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とびきりの夏物語
清水レモン
文芸・その他純文学
2024年08月16日
公開日
7,246文字
連載中
受験を控えた夏に、おれは目的意識を見失った。
何のために誰のためにと問えば問うほど虚しくなる。
予備校を通り過ぎてひなびた山道を抜けると、そこは見たことのない浜辺だった。

「誰の許可を得て来たのかしら?」
と背後から質問され、振り向くと逆光に浮かびあがる長い髪の女の子。

顔は判らないが声に聞き覚えがあった。

「あら、あなたは」と彼女が先に言う「…お久しぶりね元気してた?」

思い出しそうになるが記憶をたどれない。ただなんとなく懐かしい。

懐かしいけど、なんただろう。なにかがへんな気がした。

第1話 通り過ぎる

 あ、むり。


 もうむりだ。


 おれは歩き続けた。



 いつものように通う予備校の夏期講習、その三日目。


 「うん、むりですさようなら」

 おれはひとりごとを言い放ち、そそのまま予備校の前を通り過ぎる。

 自分で言い放った声が、おれの耳にも届く。誰かが近くにいるなら聞こえるだろうけど、そんなこともうどうでもよかった。ひとの目を気にして生きるなんてくだらないことさ、ひとりごと上等だろ!


 うん。


 むり、ごめんなさい。


 ひとりごとを言い放ち、誰かがいようとおかまいなし。おかまいなしのはず、なのに内心どことなくソワソワしている気がする。誰がいたんじゃないのか、誰かに聞かれてしまったのではないか。ぶつくさつぶやくひとりごと、こんな姿を見られてしまったんじゃないのかと。


 だからどうした、聞かれて困るか見られて恥ずかしいのか、ひとの目を気にして生きるなんてくだらないことだったんじゃないのかよ?


 いつもなら立ち止まり方向転換するところ、おれは歩き続けてしまう。


 歩く、歩く、歩く。予備校の外壁が続く舗道は両端に夏草が生い茂っていて、すごい。


 夏草の匂い、それは風に揺れた葉が解き放つペパーミントの香り。爽やかに、はびこっている。



 『なあんだ、やればできるじゃんよ? なあ』


 おれは自分の胸のうちだけで、つぶやいた。意味不明な怒りは、もう過ぎ去っている。あるきながら振り返ると、いまごろならその建物の中にいるはず…の予備校の建物だ。


 実は、けっこう気に入っている。赤煉瓦で倉庫のように見える外観。そういう外壁タイルが貼られた鉄筋コンクリート建築なんだろうけれども。


 『ああ…本当に通り過ぎちゃったよ』


 おれは思う。

 いままで、やろうとしてもできなかった。何度も挑戦したよ、エスケープ。逃げて逃げて逃げまくる夢。そんんな夢を見ながら高校にも予備校にも通い続けてきた。


 夏休み、な?

 とても大事で大事な、夏休み。大学受験まえの最後の夏、締めくくりで総決算の夏のはず。


 『ごめん…ごめんて…まじ、もうむりだから』


 おれは歩き続ける。歩き続けながら、誰に対するわけでもなく言い訳を無言で叫び散らして、たとえようのない自責の念に駆られた。自分で自分を責めはじめたの矢先に、


 いや待て。なんで、おれは、おれを責める必要があるんだよ。



 いままで味わったことのない解放感が生まれつつあった。得体の知れない怒りが余韻として残っていたけれど、まるてて蚊取線香の煙のよう。どんなに白くモクモク煙っても、広がりながら消えていく。


 おれ実感していた、怒りが消えていくのを。あんなに強くて、どうしようもなくこびりついていたはずの汚れが消えていくのがわかる。すごいな、これ。なんだろう、これこの効果って。



 ひょっとすると…



 おれは気づく。そうさ、これは喜びだよ。おれはいま、途方もなく喜んでいるんだ。全身全霊で喜んでいる。うん、しかもこれこの感覚って、初めてじゃない。知っている、覚えている。いつどこでなのかは、すぐに思い出せないけれど。


 「まえにも、こんなことあったっけな?」


 おれは逃げたことがある。つまり初犯じゃないんだ。


 なのになぜだろう、まるで自分が真面目な優等生だとでも?

 いつからそんな勘違いをしてたんだろう。



 歩くスピードは自然と加速していて、ふと振り返ると髪が風になびく。あれが予備校だと知らないのなら、ちょっとお洒落な洋館みたいじゃないか。

 と思った次の瞬間に、


 『いや、あれはニセモノだ。どう見たってハリボテだろう。ホンモノの洋館とは違いすぎるぜ(*゜▽゜)ノ』


 なんだかとても楽しくなっていた。意味もなく楽しくてしかたなくなって、これってなんていうんだろう、心が躍る? っていうのかめちゃくちゃワクワクする。


 実行してよかった。おれはいま確かに予備校の夏期講習をサボっている。さすがだ、おれ。よくやった。ほんとうに、よくぞ思いつき、実行に移してくれたものだ。ほめてつかわす!



 夏草の匂いが濃くなって、まとわりつく風が心地良すぎる。熱くて暑くてしかたないのに、風鈴の音を聴いたみたいに涼しい気配を皮膚に感じはじめていた。

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