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第7話 だから、もう。

 『え……いまの、なに』


 おれは立ち止まり、動かずにいた。


 脳内で無造作に無制御の映像と音声が流れていた、ほんの一瞬。


 ざざざ、


   ざ、


      ざ



          ざ


        ざざ


      ざ


                              ざ



                        ざ




 ああ、フナムシ。昆虫は得意ではないが嫌いではない、ちょっと動きが俊敏すぎて勝手に体が引いてしまうことがあるけれど。ことさらこちらに危害を与えようとしてこないならなおのこと。おびただしい群れだ、港の桟橋や埠頭で見かけた景色とは違う、違いすぎて確かにひるんでしまった。


   ざ


   ざ



       ざざざ



 よけきれない!

 と思ってしまったこともあるが、フナムシがおれの体に当たることはなかった。


 遠くからこちらへ攻めてくるようにも見えたが、おれをよけてくれている。恐怖にすくむというより、どこへ向かうのだろうかと傍観しているにすぎない。



                                    ざ


                                      ざ



                                 ざざざ




 きれいな海だな。

 おれのほうこそ不似合いかもしれない。

 人の姿などなく、むしろ楽園そのものだったことだろうに。おれがフナムシたちの静寂を邪魔したのだ。そんな気がして再び絶句しかけたときだった、



 「だれ?」


 と小さな声が耳の奥に届いた。視界には誰もいないが、感覚的におれと同世代くらいの女子だろう。繊細で控えめながらも強い意志を感じさせる声だった。おれは、あわてない。そもそも、おれのほうこそ部外者だろう?

 誰なのかと問われれば、呼ばれてもいない身勝手な訪問者です。それにあれだ、万が一にも秘密の場所などであれば、見てしまったおれの身が危ない。できることなら、


 なにも反応したくない。


 見つかってしまった、それならそれで仕方ないけれど、見逃してくれないかな。来たばかりの道を戻ってもいい。いや、なにげなく視界の端で後ろのほうを確認すると、道いっぱいに影がある。フナムシか。いや、それにしては存在感が違いすぎる。


 問われたかのように感じたが、いまの声は気のせいかもしれない。そう思って、おれは深呼吸する。息を吸い込めば濃厚な潮の香りだ。まるで塩そのもの、というよりも焼塩を舌で味わったときのような香りに近いと思う。と、なにか、べったりする。頬のあたりに。汗、自分の。汗?

 なにかこう、自分でありながらも自分ではないような得体の知れない感覚。あれ、まさか禁足地きんそくちに迷い込んだとか。まさかな、まさかね、きっとフナムシの大群におそおののいて冷や汗がじわじわにじみ出てきたのだろう。


 で、ここは、いったい。


 「ねえ。ねえってば」


 今度こそ、怖い。かわいくて、女の子らしい女っぽさあふれる声だ、が、怖い。フナムシの視覚的な恐怖と異なり、見えないがゆえの空気感への畏怖いふに近い気がする。これは気のせいではなさそうだ。おれは覚悟を決めた、ここまで来てしまったわけだし手遅れだというのなら手遅れだろう。そもそも予備校をサボってふらふらしてる。天罰なら受けるしかないし、私有地への侵入なら法的に問題だろうし、ましてや本当に禁足地だとしたら……生命の鼓動を断ち切られてしまうだろう。

 まさかこんなふうに命の危機に遭遇するとは夢にも思わなかったが、重大な事故というのは案外あっけなく全身全霊こんなふうに包み込んでくるものなのかもしれないな。


 ああ、そっか。納得できないけれど、いたしかたなし。


 せめて謝罪の言葉だけでも発することができたらいいな、と考えた。だが声に出す猶予は与えられるだろうか。もしも声の主を見てしまったら息が止まってしまうかもしれないのだから。


 なあ、せめてあと1分。いやその半分でいい。最後の猶予を、くれよ。



    ザザザザー


                               ザザザザ


         ザー


         ザザザザー


                                     ザー


          ザザザザー ザザー ザッ


 波打ち際が、すぐそこに見える。

 ひとつ。数える。無意味。

 ひとつ、いやふたつか、と数えて無防備。

 ひとつ、すなわちみっつ、数えて無力感。

 ひとつ、とそのとき。



 「誰の許可を得て来たのかしら?」

 おれの、すぐうしろ。

 え。そこ、人いたっけ。


 背後はがらあきだよな、抵抗すらできないな。でも、今の声はさっきの声と違う気がした。もっとこう立体的で……

 そっか。さっきの声はラジオやレコードの音みたいだったんだ。女子のボイス、女性ボーカル。そんな感覚だった。が、今おれの背後に感じる気配は音声ではなく、むしろ少し荒々しく感じる呼吸そのもの。わかる、おそらくフナムシの妖精だ。おれは瞬時に大量の汗をかいたのがわかった。ぼったり目尻のすぐ横を流れ伝って落ちていった。


 「誰の許可を得て来たのかしら。ねえ、聞いてる?」


 妖精ではないな、ないな、ないや、おれよりいくぶん年上のお姉さんって感じの漂う声だ。おれは長めに息を吐ききってから、吸うのと同時に振り向いた。


 まぶしい。


 おかしいな、太陽の位置は変わってないのに。陽射しを浴びているのは、おれのほうなのに。見えたのは、朝顔のつるのように自由かつ旺盛に伸びて、からみあうことなく不自然に宙に舞う黒い髪。油彩画のような浮きあがりを感じさせているけれども、まったく構成要素をはかりかねる乙女の輪郭。すなわち、なだらかで、そこにありながらも溶けて液状化してしまうのではないかと心配になるくらいに、逆光。なんでだよ。自分が逆光線、なんか世界がちょっとだけおかしい。ふわり浮かびあがる足元、ぐらつく精神、逃げ場など最初からなかったのに『これで逃げ場がなくなった』という虚無感。


 あ。


 次の瞬間、今の声に聴き覚えがあるような気がした。知らない声だよ。それにこの逆光のシルエットも見たことないし覚えがないはずだろうに、おれは懐かしくなってしまって、ばかだな。言っちゃった。


 いや、声が出なかった。おれは確かに、思わず言っちゃったよと実感していたのだが、視認できない微粒子のように振動の群れが耳たぶに吹きかかってきて、安心感。安心感だと?


 「あら」逆光の夏草模様で彼女が声を放つ「あなたは」


 そっか。そういうことか。と認識したとたんに、思うように力を駆使できなくなっているのを感じてしまう。まるで誰かにコントロールされている。いや、もともと無数の長い糸で操られていたのは、おれのほうだ。発言の機会を奪われ、呼吸も乱れて、今では美術館の回廊を歩く無知な訪問者の末路。彼女の声が続く、


 ふふ、と微笑みの静かな波動のあと「お久しぶりね」息を吸う彼女、息を吐きながら「ふ?」

 ふふ、って。それなに、まるで知ってるひと、それどころか親しい間柄のように錯覚させる惑わせかたじゃないか。いや、すでにもう惑わされているのかもしれない。髪、その黒さは影ゆえもあるだろうけれど、夏の陽射しに透けた栗色でもなければ、幻覚級の亜麻色でもなく、あえて近いなと思わせるのは深い緑色。毒を含んだ夏草のようでもあり、爽やかに香る薬草にも思えてくる。その存在感、点描画のように繊細めいているのに、まごうことなく殺気。ごくり、と音をたててしまったかもしれない、おれのノドが不自然に唾液を飲み込んだ。ああ、なんという。


 『どうしてそんな格好でここにいるんですか』


 問いたい。そう尋ねて、照れたいよ。おれは無力で無害な存在だとアピールして命乞いしたいんだ。そんな感覚に陥ってしまった。なのに、あいかわらず、ふふって。今度は声がなく、呼吸いや心臓の鼓動ううん、胸の躍動感。その、なんというか。


 おかしい。たしかに、なにかがおかしい。けど、なにがおかしいのか、まったくわからない。わからないけど、だんだんわかってきた。おれは彼女を知っているし、彼女もおれを知っている。いや、会うのは初めてだよ絶対。けど。


 やっと言えたのは「やあ」とだけ。おれは無意識に声に出した。他に言うことあっただろうに。まるで親しげ、そんな装いを見抜かれてしまったかのように、一歩こちらに近づいて彼女が冷ややかに言う、


 「元気してた?」


 「ああ」

 おれは自動ドアそのもの。近づかれてセンサーに反応しただけさ、勝手にブーンて扉が開くみたいに息を漏らして『ああ』とだけ。ああ、それにしても、どうしてこんな、懐かしい感覚に。知らないはずの歌を聞いて、なじみのない時代の空気を感じて、いてもたってもいられなくなるような焦りと安堵に満たされていく。そうだね、やっぱり久しぶりだ。


 おれは、しっかり彼女と向きあう。背中に夏の陽射し、ゆえの暑さがじんわりシャツにしみだしていく。間違いない、おれは太陽を背にしている。すなわち彼女にスポットライトだ、いや、もともと世界全体がスポットライトを浴びていたんだよな。そのことを思い知らされたというか、気づかされたというか、思い出させられたというべきか。


 逆光は反転。なつかしい微妙な表情。ほっそりとした体はなにもまとわず、さっきよりもいちだんと細く感じられる髪が密林の繁みのように乳房を上手に隠している。すうっと風が吹き抜けるとき、とてつもない湿度を頬に感じた。額に浮かぶ汗。見えそうで見えない大事なところ、と脳が情報処理を開始したとたんに、おれは彼女の恥丘ちきゅうを認識した。それだよ、それ、そこ。おれは知っている、おそらく夏ならではの旬の果実を素手で触ったときのこと。ざらつくかのように思えて、磨きのかかった球体のように、なめらか。折れているのか割れているのかわからないが、かじった果肉を頬張りながら宙に種を飛ばしていくときのように、笑いたくなるほど愉快になって、気分だけが饒舌なくせに呼吸器官の働きはスローモーションになる。いちめんに生え揃った夏草が潮風にそよそよそよいでバサバサはためいて湿ってく。あれっ。そんなに細い体躯たいくなのに、その太ももの立体感は。彼女の膝を右、左、と観察するのと同時に肌色のグラデーションの激しさに気づく。少し屈強な面影さえある細い骨格に、砂丘は丸くて固さを感じさせずに、豊かなオアシスの存在を示してくれている。あらためて見るまでもなく、太ももを下から上へと視線をわせれば、恥丘に近づくほど白みがあって限りなく亜麻色に近い透明感。鍾乳洞は陽が当たらない。さっきまでの逆光が嘘になる。


「それ」おれは無意識に言葉を紡ぎ始めていた「すごくいい色の、しなった素材? なに? めっちゃ似合ってるよ」

 と、指摘しながら髪飾りの存在に気づいていく。見た感じでは『泉』のようだったのに、未来的モチーフでアンドロメダの惑星みたいな光沢感をたたえる素材を髪につけている。それだけ。それ以外は一糸まとわぬ姿のままで、おれたちがよく知っている星間移動の個室でくつろぐときのように、全身の皮膚が空気に触れて呼吸し続けている。素肌こそ最強の生命防御機能だ、おれは言葉で伝えるよりも目と目で通じあうなにかがあるのかもしれないと思った。おそらく錯覚であり妄想であろうが、もしかするとテレパシーで会話できているのかもしれないなと、原始的で非科学的で幼稚な絵空事を心臓の鼓動のままに感じている。どくん、どくん、どくん、律動は一定で安定しているが旋律は完全に五線譜を踏み外して乱れ舞うばかりだった。


 だから、もう。




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