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第225話 橘

 神へ捧げる榊と同じく、橘は聖なる常緑とこわかの木。常世とこよの国より持ち帰られ不老不死をもたらすという非時香菓ときじくのかぐのこのみは橘の実とも言われている。

 ――つまり私は、小碓王おうすのみこの后でありながら、常世とこよ現世うつしよを繋ぐ巫女。万が一の時には日嗣皇子ひつぎのみこである彼の身代わりとなる役目を持っていた。それが、今なのだ。


「シロ、ここでお別れです。やまとの地からずっと共にいてくれてありがとう。我が君を――小碓王おうすのみこ様をこれからもお守りして差し上げて。もう、私にはできないから」

「媛……」


 人語を話しながらも、シロはクゥンと悲しげに鳴いた。その首に抱きついて、少し硬い毛を撫でる。ああ、何度こうして来ただろう。野を吹く風が冷たい日、野営の炎に当たりながら、私は夫の傍らでシロを抱きしめて暖を取っていた。

 小碓王と共に東の地を平らげる旅を始めてから、この勇猛で、時に人懐こい狼は私のかけがえのない友だった。共に主を守る仲間だった。 


 相模国に入ってから、私たちは豪族に騙されて野原におびき出され、火を放たれた。煙の匂いに真っ先に気づいたのはシロ。

 そして小碓王は天叢雲剣あめのむらくものつるぎで周囲の草を切り払うと、剣と共に渡された小袋に入っていた火打ち石でこちらからも迎え火を付け、難を逃れた。

 天叢雲剣も火打ち石も、東征の道中で伊勢に立ち寄った際に叔母君である倭媛やまとひめ様より授けられたものだった。

 ――あの時もきっと、シロがいなければ状況はもっと危機的なものになっただろう。

 だから、後を託せるのはこの神使の狼しかいない。


「弟橘よ、私の代わりに生け贄になるなどと言わないでくれ。綿津見の神には捧げ物をしよう。そうだ、今ある食料を……」

「それは兵を保つためにこれから必要な物なのです! だから! 常々私が言っていたではないですか! 神々はいずこにいても見守っておられるのだから軽々しいことを口にするなと!! 剣を持って戦うばかりが戦ではないのですよ!?」


 バチン! と乾いた音が響き渡る。わぁお……私っていうか、弟橘媛、倭建を往復ビンタしたぞ……。どうしよう、前世の記憶がないって割に今の私とやることがあんまり変わってないわ。


「不死を授ける非時香菓ときじくのかぐのこのみ――橘の名に掛けて、あなた様を今死なせるわけにはいかないのです。これが、女の身でありながらここまでやってきた私の役目だと、どうか胸に留めておいてくださいませ。……そして、忘れないで。私だって死にたくて死ぬわけではない事を」


 私に頬を叩かれてぺたりと地面に座り込んでいる小碓王の、その頬に手を添える。厳しいことを言いながらも私は涙を流していた。


「愛しているから、あなたの代わりに死ねるのです」


 その一言を笑顔で告げて、私は荒れ狂う海に飛び込んだ――違う、弟橘媛が海に飛び込んだんだ。


 ああ、沈んでいく。手を伸ばしても荒れた海面は遠く、息はとうに尽きて。

 苦しい、苦しい。けれど、この苦しみを綿津見の神に捧げなければ。

 調子こいてこんな海飛んででも渡れるなんて言った愚か者が私の夫であるから。私はそんな人でも愛しているから。


 あの火に囲まれた草原の中、怯えた私の肩を抱いて案じてくれたその優しさを、決して忘れることは出来ない。きっと、次に生まれたとしても覚えている。また叩くかもしれないけど。


 私も、彼の狼も、本当は最期まで御一緒したかったのです。

 この秋津島に残る数多の伝説の中の、英雄のひとりとなるあなたのそばで。

 悲しい、切ない、愛おしい、小碓王様……。


 ――違う、これはゆずかの意識じゃない。

 わかっているのに、感情が怒濤の如くに流れ込んでくる。今まで感じたことがないくらい胸が苦しくて、それは「柚香」のものじゃないのに大声を上げて泣きたくなる。


 過去の弟橘媛の意識が途切れた後は、ざわざわとしたささやきの中に私は囲まれていた。


 人がいなければ我らは存在出来ぬ。

 我らがいなくともまた、人は滅ぶ。

 数多の神は■■を選んだ。

 異を唱える者もいよう。

 だが、人に寄り添う者もまた――。


 とても大勢が一気にしゃべっている。全部聞き取れて処理しきれない。

 頭の中が飽和状態で、自我が飛んでしまう。


 助けて、と手を伸ばしたけれど、その手が掴まれることはないとわかっていた。

 あの時海に沈んだように、私は贄になるのだと。


 このまま全てを膨大な世界の記憶に乗っ取られて、柚香である私は消える。


「柚香!」


 ああ、この声を最期に聞きたかった。私の名を呼ぶ彼の方の声。流れ着いた私の櫛を見つけて「ずまよ」と嘆いてくださった愛しい方の。


 感情と記憶が混濁している中、私は手首を掴まれていた。今までの記憶の中では感じなかった生々しい感触に「柚香」が戻ってくる。


「背の……君?」


 唇から漏れた言葉は、たった今まで感じていた古の記憶に引きずられていたけども。

 これは蓮の声だ。「彼の方」なんかじゃない!


 ――そう「ゆずか」が反論したとき、手首だけじゃなくて腕をぐっと掴まれて、反対側の腕も何かに掴まれて、私はマナ溜まりの中から引っ張り出されていた。


「ゲホッ!」

「柚香!」


 急に息ができる様になって咳き込む私を、蓮がぎゅっと抱きしめてくる。

 蓮の背中が震えていた。さっきまでの恐怖が残ったままの私は、そんな蓮にしがみつく。


「柚香、柚香……大丈夫か」


 自分が死にそうな声で、蓮が私の背中をさする。そこにしっかりとした存在があることにほっとして、私は蓮の肩に頭を載せた。


「あたま……痛い。うええええ、いろんな声が聞こえてきてわけわかんなかった……死ぬる……」


 死ぬる、とは思ったけど死んでない。今はそれに安堵することしかできない。


「ヤマトが飛び込んで、おまえの袖くわえて引っ張ってくれたんだ。だから、俺も手を突っ込んで引き上げられた」

「ヤマト……ヤマトは!?」


 ヤマトが自らマナ溜まりに飛び込んだと聞いて、私は慌てて頭を上げた。

 ――そして私が見たものは、4キロの茶色い毛並みを持つ柴犬ではなくて、首を傾げながらこちらを見つめている白い神使の狼の姿だった。


「……ヤマト? シロ?」


 ヤマトなのはわかる。でもこれはシロ。


 姿は成犬の柴犬とあまり変わらないけど、毛並みは銀色に輝いて、耳が小さいところは同じだけど顔つきが少し違う。そして、尻尾が巻いてない。体型は普通の柴犬よりもシュッとしていて――。


「――白柴になった?」

「おまえ、こんな時にボケも大概にしろよ」


 ほっとしたような蓮のツッコミが入る。その後ろでは彩花ちゃんがぺたんと座り込んでいた。


「ゆずっち……大丈夫? 記憶ある? 柚香の方の記憶、ちゃんとある?」


 入水しようとする私を止めたときの様な泣き出しそうな顔で、今は女の体に生まれたかつての夫が問いかけてくる。それに私は頷いた。


「……何故、何故その者に肩入れなさるのです」


 突然聞こえてきた怨念の籠もった声に、びくりと肩がはねる。崖の上から、私を突き落としたあの女の子がヤマトに視線を注いでいる。


「媛と出会って共に行くことを決めたのは我だ。我とそなたどちらが主か? 数々の狼藉、眷属といえども見過ごせぬぞ」


 渋いイケボが……えええええええええ! ヤマトがしゃべってる!?


「我らは共に『道を拓く者』。幾度生まれ変わっても魂の核は同じ。ならば、媛と共にあることに何の矛盾があろうか」

「そのような理由で神の一柱でありながら人の子に下るなど!」

「くどい」


 その一言を最後に、ヤマトの体が縮んで見慣れた赤柴に戻った。そして柴ドリル。濡れたわけでもないのに柴ドリル。


「わけわーかめー……」

「わーけわーかめ」

「わけわかめー」

「わけわかめー、意味ふみこー」


 私と蓮と彩花ちゃんと聖弥くんは揃って同じ言葉を違う節回しで言ってしまった。そりゃシンクロもしますよね……。


「ヤマト……?」

「ウォン!」


 私が恐る恐る呼んだら、笑顔になって駆けてくる柴犬。ああ、ヤマトだ。この手触り、この温もり、私の可愛いヤマト。


「……ならば、この場は引きまする。ですが、私は諦めませぬぞ」


 不穏な一言を残して、少女は三度姿を消した。


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