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第224話 古の記憶

「我が主、小碓王おうすのみこ様。御身をお守りするため、この先も共に参ることをお許しください」


 美しい白銀の毛並みを持つ犬の様な獣が、男性の前にひれ伏していた。その側にあるのは目を見張るほどの大きさの鹿の死骸だ。ただの鹿ではなく、その地に住まうよこしまな心を持った神だった。


「我がしもべ、我が友、道開きの神使よ。此度もそなたのおかげで難を逃れることができた。……だが、そなたはこの地で人々を守って欲しい。吾妻あづま御霊みたまと共に、この東の地で。私はどこにあっても、媛とそなたのいるこの地を想おう」


 長い髪を角髪みずらに結った男性は、長旅によってやつれてはいたが美しかった。けれど、その目は悲しみの色に染め上げられている。


「これまでの道中の案内、誠に感謝する。この地は邪神の現れる地。安寧がこの地に満ちるよう、民のために魔を滅ぼして欲しいのだ」


 剣を握り続けて来た手で、小碓はゆっくりと狼を撫でた。信頼と親愛を込めて、その手触りを忘れまいとする様に何度も何度も。そして、友にこの地を託した。――彼の妻が眠る、故郷のやまとより遠く離れた東の地を。


「……御下命、承知致しました。やまとの地への御帰還が障りなく進みますよう、この地で祈っておりまする」


 小碓の言葉に、神使の狼は深く頭を垂れた。そして、去りゆく主を霧が覆い隠すまで微動だにせず見送っていた。


 ――ああ、あの時主のお言いつけを守らず、共に行っていたらならば。

 生涯ひとりと定めた主を、我は常に守るべきだった。


 誰かの嘆きが聞こえる。悲しみと深い後悔が胸を締め付ける。

 それは倭から常に付き従ってきた、白い毛並みを持つ神使の狼――人々からシロと呼ばれた狼の声。


 狼が主と別れてから幾ばくかの月日が経った。山を護り民においぬ様と呼ばれ敬われていた狼は、ふと何かを感じ取って顔を上げた。目には見えなくとも、遥か遠くを飛ぶ白鳥の姿を狼は捉えていた。

 そして、立ち上がると遠吠えをした。涙をこぼせぬ狼の、それは魂の慟哭だった。 悲哀の滲んだ遠吠えは山々にこだまして、狼の嘆きを山野に住まう全ての獣が感じ取ったのだった。



 シロ、だからあなたは、この東の地にいたんだね。

 かつて別れた主が近くにいることを感じ取って、再会するためにダンジョンへとやってきた。神々は、ここでなら実体を持つことができるから。神話に出てくる名前のモンスターが多いのは、ここが「神の住まう地」だからだ。

 だけどあの日、彩花ちゃんはたまたまいなかった。先に出会ってしまったのは私だった。


ひめ……なのですか? 我は主の気配を辿ってこの地に来たはずが」


 じっと私を見つめながら、柴犬に似た神使の狼は私のことを窺っていた。それと同時に彼の本来の主である小碓王の気配を探っていたが、それは見つけることができなくて僅かに落胆している。


「ほら、おいで。怖くないよ」


 私が差し伸べた手を嗅ぎ、私ににこりと笑いかけられてシロの胸を満たしたのは泣き出したくなるほどの懐かしさだった。


 会いたかった会いたかった会いたかった――長い間、主のお帰りをお待ちしていたのです。あの日白鳥が――小碓王の魂が飛び立つのを見たけれど、我は彼の地で主の命を守っておりました。

 主にはお会いできなかったけれども、今こうして媛と再会することができた。なんと懐かしいその眼差し、乾いていた心に染みこむその親しげな声は、紛れもなく媛に違いない。


 これが縁ならば、今生は媛のお側に。長く共に旅をし、我を友と呼んでくださった御身のために。


『個体αが柳川柚香をマスターと認定。柳川柚香にジョブ【テイマー】を付与します』

「はえっ!?」


 媛がその大きな目を驚きに見開くのをシロは見た。

 ああ、この方は変わらない。それに嬉しくなってその胸の中に飛び込んでいく。勢い余って媛を転ばせてしまったが、彼女は笑いながら昔と同じように犬の体を撫で回し、親愛の表現を受け入れていた。


 そして、シロに新しく与えられた名前は「ヤマト」だった。媛はこの身の正体に気づいていない。転生した際に記憶を継がなかったのだろう。

 それなのに、ヤマトと名付けられたことにシロは尻尾をちぎれんばかりに振った。


 かつて倭建やまとたけると呼ばれし英雄の妻だった彼女が、やまとの地で生まれ育ちこの東国で命を落とした彼女が、自分のことを縁深いその名で呼んでくれるのは嬉しかった。

 ――姿が変わっても、この方の魂の根本は何も変わっていない。こうしてその名を与えてくれたことがその証左。



 マナ溜まりは、世界の記憶でできていた。水に似て液体ではなく、地を流れる力が密度を持って噴き出している場所だった。

 あまりに濃い気の奔流の中で、頭の中に整理する間もなく様々なことが流れ込んでくる。


 シロの――いや、過去のヤマトから感じた私に対する感情も流れ込んでくる。ヤマトの目で見た諸々が、私の意識と混じり合う。

 そっか……だから、いきなりテイムできたんだね。私とヤマトは本当に繋がっていた。会えて嬉しかったって思ってくれたんだ。


 私の胸が幸せに満たされた途端、視界がぐるりと暗転した。

 私がいる場所はサザンビーチダンジョンではなくて、海辺の小さな船着き場だ。


「海の神がお怒りになっておられる」

「これでは先に進むことがかなわぬ……」


 大王おおきみにまつろわぬ東の民を平らげるために小碓王――倭建に付き従ってきた兵が、荒れ狂う海を前に怯えきっていた。


 相模国の走水はしりみずの海。本来穏やかなはずの内海を渡って、私たちは上総の地へ進もうとしている途中だった。

 これまでも幾度となく海路を使って旅をしてきた。その経験が、小碓王を慢心させたのかもしれない。


「こんな海など一飛びで渡れる」


 穏やかで対岸が見える海に向かって得意げに言った目の前の夫の頭を「んなわけあるかい」とぶっ叩こうとしたけど、私の手は動かない。ああ、そうか。ゆずかの意識はあるけど、これは過去の記憶だ。私の意識は同調してるけどかつてあったことを変えることはできないんだ。


 この人はねえ……やたらめったら強いんだけど、ちょっと行動に問題があることが多いんだよねえ……。

 西の熊襲建くまそたけるを倒して「タケル」の名を譲られ、武勲を上げて倭に戻ってきたのに父である大王には疎まれていて、さほど間を置くことなく今度は東の地へと戦いに出された。

 その愚痴も、すっごかった。立場上部下にこぼすことができないから、そういう愚痴を聞いて慰めるのは妻である私の役目だった。まあ、私も同情的だったから、そういう時には甘やかしたけども。


 だけど、今は甘やかすわけにいかない。

 不用意な一言で綿津見の神は怒り、小舟などひっくり返ってしまいそうな大波がざざんざざんと不安をかき立てる音を奏でている。このまま海へ入ることは、死を意味した。


「ここは私にお任せくださいませ。背の君、どうか先へお進みください。――人々の安寧がその先にあるのならば、この命を神に捧げることは惜しくはありませぬ」


 精一杯ぴんと背筋を伸ばして、威厳すら感じさせる様に私は小碓王の前に進み出た。


「我がいもよ、何故そのようなことを!」


 小碓王の声はもはや悲鳴に近かった。私の裳裾もすそに取りすがってなんとか私を翻意させようと必死だ。

 でも、その願いは聞き入れることはできない。神の怒りは、本来ならば海を貶める言葉を吐いた小碓王の命を捧げなければ収まらない。他の方法は、ひとつだけ。


 激しく雨が降る中で地面に膝を突き、絶望の色を浮かべた目で私を見上げる夫の肩に、私は優しく手を置いた。


「大事を忘れてはなりませぬ。私を想うならば、勝手をお許しくださいませ。

 さねさし相模の小野に燃ゆる火の、火中に立ちて問ひし君はも。――あの時救われた命をここでお返しいたしましょう」


 何故なら、それが私の役目であるから。

 弟橘媛おとたちばなひめと名付けられた私は、神へ捧げられる運命が定められていた。


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