女が言った。

 そういうものって、どういうもののことなんだよ。問い詰めたいけれど黙っておく。なにが起きているのかまだわからないんだ、軽々しい質問は制御しよう。この期に及んで、おれは助かるかもしれないと思い始めていた。


 「まあね?」おれの前に出る彼女は「そういうものかもしれないよね」と言いながら背中から腰のあたりうしろ手で腕をつかみ、一歩、さらに一歩と、ゆっくり歩いた。

 って、はだしかよ。


 「なあ、痛くない?」ていうか危なくないのか、ここ「サンダルとか、はかないの?」おれはたずねる「フナムシだって、あんなにいるし」

 「むし嫌い?」くるっと首、こっちを顔、その視線ドキッとさせられるのは矢でも放たれそうな殺気がするからか。むし嫌い。どうだろ、

 「そんなことないけど」フナムシは苦手だな、あの動き、その存在感そのもの「得意ってほどじゃない」

 「わたしはね?」また視線を向こうにして彼女が言う「案外平気というか、むしろ好きかもしれない」

 「セミは好きだよ」おれは言い放つ「とらないけれど、そこにいて鳴いてくれているとホッとする」

 「ホッとするの?」彼女が振り向いた。さっきよりもまたひとまわり、体躯たいく小柄こがらに変化した気がする。小さく細く、それでいて弱々しさの片鱗かけらがなくて、しなやかさゆえの強ささえ感じられる。鍛えているとは思えない、やわらかそうな腰つきからふとももにかけての丘陵地帯。だが、わかる。やわらかそうに見えるその下には、ぴんと張り巡らされた筋肉が黙ったまま躍動しているのを。足腰のしなやかなやわらかさは、かたく鍛え抜かれた基盤があればこそ。ひょっとしたら、この海岸への徒歩だけでも相当な運動量かもしれない。スポーツで鍛えたというよりは、ほぼ日常生活によって獲得してきた弾力性だと思われる。必要以上に負荷をかけてこなかったからこその、不自然な天然さ。おれは、ぽろっと言ってしまう、


 「いつもその格好なのかい」


 どれくらい時間があいてから答が来るだろう、そう思って秒単位で数えるつもりだったが、


 「ええ」


 あっさりしたものだった。ほぼ瞬時、だが思考時間はあっただろう。わずかながらのを感じた。われながら感覚がぎ澄まされてきている気がする。それもそうか、この状況。あまりにも不自然なことだらけ。

 でも不思議。不自然さを自然に受け入れている自分がいて、こんなおれのままを自然に受け入れながら対応している、この子。

 どこかで会っている…みたいなんだけど、正直よくわからない。久しぶり?

 人違いされているのかもしれない。そうだ名前。それで判明する。きっと名前を言えば初対面だと判明するだろう。なあんだ簡単じゃないか、そんなのさっさと立証しておいたほうが。

 と思ったのと、ほぼ同時に。


 「あきら、って呼んでもいい?」


 え。うそ。たまたま同じ名前なだけ?

 それとも。


 「昔は、さ? くんとか、ちゃんとか、自然に言えたんだけど。なんかこう、ね?」

 その平坦な口調は冷ややかで淡くはかなげでありながらも、なぜだろう、どことなく血潮のたぎった感情を感じてしまう。ん。まさかと思うが、照れている?

 いや、まさかだよね、その格好だし、おれが出現しても慌てる様子ひとつもなかったわけだし。むしろその殺気が気になるし、その名前、


 「ああ?」おれは返事をしながら返事をせずに「気楽にいこうよ」と言いながら自分で自分に言い聞かせている感覚になった「ちゃんづけがいやなら、なんて呼ばれたい?」逆に問う。


 即答されると思ったけれど、ためらわれた。ほう?

 たまたまおれの名前が一致しただけで、別人だと気づいたのかな。別人だと気づかれてしまったほうが危険だと思うが、もう手遅れだ。いまさら彼女の知り合いを演じる心の余裕はないし、いまさらセリフを考えるなんて無茶な話。

 セリフを考え…まさか。


 「じゃあね、お言葉に甘えるね?」

 くるっと回転、その視線はどこか斜め下のほうを向いていたので、おれは遠慮なく目のやり場を楽しませていただくことにする、見える、その恥丘ちきゅうのなめらかさと、うっすらと輝く白銀のような浮き草のたち、潮風と血潮によって微妙に色合いを変えてみせる静かな渓谷けいこく。やばい、おれのノドが鳴りそう、鼻がひくついて全方位からの芳香を瞬時に吸い込んでしまいそうになる。めまいがする五秒前、そのカウントダウン、そのとき、

 「アキラ、でお願い」


 瀬衣晶せいあきら、海百合女子学園の生徒だった彼女まさか。まさかとは思った、が。

 親しすぎるほどではないが、なにも知らないわけではない間柄…か。いったいどれほどの時間が経過しているだろう。わからない。わからないけれど、久しぶりなのはわかる。

 彼女の発音は、おれの発音と微妙にニュアンスが異なる。おそらく、彼女の発した「アキラ」は家族や友人たちからそう呼ばれているであろうイントネーションで、おれを呼んだ「あきら」は女子が男子に向けて発するイントネーションだ。手書き文字の丸みと、手書きゆえの達筆な清涼感、そんなちがいが浮かびあがる。


 さらに不思議なことに、彼女の発した言葉が視覚的に出現したように感じられた。いや、見えている。エメラルドグリーンの文字、コーラルピンクの言葉。もしかしたらこの世界はコミックの中で、会話すべてがふきだしになっているのではないだろうか。いままで認識にんしき視程していにはいらなかっただけ、多くの人たちが気にもとめずに暮らしているだけ。

 いやまさか、おれが気づかなかっただけなのだろうか。

 だとすると、合点がてんのいくことばかり。

 どうして彼女がそのように、られもない姿で恥ずかしげもなく会話をしていられるのか。なぜ、おれの名前を…いや、おれも知っていた。でも結びつかなかった。つい、このまえ知り合っていて、ちゃんと会って話をしたことのある女子、たとえそれが昔のことでも。理性は、そのように助言してくる。それなのに、まったく結びつかない現実と記憶。いかなる体験も知恵に昇華するとは限らないのと同じことか。過去の経験がありながら、すぐ目の前の存在を未知なる初対面と思わせた。なにかが関与している、おれには自分が操られている感覚さえする、そうでなければいったいおれは、なんなんだ?


 「アキラ!」ちょっぴり声を抑えて、けれども元気に弾んだふうをよそおって「元気そう?」なぜ疑問形「あいかわらず、あいかわらずだね、かな?」だからなぜ疑問形「…アキラ」呼びかけてみた、もう一度。


 くちびる閉じたまま、それと反して躍動的に弾む控えめながらもやわらかそうな突起とした乳房と、ちゃんと見えるわけないはずなのに見えていると錯覚できてしまっているハーブ農園のたち。短く刈り込まれたわけではないだろうが、決して生えすぎてなどいないわと無言で主張するかのように、さわさわそよそよきらめいて透明感あふれる。

 おれは、こんなにも女体にょたいが好きだったんだなと自覚する。いま目の前に、その豊かなみのりを湿った潮風と熱い陽射しにさらしている、アキラきみは、いったい。


 えへ。

 と言われたような気がした。いや、その照れくさそうな表情。おれは別の角度から射抜かれてしまう。手を伸ばせば、その穂波ほなみを堪能できそうな距離。決して拒絶などしていない、けれども誘い込もうともしていない。なんだろう、これって。これってさあ?


 「そっか。だからか」アキラがつぶやく「なるほどね。わかった」


 なにがわかったんだい。そういてしまうのをギュっとこらえた。おれは自分の握りこぶし、右手の中指と薬指のツメでてのひらを刺す。痛いけど痛くない、つまり夢ではないが現実離れしている。生命線と感情線がヒリッとした。


 なにがわかったんだい。そうきたかった。けれども、聞けないよなとも気づいてしまう。だってさ?


 「あきらもわたしとおなじ、ね」


 ああ。そうさ。名前の話じゃないことが、わかる。でもそれ以上は、よしてくれ。


 「もう、この世界にいないっていう存在なんだね」

 彼女はそう言って、むなしそうにも見えたけれど、やはりどこか嬉しそうにしか感じられなかった。いや、アキラ、おれたちはちゃんと生きているし呼吸をしているよ、だからそんな言い方は本当よしてくれ。


 聞こえるはずのない心の声に反応するかのように「うん」

 アキラが首も頭もまったく動かさずにうなづいた。

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