「エンジェル・オブ・ミュージック、私に翼授けてくれた音楽の天使。あなたに心寄せたこともあったけれど……」
差し伸べられたファントムの手にそっと指先だけを触れさせて、私は彼から悲しげに目を背ける。
「クリスティーヌ、おお、クリスティーヌ! おまえがいなければ生きていけない! 私を選ばなければあの男を殺してやろう」
……なんつー、熱と悲しみの籠もった目をこっちに向けてくれやがるんですかね、このイケメン天然魔法使いは。
このシーンの練習の度に、何か吹っ切れたらしい蓮――いやファントムの愛の歌と熱い視線を浴び続けて、情緒おかしくなりそう。ここまで演技する必要なくない!?
「私の本当の心を、今……ああああああああ! すみません、思いっきり外しちゃっった」
「柚香ちゃん、調子でないね」
「……滝山先輩がこの位置に立って、クリスティーヌやってみると分かりますよ」
「ふむん?」
私がよろよろと移動したので、クリスティーヌの立ち位置に滝山先輩が立つ。
「あ、私の歌の出来は気にしないで、蓮くんの練習だと思ってやってみてね」
「わかりました。――クリスティーヌ、私の音楽の天使。どうか私の手を取って」
蓮と滝山先輩のコンビで、一通り場面が終わるまで歌い終わった。
そして、滝山先輩が普通の顔で振り返る。
「柚香ちゃんがなんで消耗するのか分からないなあ」
「ええええええええ」
「あっ!」
教室の隅の方で突然五十嵐先輩が大声を上げた。口元を手で押さえて、目を見開いてる状態はただ事じゃない。
五十嵐先輩に手招きされて、滝山先輩はそっちへ向かった。ふたりは更にギリギリの隅っこまで行って、しゃがみ込んで何事かをぼそぼそと話している。
「……理解。だったらどっちも納得できる」
「多分だけどね、多分」
「柚香ちゃん、今日はもう終わりで良いよ。蓮くんはそのまま頑張って」
「我が妹よ、ちょっとこっちおいでー」
「なんでしょう」
私は上がっていいと言われたけど、五十嵐先輩に呼ばれてそちらに向かう。
「あのね、アドバイスをしようと思って」
「ほうほう」
「蓮くんの演技は凄いよね。あれに対抗するには、柚香ちゃんもクリスティーヌになりきればいいんだよ。ファントムからいくら愛を向けられても、心から愛してるのはラウルの方でしょ? 好きな人のこと――まあ、いなければ理想のタイプでも考えて、演技で対抗するんだよ。
今の柚香ちゃんは、演技してないの。素なの。だから愛の歌を向けられると疲れるんだよ」
「なーるほどー!」
目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだね!
でもそれなら、あんな秘密みたいに滝山先輩と話さなくても良かったのでは?
ちらっとそんな疑問が頭をよぎったけど、五十嵐先輩の言う通りだ。
私に向かって歌ってると思っちゃうから動揺するんであって、クリスティーヌに向かって歌ってると思えば平気なはず!
私の意識を「クリスティーヌ」に切り替えちゃえばいいんだ。
「じゃあ、すぐ家に帰ってクリスティーヌの研究して演技を磨いてきます!」
「うんうん、頑張ってねー」
「それじゃ、お先に帰りまーす」
体操着のままで通学リュックを持って、私はその日は一足早く帰らせて貰うことにした。
「ただいまー。ママ、『オペラ座の怪人』うちにあったよね!」
玄関ドアを開けた瞬間駆け寄ってくるヤマトをいつも通りに抱き止めて、キッチンのママに向かって声を掛ける。私が見覚えあるんだから、うちにDVDかBlu-rayがあるはず!
「あるわよー。25周年記念公演版と劇団春夏秋冬版と2004年の映画版とどれがいい?」
今日は涼子さん――蓮ママの来ない日だから、ママは夕飯の下ごしらえをしてたところだった。でも私の質問に応えるために、リビングにあるテレビボードへと向かう。
「そんなにあるんかーい!」
「ユズが見たのは2004年の映画版ね。役の研究? いいじゃなーい! オープニングがシャンデリアのオークションで始まるならそれが元になってると思うわよ。深掘りしたいなら他のを見てみるのもいいかもね」
「それもそっかー。確かに映画版を学校でも見たよ。じゃあ、これ見てみようかな」
……そして、25周年記念公演版ってのを見てみたんだけども。
余計混乱しました。クリスティーヌという女について。
「クリスティーヌ、やっぱりわからんな……」
ファントムを恐ろしいと言ったすぐ後に、その歌声を褒めるんだよね。怖いんじゃないの?
私が頭を抱えていると、蓮と聖弥くんのボイトレがちょうど終わって、リビングに戻ったママがカーテンコールを早送りしている。
「それはファントムも一緒ね。クリスティーヌに素顔を見られて地獄に落ちろとか言うくせに愛してるのよね。結局あのふたりって、芸術に取り憑かれてるんじゃないかしら? ファントムの場合は美しいものへの憧れと歌の才能からクリスティーヌを遠ざけられない」
「ふむふむ」
「クリスティーヌの場合はファントムを音楽の天使と何回も言ってるけど、惹かれているところはファントムのその才能と、彼が背負っている悲しさね。女はそういう男に弱いのよ! ユズはまだこどもだから分からないかもしれないけどね!」
「うん、わからーん」
「クリスティーヌも父を亡くして孤児になってるから、共感しちゃうんじゃないかしら。クリスティーヌはファントムに父性を見てるというか、亡くなった父を重ねてるような演出が何カ所かあったでしょ。複雑よねえ、愛って」
「高校生ができる演技じゃないと言うことは理解出来ました」
「まあ……そうかもしれない」
私はどう考えてもDV夫になりそうなファントムに恋をしたりしないだろうけど、じゃあどんな人が好みなんだろうか――そう思ったら今一番考えたくない人間の顔が思い浮かんで、慌てて別のことを考えた。
*****
「滝山ちゃん滝山ちゃん、ちょっとこっち来て!」
「何よ五十嵐さん」
美鈴に呼ばれた滝山は、教室の隅に向かった。そこで「しゃがんで」とジェスチャーで伝えられ、その通りにふたり並んでしゃがみ込む。
「今、気づいちゃったんだけどさ……」
美鈴は声を極限まで落としていて、自然と滝山は彼女と顔をくっつける様な距離で話を聞く羽目になった。
「蓮くんが最初に歌うのを渋ったのも、歌の途中で無理って逃げ掛けたのも、柚香ちゃんのことを本当に好きだからじゃない?」
「……はい?」
「だって、どうでもいい相手になら、逆に歌えるでしょ」
「あー……、確かにそうかも」
「蓮くんに自覚あるかどうかは知らないけど、少なくとも彼は『柚香ちゃんに向かって愛の歌を歌うのが恥ずかしい』んだよ。で、恥を捨てたからあの歌と演技が出てきた。柚香ちゃんにじゃなくて、クリスティーヌに歌うんだって意識を切り替えたんだろうね」
「やっば、五十嵐さん名探偵じゃん」
「で、柚香ちゃんの方が段々参って来てるのは、やっぱり恥ずかしがってるんだよ。『ファントムがクリスティーヌに歌ってる』って思えなくて、蓮くんが自分に向かって歌ってると思っちゃうんじゃないかな。そうでもない限り、わりかし強メンタルな柚香ちゃんがお芝居の愛の歌ごときでヘロヘロになる理由がない」
「だから消耗したのか。私全然なんともなかったもん。待って? まさかそれって……」
「無自覚両片思い。ウホウホ」
「なんて美味しい展開なんだ……これは柚香ちゃんの意識を変えちゃえば、凄い演技が出てくるぞ」
「ほんとそれだよー。蓮くんは柚香ちゃんにだけ微妙に態度違うから、もしかしてーとは前から思ってたんだけどさ」
「……理解。だったらどっちも納得できる」
「多分だけどね、多分」
ふたりは顔を見合わせ、立ち上がった。