頂上は想像以上に近かった。
こんなもんか、と思うのと同時に『広いな』と感じる。
ひたいに当たる風に、ほんのわずかな湿り気を覚えた。
意外と木々が高く育っていて、想像以上に眺めが良くない。さえぎられる視界に対して空だけが深みを押しつけてくる。見あげたままでは首が痛くなってしまうだろうから、おれは周囲を観察することにした。
あれは展望台。
コンクリートで建てられているのが見た目でわかる。灰色に見えるから、実際は苔やカビが壁に発生しているのかもしれない。聞き覚えかもしれないけれど、ここの展望台は真っ白だと思っていた。歩いてすぐの場所だけれど、おれは眺めを楽しむために来たわけではない。
逃げてるだけだ。
いや、眺めを楽しんでもいいのかもしれない。逃げてることと、なにかを楽しむことは矛盾しないはず。授業を受けながらシャワーを浴びるのは不可能でも、逃げ足のまま風に吹かれることは可能。
さらに観察を続けると、いくつかのゲートが見つかる。
おそらく、この頂上へと続いていた複数の登山道だろう。
東西南北、四つのルート。
だが数えてみると、もっとある。
頂上周辺の自然観察コースかもしれないし、あるいは私道も含まれているのかもしれない。個人的な誰かの屋敷に続くだけの私道だとすれば、勝手に侵入してはだめだろうな。
すると木製の古びた扉が、もうそこすぐ目の前に。
これこそ私道の雰囲気がする。近づくのも良くないだろう。
理性が制止を訴えているのに、おれは歩き続けてしまった。
古びた扉が、中途半端に揺れていたから。風が強いわけではないのに、ゆらゆらとして影を動かしている。歩き続けて、なにかの段差を越えた。またぐ瞬間に、ぶわりと空気の震えを感じる。よくあることさ、特別なことでもなんでもない。
おや?
がさりと草が音をたてて、なにかの気配がおれを見る。そんな気がして注意深く前方を観察すると、なにか白いものが見えた。
建物、だろうか。
生い茂る葉っぱの隙間から遠くの建物が見えている、のだろうと思った。
私道であれば、誰かの屋敷。登山道ならば休憩所。どちらにせよ、あの建物までは歩いていけると思った。道は踏み固められた土、さらに大きく距離をおいて石がある。科学的に加工されたというより、自然なままの姿で活用されている長細い石たち。そんな気がする。
よし、このまま。いいや、いっちゃえ。
おれは『誰かに怒られるかもしれない』と予想しながら、普段あまり感じたことのない躍動感に包まれていくのを実感していた。あっというまに坂をくだり、あっというまに頂上が後ろになっていくのもわかる。もう戻れないぞ、と声が聞こえたような気がした。いいよ、それで。
ただちょっと逃げたいだけじゃなかったの?
そんな声が脳内で聞こえた気がした。なつかしい、しばらく会っていない彼女の声で。おれもいいかげんにしないと、本当に気がへんになってしまうかもしれない。いや、だからこそ、こうやって逃げている。気がへんになってしまわないように、木々に囲まれた道を進む。この行動は、おれを正常な音色に戻すために必要不可欠なチューニングだろう?
ぐらり、とよろけそうになることもあった。けれども、あっけなかった本当に。
もう、着いた。あまりにも近すぎて驚きが止まらない。ここは、もう海岸じゃないか。
まだ浜辺にも磯にも着いていないが、もう、そこに海がある。高さはあるけれど、すごく近い。
ここはどこの海水浴場だろう、と疑問に思ったときのことだ。
うそだろ。
白い建物だと思っていたものは、まるでミニチュアの灯台のような置物。小さな岬のような突端に立っていた。
おれはこの海を、よく知っている。海から陸を見る機会がたくさんあったから。灯台の位置も数も把握しているけれど、こんなもの見たこともない。新しいのならともかく、それなりの歳月を感じさせるたたずまいだ。
いよいよ砂浜に着く、さあ降り立つぞ、と思った次の瞬間。
ざざざざ、ざわざわざわ。とフナムシの大群が磯の壁を動き回った。すごい数だな、と思いつつ足を止めてしまう。まるで大移動だ、おれが来たから慌てているのか、とりあえず攻撃される気配はない。むしろ、おれのほうが呼ばれていないのにやってきた訪問者。すまないね、と頭の中でつぶやいてみる。これほどまでの、おびただしい数の動きを見るのは初めてだ。
おれの心を、さまざまな感情と感想が通り過ぎていく。