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第167話 宇宙からの予告

「やっぱりそうだったかあ」

その声はメイクアップされてツヤツヤしており、おれの耳に残った。

おれとは無関係。だから気にしないし、気にもめない。

いつものように風が通り抜けていくだけのこと。

おれは掲示板を見続ける。

「ねえ、あれ、ねえ?」

耳たぶに息フッとかけられるんじゃないのかっていうくらいの近距離感。

早く去ってくれないかな。気が散るよ。いや、おれの勝手で申し訳ない。

けど。

甘く危険な蜜の香りのような声が、おれの集中力を奪う。

しっかり施錠したはずの屋上への扉がガチャリ音たてて解かれるように。

「あ。れ、れ、れ、れぇ?」

やめてくれ。まじ無冠むかんのこの身には、似つかわしくないほどの高貴な花冠かかんの匂い。

音を立てないように深呼吸してみる。

ちっとも内容が頭にはいってこないよ、掲示板の情報ども。

今日が申し込みの〆きりなんだ。

今日といっても、あと一時間もない。予備校の講義が始まるまでの数十分間。

講義が終われば、すでに事務所の受付は締まっている。いましかタイミングないんだよ。

「…」

無言ですら圧がある。そこに、いる。さっきまでの他愛ない声だけでも強烈だった。

それ以上に、吸い込まれるような感覚がしてきた。

この女、ブラックホールの化身なのか?

いいから、さっさと立ち去って…

「え!?」

声を出してしまったのは、おれのほうだった。

無言じっと、くちびるとじた表情で、ふいうちに顔を出されてしまったから。

覗き込まれた?

どういう状況だろう。

おれは、おそらく半開きのだらしないくちでポカンとしていたと思う。集中してたから。

「こーん?」

さっきまでの声と異なり、とても低いつやしの声。

じっ。音がしてるのかと思った。螻蛄オケラが繁みで鳴くような、音。鳴声なきごえが。

「おじゃまですか?」と問われる。なんて無防備で天然な少女顔。

ヤバイ絶対これ、まどわされるやつだ。

おれは咄嗟とっさ身構みがまえてしまう。

「どれにしようかと考えてた」

おれは無愛想ぶあいそに答える。

「どれ?」

おれの知らない少女が、おれの眺めている掲示板を見る。視線の移動がスローモーションだった。

「英語の先生、よくわかんないんだよね?」

おれは、ひとりごと。

実際の、じぶんごと。

英語に関して、どの授業がいいのか、どの先生がいいのか、まるでわからなかい。

情報がないのではなく、むしろ徹底的に調べてみた結果だ。

すばらしい授業なのだと理解しているし、人気者の先生ばかりだ。どのコマも。

だが、おれにふさわしいかどうかが未知数すぎる。

ついていけるか。

きわらずに済むか。

謎だ。考えてもわからないことだから、悩めば悩むほど袋小路ふくろこうじ

「あたし崎浩二サキコウジ先生のにしたよ?」

訊いていないのに聞かされる情報。だが悪くない。

なぜなら実際に夏期講習を申し込んだ生徒の声は貴重だから。

たいていうわさは信用ならないが、投資者の声は重い。

夏期講習費用は、決してあなどれない金額だ。

その支払いを済ませたということは、絶対的資本を背景にしているということ。

働きたくても働けない中学生にとって、持ち歩ける財産は限られている。

どのような理由で持っていても、どのような目的に支払われるとしても、行使できることそのものが強み。

いま、おれと掲示板との間に割り込んできた少女は、資本を背景にしつつ財産を行使できた立場であるわけだ。

ならば、よし、いてみよう、


「なんでそれ選んだ?」


言ってから気づく。なれなれしかったかな。

初対面の相手に、だよ?

いや、だからといって敬語で距離を確保するには、近すぎる。近すぎる?

どうしてこの少女は距離を詰めてきたんだろう。

おれのこと、怖くないのか。


「発音キレイなんだよね」


おれは視線を掲示板から彼女に向けた。

潤っているのに乾いている不思議な眺めの心地良さに悪酔いしそうになってしまった。

長い髪は無造作に束ねられているように見えつつも、しっかりとかされて整っている。

うなじは隠されていて、スッと重力に身をまかせた髪が肩に降りている。


「発音かぁ」おれはつぶやく。


「けっこう大事じゃない?発音。いいわるいじゃなくて聞くにえられるかのレベルで」

素直で実直な説明に思えた。

たしかにな?

英語の発音は、試験で問われることがない。

いまのところ英会話そのものの実技試験もない。

だとすれば、そんなにこだわらなくても?

そう思った。すると、会話が成立しないまま少女が語り始めた、


「自分よりコイツ発音ヘタやなーって先生の授業あんま受けたくないし」


少女の簡潔な意見は、あまりにも的を得すぎていて反論の余地などない。

なるほどとと納得できる。

にもかかわらず余計なことを言いたくなるのが、おれという人間性。


「そんなに気にするもの?」


「いやいやいや、いやぁ?むしろそこ、気にするトコでしょ」

目と目が合う。すいこまれる寸前。鏡に自分がうつって目がめる。


「そういえば聞いたことある。歌がうまいひとは耳がイイ、発音キレイなひとは聞く耳がある。って」

おれが話すと、少女が姿勢まっすぐにした。

ほわあ、と空気がなごむような笑顔っぽい、くちもとをされる。

なに、なにか言いたいことあるの、ないの。その無言この沈黙どんな意味があるの、ないの。

すると、ウンウン、ウンと黙ってうなずきつつ、ものすごく目を見開みひらいて、


地獄耳じごくみみってこと?」


そうかもしれない。

「授業中のおしゃべりには敏感だろうし、あと、肌で空気を読めると思う」

おれが答える。

これは中学受験の時に経験したことでもある。しゃべりかたがキレイな先生は、教室すみっこヒソヒソしゃべっていてもチョークを的確に飛ばしていたし、わからないことを質問すると丁寧に教えてくれた。教えてくれたというよりも、

「すごく気にしてくれる。なにがどうわからないの、どれがどう難しくて、わからないことすらわからないのか、とか、とても親身になってくれた。授業中も、生徒たちが理解できたかどうかを言葉で質問して確認するんじゃなくて、その場の空気で把握していた気がする。しつこくなくて、さりげなくて、けれどせも容赦ないんだ」

不真面目な態度を正確に把握したうえで、該当する生徒に是正を求める。みんなに対してではなく、その特定の相手とのコミュニケーションを真剣にやってくれていた。

だから、

「からぶりが少ないんだよな」

指導が宙に浮かない。その姿勢が解説にも反映される。

おれは塾の先生を思い出した。とても尊敬している先生だ。出会ったのは六年生のときで、受験生としては遅めの出会いだったと思うけれど、その熱意といい、懇親さといったら、それまでのどの予備校の講師と比較にならない。

おれが目標を見失わずに進めたのは、その先生の立ち居振る舞いのおかげだ。

学習内容そのものよりも、人間としての対処方法、動物としての本質と本能、それら全部ひっくるめたうえで『きみは、どうする?』『私なら、こうできる』と明確だった。

記憶の中でも、その先生のしゃべりは秀逸しゅういつすぎて空想ですら身悶みもだええるほどだった。


「じゃ、決まりだね?」


艶消しの声にツヤが戻ったような気がした。

なにがどうなにを決まりにしたのかわからないが、わからないことも含めて納得できる。不思議だが、


「だな?」


おれは応じる。

あらためて、まじまじと少女を見れば、この振る舞いかた、どこかで?

さっきは近距離に詰め寄られて勢いに飲み込まれてしまっていたけれど、いまは適正距離が取られている。ちなみに、適正かどうかの距離感は一目瞭然で判別できる。


視線を落とさなくても、相手の靴の位置が視界でわかること。

視線て、すぐバレルよね。どこ見てるか、なに気にしてたのかとか。

おれは女子のひざを観察するくせがあるので、相手が不愉快にならないように気をつけていた。

まじまじと見たりしないように。

けれども、しっかりとでなくていいから、ふとももやひざを視れるように。

うっすらと黒く透けていて自然なカーブを浮かびあがらせているストッキングが上品過ぎる。

腰で折りたたんでいないけれども、やや短めに見えるスカートは巻きスタイルだからだろう。

きっちりしているが制服ではない、着崩きくずしているようでいて乱れた感じがしないのは、何度も何度も鏡を見て微調整を繰り返し続けている努力の賜物たまものだろう。


「よろしくね、相棒」

そう告げられて、さしのべられた手を見たとき思い出した、


「ああ。ここでもな」


かつて幼稚園の砂場で、支配者として君臨しただ。


蛇穴さらぎ多慧子たえこ


めったに思い出さないが忘れることはない。

おれに『勇敢であること』『正義を貫くこと』を教え込んだ張本人なのだから。


その手を取り、そっと握る。

おや?

という顔をされた気がする。

おれには、きみの手を強く握る資格がない気がするよ。

いったい、どれだけ久しぶりなのかわからないし、相手が本当におれを俺だと理解しているのか確認もしていない、けれども。


こいつが現れたということは、宇宙からの予告にちがいない。

なにかをクリアする必要があるからなんじゃないかな。

おそらく、おれに試練が訪れる。そんな予感がして、みぶるいした。

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