朝起きると、昨日の夕方はモヤモヤしてたのに意外とスッキリしていた。
そりゃそうだよね。オペラ座の怪人を見た後、いつもの様に蓮と聖弥くんと一緒に夕飯を食べて、鎌倉ダンジョンに行って暴れまくってきたもん。
結論――ダンジョンはストレス解消にいい。
さて、なんか寝てる間に思いついた感じのいいアイディアもあるし、今日からの私のクリスティーヌはひと味違うよ。
「倉橋くん、ここ立ってて」
「お、おう?」
私に言われるがままに指定の場所に立つ倉橋くん。大変素直でよろしいですね。
いつもは生歌唱のシーンは私と蓮だけが練習してるんだけど、その場面にいるのはファントムとクリスティーヌだけじゃない。首に縄を掛けられて首つり寸前にされてるラウルもいるわけでして。
「滝山先輩! 私に足りないものが分かりました。ラウルです!」
「ふむん?」
自信満々に言ったら首を傾げられたけど。
あれ? 滝山先輩の想定とは違う感じ?
「えーと、ここはいつも私と蓮だけで練習してたけど、本当はクリスティーヌの目線の先にラウルがいるじゃないですか。それが欠けてたんだと思いました」
「そうきたかー」
「なので、私のクリスティーヌとしての演技のために、倉橋くんにそこに立っててもらいます」
「せっかくだから倉橋くんも、殺されかけの演技の練習してて」
「はーい」
そうして今日も問題の場面の練習が始まる。
もはや仮面で顔を隠していない蓮が、私の手首を掴んで足早に歩いて中央へ。私は無理矢理連れて行かれてる感を出すために、足をもつれさせたりしながら歩いて行く。
「クリスティーヌ、私の音楽の天使。どうか私の手を取って。愛している。結婚しよう」
もう何回この歌詞聴いたかなあ。蓮の熱い眼差しに、胸がずきりと痛くなる。
だって、クリスティーヌが愛しているのはラウルだから。
「エンジェル・オブ・ミュージック、私に翼授けてくれた音楽の天使」
ラウルよりファントムを選んだこともあった。でもそれは過去の話。だから、愛を請う差し伸べられた手を取ることはできない。
それでも、ファントムに心を寄せたことがあるのは事実だから、悲しみを含んで彼を見つめて、その手のひらに指先だけを触れさせて――そして、クリスティーヌが目を向けるのは、攫われた自分を助けに来てくれた愛しいラウル。
「あなたに心寄せたこともあったけれど……」
私の目線の先にいるのは、小道具のロープを首に引っかけた倉橋くんだ。ここで途切れるクリスティーヌの歌詞に続くはずなのは、「私が真実愛しているのは彼なの」だと思う。
「クリスティーヌ、おお、クリスティーヌ! おまえがいなければ生きていけない! 私を選ばなければあの男を殺してやろう」
蓮が顔の右半分を覆って怒りと悲しみの混じった演技すると厨二病臭いんだけど、ここは120%の声が出ていて、迫力が今までとは桁違いだ。思わず私もゾクッとする。
ああ……ファントムは本当に彼を殺す。
――ラウル。
声に出さずに、視線だけを愛しい彼へと向ける。やめろという様に、首に掛かった縄に手を掛けて必死に抵抗しながら、ラウルはこちらに手を伸ばす。
でも、ラウルを助けられるのは私だけ。
――そう、
あれ? 変な感じ。なんか前にもこんなことがあった気がする。愛する人のために命を賭けて……。
「私の本当の心を、今見せてあげるわ!」
心は決まったと高らかに歌い上げる。ラウルを助けるためなら、私はこの手を取ろう。
自分も地面に膝を突いてファントムの手を取り、彼の目を見つめて。その目の中に戸惑いがあるのを感じながら、彼の手の甲に唇を――。
「ブラーヴォ!!!!」
「ひゃっ!」
「うおっ!」
びっくりしたー! 滝山先輩、すっごい発音良いね!?
「えー、ちょっとなにー? 柚香ちゃん覚醒? すっご!」
周囲から拍手が沸き起こる。手を握り合ったまま、私と蓮はしばらく呆然としていた。
水筒の麦茶を飲みながら、私と蓮は日陰のベンチで休憩中だ。なんか、まだちょっと頭がぼーっとしてる。
「俺も『覚醒した』って言われたけど、柚香も何か吹っ切る様なことが昨日あったのか?」
やっぱりちょっとぼーっとしてる蓮が、不思議そうに私に尋ねてくる。
んー、と場を繋ぐ様に声を出しながら、さっきの演技のことを思い出そうとする。さっきは、クリスティーヌがうまく入ってた感じかな。
「なんか、途中からトランス状態みたいな感じになった。歌の音程は元々入ってたから、スムーズに歌えたし。わかる? トランス状態」
「それくらい知ってるよ。何かが憑依したみたいな感じだろ?」
「そうそう。昨日学校で見たのとは違う版のオペラ座の怪人を蓮たちがボイトレしてたときに見てたんだけどさ、クリスティーヌを理解して自分の中に落とし込めたかというと微妙なんだよねー」
「わかる。俺もファントム意味分かんねーって思うときがある」
「そうそう、ファントムもクリスティーヌもこじらせすぎじゃない? というわけで、クリスティーヌの全部を落とし込むことは無理だと思ったから、あの場面のクリスティーヌだけ理解しようと思った。そしたら、ラウルが必要だと思ってさー。今までの練習に足りなかったのはラウルだ! って思ったわけ」
「なるほどなー。でも、クリスティーヌの視線がラウルに向いてるのを見た瞬間、確かに俺一瞬絶望したよ。あれスゲーわ」
「だって、彼を助けられるのは私だけだから!」
立ち上がって、演技してたときの様に蓮の方に振り向きながら決意に満ちた表情を浮かべれば、何故かそこにはしゅんと落ち込んだ様な蓮がいた。
あれ?
「いや、スゲーよ。マジで。歌って踊れて演技ができて、戦ったら強くて……おまえ一体なんなんだよ。おまえこそ理想のアイドルじゃねえ? 俺、何ひとつ柚香に勝てる様なものがない」
そんなことで落ち込んでるのか……そもそも勝ち負けの話じゃないし、蓮の凄いところだってたくさんあるんだけどなあ。
「いや、いつも思うけど、蓮の魔力が私は羨ましいよ? 私の魔力底辺だし。蓮だって一般人のレベルよりは歌って踊れるんだし、何より顔が良いじゃん」
「……ほんっとおまえ、初対面の時から俺の顔だけは手放しで褒めるよな」
「え、だって顔が良いなーと思って毎日見てるもん。口は悪いけどね」
「懐かしっ、それ初めて会った日にも言われたなー。なんだっけ、『アイドルって口が悪くてもやってけるの?』とかなんとか」
「言っとくけど、あのママの娘だからね? イケメンは見慣れてるんだよ? その私が『顔が良い』って言うのは凄いことなんだよ。自信持ちなよ」
ははは、と乾いた笑いを浮かべて、蓮はやっと秋の様子を見せ始めたいわし雲の浮く空を見上げた。
「結局俺って顔と魔力だけかー」
「は? 十分では? そのどっちも持ってない人もたくさんいるんだよ? それに私の歌と踊りは小さい頃からの積み重ねだから、付け焼き刃の人と比べちゃ駄目だよ」
「……そっか、そうだよな!? 俺だって今から頑張れば、柚香レベルに歌って踊れる様になれるかもしれないんだよな!」
「そうそう、私はもうダンスを習うのはやめちゃったし、ボイトレは受けてたけど蓮みたいに本気で歌の道を進もうって思ってないしね。いつか追いつかれるよ」
よっ、と声を掛けて、空を見上げていた蓮は足を振り上げた反動を使って立ち上がる。
「サンキュ、やる気出た!」
「よし、頑張れ~」
「……本当にさ、ダンジョンで助けてもらった時から、ずっと手助けしてくれて応援してくれて、柚香には感謝しかねえよ」
「助けちゃったし、やっぱり配信者として見過ごせなかったからね。あの社長は腹立ったけどー。頑張って成功して、使ったポーション代返してください!」
「マジか。計算してないんだけど。上級ポーションを何本飲んだ?」
「冗談だよ。そのくらいの気合いで頑張れってこと」
私と蓮は顔を見合わせて、思わず笑い合った。