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第3話

 あてもなく歩く。

 と言いつつ、道は知っている。

 ただし地図上で。頭の中で想像しただけ。

 それでも、大きな違いは感じられなかった。


 『なるほどね』

 と声に出して、わざと言う。この快感。ひとりごとだ。誰かに聞かれたら恥ずかしいし、みっともない。恥ずかしいことって、いつも気持ちいいことの裏返しだったりするから厄介だ。おれの悪趣味のひとつだが、恥ずかしいひとりごとを自らつぶやき、それをたまたま聞いてしまった人が『なんて恥ずかしい……なんて恥ずかしい人なの!』と恥ずかしがってくれたりすると大喜びだ。

 ただし、この悪趣味は天性のものではなかった。後天的に培われたものだ。

 いまとなっては遠い昔の小学生の頃、おそらくおれは本気で恥ずかしい体験をした。具体的に言うと、自作のポエムを同級生に読まれてしまった…それも声に出して読まれるというな。

 あのときの恥ずかしさと言ったらもう。だが驚いたことに、あんなに上機嫌で楽しそうにあざけりながら声に出して読みあげていたその当事者が絶句して顔を赤らめてしまったのだ。


 あのときの、微妙な爽快感といったらもう。

 だが当時は、気づいていない。まさかそれが自分にとって、自己を創造するに至る出来事になってしまうとは。多くの体験を忘却の彼方に捨て去りながらも、いまだに鮮明に覚えていようなど想像もつかなかったよ。


 だから思う、もしかしたら今日のこのなにげない行動だって、何年かのちにふと思い出してしまうことになるのではないかと。いまは他愛のない、目的らしい目的もなく、いきあたりばったりの行動でも。おれにとって、取るに足らない気まぐれそのものであったとしても。

 鮮烈な記憶として脳裏に刻まれて、思いがけないタイミングで思い出し笑いや恥ずかしさのあまり卒倒しそうになったりするのではないか……と、期待している。


 なにもないだろうけどね、なにも残らないと思うけどさ。でも、想像は自由だろう?


 歩くことそのものが快楽である、と誰かが言っていたような気がする。読んだのかな?

 思い出しかけては消えてしまう、露のような言葉たち。誰の声だったんだろう。確かに聞いた、そんな実感があるというのに。それにしても、なんて気持ちのいい陽射しだろう。サボって良かった。サボったからこその心地のいい体験となっている。誰とも会わないのもポイントだ。ひとりの時間は最高だよ、とにかく誰の視線も感じずに済んでいるし、誰かに注意される心配もない。おれの放つ意味不明の発声さえ、とても生き生きとして感じられる。

 ああ、そうさ、そうとも、おれは誰とも会わずに誰とも語らずに過ごす時間が本当に好きだ。このままずっと一日こうしていたい。

 そうだよそうだよ、自由気ままな一人旅。


 おれは朝からの不機嫌を忘れつつあることを自覚し、それゆえ余計にまた一段と嬉しく思い始めていた。セミの鳴き声は遠くにも近くにもあり、粘りつくように甲高い美声も、透明感に満ち溢れた限りなくブルーに近いガラスのような周波数も、わがままで気まぐれなおれを祝福している。

 おれは、わがまま。うん最高。

 おれは、気まぐれ。やったぜ!


 今朝までの、いい子はもういない。おれは生まれ変わった。これがたとえ半日程度の夢だとしても、おれは決して忘れないだろう。いや、忘却してしまうのかもしれないが少なくともいまこの瞬間は、


 『忘れたくない絶対に』


 そう強く願っている。

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