常緑樹の木陰に、百恵の隙間から溢れる木漏れ日。ベンチに腰掛けたまま、所々黒ずんだ校舎を眺める。今朝、夢に出てきた場所だ。
気付けば引き寄せられるみたいにここに来ていた。
傍に置いた真っ新な新書を見つめて、顔を覆って。
「ンァー……無理」
「俺の作品は読んで頂けました?」
「今日も進出鬼没だねぇ」
ベンチの後ろから、ひょっこりと形の良い頭部が覗いた。正夢かと冷や汗をかくが、これは因果か逆だ。どちらかといえば、俺が夢に引き摺られた結果である。かぶりを振れば、視界の端で、本屋敷くんが此方を向く。背もたれ越しに、肩が触れ合う程の距離までスライドしながら寄ってくる。人らしい挙動ではなかったけど、本屋敷くんらしい挙動ではあった。
「本屋敷くんってさぁ」
「はい」
「なんでずっと敬語なの?」
「突然ですね」
間延びした声に、幾らか気分が落ち着くのがわかる。いつも通りだ。日常の延長線でしかない。
「俺、シングルタスクで」
ポツリと呟いて、視線を上に。校舎の方をぼうっと眺める横顔は、映画の1シーンみたいに綺麗だった。
「口調を使い分けるの、すごいリソース割かれませんか」
「そうかなぁ」
「ある日気付いたんですよ。いっそ全員に敬語で接したら、めちゃくちゃ楽なんじゃないかって」
「ふふ」
「作業の進み具合も上がりました」
やっぱ本屋敷くんは変な子だ。変な子だけど、面白い。作品の事しか頭に無い。前にそれを言ったら、「承認欲求に取り憑かれた怪物です」と割りかし深刻な解釈をされたので、口には出さないけど。
「俺のこと名前で呼んでよ」
「今の話の後にそれですか?」
「冗談だよ」
思いの外自嘲気味な笑いが漏れる。俺だけ特別扱いなんて。やっぱり、そんなのは無理な話だったみたい。
「…………悠太くん」
「えっ、」
「今日はお話があってきました」
心臓が跳ねる。口から出てくるかと思った。でも俺の実際の反応と言えば、指先を軽く曲げただけだった。努めて平静な声で、「なに」と言う。
『恋人』としての最後の思い出が、「暴れる男」として刻まれるのだけは避けたかった。
「作品が完成しました」
「うん」
「……俺は良い人間とは言えなかったでしょう。君に指摘されなければ、きっと今も、本来の目的すら明かさずに君を利用していた」
「でも、実際は違う」
「ええ、それは君が聡かったからです。俺は君の優しさに付け込んだし、君は俺のエゴを知って尚、仮初の恋人として付き合ってくれた」
サラと、細い黒髪が揺れる。金木犀の匂いだ。出会った時と、変わらない匂い。此方へと向けられた、琥珀色の目が撓む。初めて見た、年相応の笑みだったかもしれない。
もうずっと胸が痛い。本屋敷くんの笑顔のせいか、
夢の再現への恐怖のせいか。もうわからない。多分どっちものせいだ。
「改めてお礼がしたかったんです。君の協力無しでは、これは書き上げられなかった」
「…………」
「今までありがとうございました。そして───、」
「まって、」
本屋敷くんの口を塞ぐ。目を見開いて、間抜けに眉毛を吊り上げて。文机を跨いだ時、手を掴んだ時。此方が境界線を越えた時、彼は決まってこう言う顔をした。
そしてこれは、夢の焼き増しだ。否、焼き増しになるのが嫌だから、今こうして足掻いてる。その先は言わせない。
だって俺は、「友達に戻ろう」なんて、君の口から二度と聞きたくない。
「えっと、その、俺、君のこと━━━━」
この先は分からない。夢で俺は、何て言おうとしてたんだろう。手を掴んで、引き止めて、君の目を見て。
そして、……そして?
「─────ころしちゃいそう」
震える声は、確かに俺の声だった。目を見開いたまま、「え?」と掠れた声を漏らす。不思議な気持ちだ。
圧倒的に間違ってるのに、何処かで納得している自分が居る。
「だって俺は一回だって、仮初の恋人なんて思ったことなかった。そう思ってたのは君だけだ。俺はいつだって真剣で……、」
俺の上擦った告白を、本屋敷くんは静かに聞いていた。煙る睫毛が、音を立ててゆっくりと瞬いた。
「……そうだ、本屋敷くん。俺、分かった気がするんだ、あの映画の意味」
好きな女の腹を裂いて、ぐちゃぐちゃに殺した殺人鬼。彼奴の気持ち、今なら分かる気がする。
「分からないんだ」
どうしても好きで好きで、大好きで堪らなくて。初めて、心の底から欲しいって思った物。それが手に入らないって分かったとき。その激情をどうしたら良いのかわからない。
誰かの物になるくらいなら。手に入らないくらいなら。この世にない方が良い。
そんな悍ましい身勝手が、今なら痛いほど理解できる。俺はきっと、彼を本当の意味で愛せているわけではない。だって、彼が俺以外の人間と幸せを享受する姿を想像するだけで、気が狂いそうになるんだから。
「────許さない」
「俺から離れるなんて、絶対に許さない」
「どこに逃げても追い回す」
「ずっと一緒にいるって言って」
「俺だけを特別にして」
気付けば、ワイシャツに縋り付いていた。みっともない。見苦しい。けれど、でも。彼は『キョウリョウ』じゃないから、俺の我儘だって受け入れてくれる筈だ。本人がそう言ってたんだもん。
「……だから、目が怖いんですって」
「っ、」
「冗談に聞こえませんよ」
「……冗談?」
冗談を言ったつもりは無いけれど。
首を傾げれば、本屋敷くんは平らな目をする。胡乱に双眸を細め、ため息を吐いて。
「話を聞かないのは、本当に悪い癖です。直しましょう」
「…………」
「俺はね、別れ話をしに来たわけじゃ無いんですよ。お願いです」
「お願い?」
俺の問いに、慇懃に頷く。手付かずの新書を掴んで、ページを捲る。とあるページから引き摺り出されたのは、ノートの切れ端だった。
「なにそれ」
「その様子だと、まだこれは読まれていないようで」
「……気付かなかったの。俺、活字苦手だし」
「そうですか。では、直接言いましょう」
小さく咳払いする。芝居じみた所作だと思った。もしかしてあれは、緊張の発露だったりするのだろうか。今までのやり取りを回想しながら、そんな感想を抱く。
「『もう少し、この関係を続けませんか』」
「え?」
「具体的には、俺がこのシリーズを完結させるまでずっと」
「それって」
震える声で、本屋敷くんの手を掴む。彼は今、『シリーズ』と。『ずっと』と言っただろうか。
顔を覗き込めば、その頬は少しだけ上気していて。相変わらずの鉄仮面だが、彼が平生の精神状態でない事は伺えた。
「………そのですね。割りかし好評と言いますか。それなりに賛否が分かれたんですが、それ以上に新しい読者層が増えたと言いますか。端的に言えば、その、続編の執筆が決定し」
「喜んで……!」
湧き上がる激情のまま、本屋敷くんを抱き締めていた。前のめりになり、バランスを崩す本屋敷くん。ベンチの背もたれに手を突き、身体を支える。身じろぎつつも、どこか安堵したように緩められた表情が、どうしようもなく嬉しかった。
「まだ本屋敷くんと恋人でいて良いって事?」
「慧」
「へ?」
俺にニーブラされたまま、本屋敷くんは相貌を擡げた。伏せられた視線が、ふ、と此方を向いて。
「慧って、呼んでくれないんですか?」
潤んだ上目遣いに、顔が一気に赤くなるみたいだった。
俺と本屋敷……慧くんの気持ちは、きっとまだ1ミリだって吊り合ってない。けれど、今はそれで良いと思った。
彼とずっと一緒に居られる方法を、やっと見つけられたんだから。
「死ぬまで小説家で居てね。センセ」