「ありがとう、俺のためにわざわざ花を持ってきてくれて。黄色とピンクっていうのが藤堂さんらしくていいな。明るいだけじゃなくて優しげで……これを見てるだけで、ちょっと元気になる気がするよ」
「……お花くらい、いつでも持ってきたのに。具合悪いって素直に言ってくれれば、もっと早く会いに来ましたよ!」
あからさまに病み衰えた様子なのに、いつもと同じに振る舞おうとする上野の痛々しい様子に涙が湧き上がってきて声が詰まった。
彼はいつもプログラムで悩みながらわーわーと騒いでいる自分を見ながらも、「明るくて優しげ」という印象を持っていたのだろうか。
本当の颯姫は、部活の中でも部員を掃除機でどつきつつ部室の片付けをしているような、遠慮のない人間だというのに。
上野は花を見る振りをしながら、そんな颯姫から目を背けた。これが今の彼なのだとわかる、力ない声でぽつりぽつりと語りながら。
「本当のことを言うと、君に会いたかったけど会いたくなかった。気力も日に日に落ちてきて、今日こそ元気そうにメールを打とうと思ってもできないことが続いて……俺はこのまま、フェードアウトするのが一番いいんだって思ってたんだよね」
「許しませんよ、そんなの。これから毎日だってお見舞いに来ます」
涙を制服の袖でぐいと拭って、強い口調で颯姫は言いきった。――上野を取り巻く、茶色く濁ったオーラが視えてしまったから。このオーラは何度か見たことがある。その共通点は、死が近い人だ。
上野が死の間際に絶望を抱えていることを知ってしまったから、せめて彼が生きている間は寄り添いたい。そう颯姫は願った。
「毎日黄色い花とピンクの花を1輪ずつ買ってきて、今は花瓶すらないこの空間を少しでも明るくしてみせますよ。部長にバカなのって言われながらもスパゲッティプログラム組み続けてきた私の根性、舐めないでください」
「あはは、変だなあ。俺は君より10も歳上で、いろんな事を知ってるしプログラムに関しては天才だと自負してるんだけど……なんでか、君には決定的に敵わない気がする」
妙に穏やかに上野が笑う。そして、「颯姫さん」と呼びかけてきた。
「はい……は?」
「青春チックに呼んでみたかったんだよね。女の子を下の名前で呼ぶの。死ぬまでにやってみたかったことがひとつ叶ったよ」
「いや、どんな青春送ってきたんです!? プログラム漬けで女の子に縁がなかったって奴ですか?」
「うん、大正解。ほら、一度君の同級生の男子がお見舞いに来て、『さっちゃん』『いもりん』って呼び合ってるのを見てさ、羨ましいなと思ってた」
「あれは部活の人間です。部長のことだって沢辺だからべーちゃんって呼んでるし、私にとっては特別でも何でも」
「君にとって特別じゃなくても、僕から見て特別そうで羨ましかった。……高校時代、やり直したいなぁ。10歳若返って、君と同じ高校に通って、プログラム部で無双しながら病気にならないように気を付けて生きて――そうだ、どこに通ってるんだっけ、生徒手帳持ってる?」
まるで愛の告白のような言葉を聞きながら、颯姫は無言で紺色の生徒手帳を取り出した。横須賀中央高等学校と金色で箔押しされた生徒手帳は、いつも胸ポケットに入っている。
「はは、写真緊張してるね」
「写真撮られるの苦手なので」
最後のページの証明写真を見て上野は笑い、閉じた生徒手帳を細い指でゆっくりと撫で、名残惜しそうに颯姫に返してきた。
「明日も、来ますからね」
颯姫が念を押すと、上野は首をゆっくりと横に振った。その動作さえも彼には辛そうに見える。
「明日は上司が来るんだ、久しぶりにね。あの人に会うと疲れるから、明日は来なくてもいいよ」
「……わかりました」
明日は「来なくてもいい」なら、明後日は「来てもいい」のだろう。上野の言葉に拒絶を感じなかった颯姫は、次の見舞いの予定を決めながら頷いた。
けれど、それが颯姫が上野を見た最後になったのだ。
翌々日病院を訪れた颯姫が知ったのは、上野が忽然と姿を消したという信じがたい事実だった。
何か知っていないかと逆に看護師から尋ねられ、何も知りませんとしか答えられずに颯姫は病院を後にした。
胸の中にぽっかりと穴が開いて、埋めようがない。
なんで、どうして。そんな疑問ばかりがぐるぐると頭を巡り、
世間は突然新宿に現れたダンジョンの話題で持ちきりだったが、颯姫はそれを自分には関係ないことと思い、学校と部活と塾で構成された日常を淡々と送った。
新宿にダンジョンができてから1週間ほど経った頃だろうか、上野のアドレスから颯姫にメールが入った。
慌てて開いたそれは上野本人からのものではなく、赤城と名乗る上野の上司からのものだった。
上野から託された伝言をあなたに伝えなくてはいけない。上野は生きているが今は動けないので私が代理であなたに会いたい――怪しさ爆発の文面であったが、颯姫は縋る思いで待ち合わせに指定された横須賀駅へむかった。
「すまないね、私の部下が迷惑を掛けた。いや、現在進行形で掛けている」
あと30歳歳を取ったらサンタクロースができそうな腹をゆすり、上野とは真逆に見える赤城はそう颯姫に語りかけた。
赤城はうさんくさい見た目をしていたが、語る内容は理路整然としていた。颯姫のことも丁寧に「あなた」と呼び、女子高生だからと見下したような態度は決して見せない。
曰く、上野は新宿ダンジョンの地下100層で颯姫が来るのを待っているそうだ。ダンジョンの叡知を使い、仮死状態となって時間を止めた状態でダンジョンシステムの一部となりながら。
この新しいダンジョンは一見5層しかないように見えるが、その先は颯姫専用ともいえるフロアが繋がっている。
行き止まりには台座とくぼみが必ずあるから、生徒手帳を当てればそれをキーアイテムとして認証されて通ることができるし、安全地帯の階段からはやはり生徒手帳を鍵として入れる生活区域も作ってある。
上野からコードの提供を受け、赤城は上野と共に新宿ダンジョンのプログラムを組んだのだという。
とんでもない話に絶句している颯姫に、赤城は1本の杖を差し出した。
「あなたはMAGを120まで上げて、未だ人類が到達していない『ワイズマン』にならなければならない。全ての魔法を習得してそこに至ったとき、ワイズマンの恩恵としてユニーク魔法を習得することができる」
「なんで、なった人間がいないのにそんな情報があるんです?」
杖を受け取りながらも颯姫は疑いを持たなければならなかった。赤城の言葉は理知的で信じてしまいそうになるが、根拠が何もないのだ。
颯姫の鋭い探るような視線を受け止めて、赤城は微笑んだ。年老いた教師が、よく出来た生徒を褒めるときのように。
「世界の叡知とは、時に不可思議な方法でもたらされる。オーディンがユグドラシルに吊られることで秘密を得たようにね。……あなたは、上野の希望だった。そのあなたが習得する魔法はリザレクションだ。死んで間もない人間なら、健全な状態で復活させることができる魔法――まさに、上野とあなたの望みが表されているようじゃないか?」
「死んで間もない人間なら、健全な状態で復活させることができる……」
それは、颯姫が喉から手を出してでも欲しいと思う魔法だった。
ベストを言うなら、生きている間に完全に治癒する魔法の方がいい。だが、ユニーク魔法と言うからには人によって習得するものは違うのだろうし、上野を救うことができる「ベター」ではある。
「もし私がやらなかったら、どうなるんですか?」
「30年を経過した時点で、上野は死に、新宿ダンジョンは上野ごと消える。それだけだ。地球上の人間の大半には何の影響もない。私は可愛い弟子を見殺しにしたくはないが、生憎資格がない。そして、実を言うと上野を助けようが助けまいが、あなたの人生にも直接は関係がない。だから、強制することはできない」
目の前の赤城を、手にした杖で思いっきり殴ってやろうかと思った。上野を助けることが颯姫の人生に関係あるかどうかは颯姫が決めることであって、赤城が決めることではないのだから。
「……やりますよ。地球上の人間の大半には関係なくても、ひとりの人間の生き死にがかかってるんですから」
杖をぐっと握りしめ、赤城を睨むようにしながら颯姫が告げると、赤城は手品のようにピンク色の花を颯姫に向かって差し出した。
「まあ、あなたはそういう人だろうと思っていた。上野から話はずっと聞いていたのでね。その杖は私からの餞別、そしてこれは、あなたが話を受けたら渡して欲しいと上野に頼まれたものだ。――花言葉を、『希望』という」
ピンク色のガーベラを一輪受け取り、花言葉を聞いて颯姫はまた泣いた。