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10最悪の目覚め

本屋敷くんと恋人になって、1年以上。俺史上一番続いた関係の中で分かったことは、彼は案外表情豊かだって事だ。拗ねたときは少し眉間に皺が寄るし、興奮している時は少しほっぺが赤くなる。

「……絢瀬くん」

けれど目の前の彼からは、何の感情も読み取れない。それがとてつもなく怖くて、怖くて。

竦んだ足のまま、一歩後退る。

「今までありがとうございました」

やめてよ。そんな、これきりみたいな言い方しないで。上手く声が出ない。辛うじて泣き出さずにはいられてるけど、俺、今上手く笑えてるかな。

「友人に戻りましょう」

頭を下げて、踵を返してしまう本屋敷くん。

当然だ。元々、彼の創作活動のためのお付き合いだったんだから。俺だって、最初は打算と惰性でしかなかった。それと暇潰し。だから俺たちの関係は、彼が目的を達せばそれで終わりだ。何もおかしな事はない。

「待って」

なのに、気付けば本屋敷くんの手を掴んでいて。頭と身体が別々になってしまったみたいだ。ああほら、目元が動いた。本屋敷くん困ってる。

今すぐに手を離して、「こちらこそありがとう」って言う。そうするべきだって分かってる。けどやっぱり、口は別の人が動かしているみたいに、勝手に言葉を紡ぐ。

「えっと、その、俺、君のこと━━━━」

バン!と。

何かを叩きつけたような破裂音に、目を見開く。

バン、バン、バン、バン。

狂ったように響き続ける音は、俺がベッドから飛び起き(.........)たら、やっと止んだ。

上手く回らない首で、音源───自室のドアへと視線を向ける。するとドアの隙間から覗いた右目と、視線がかちあう。二重幅が広くて、睫毛も長い。そして瞳孔が開ききっている。素材は素晴らしいのに、澱み具合は、まず正気の人間のそれではなかった。

「起きろ、愚弟」

地獄の底から響くような声を残し、扉が閉まる。階段を降りていく足音を聞き届けながら、溜息を吐く。有難いけど、もうちょっと心臓に優しい起こし方をしてほしい。

「…………寝覚め最悪じゃん」

前髪を掻き上げて、視線を横に。そこには先日入手したまま、手付かずの新書が横たわっている。

『柳由宿 弘』

新書の背表紙に刻まれた、著者の名前である。「やなゆすく こう」と読むらしい。変な名前だと思ったが、読み方を聞いて、確かに本屋敷くんのペンネームだと思った。

連絡が入ったのは、数週間前だった。製本が完了し、もうすぐ新作が全国書店に出回るのだと。俺に連絡してきた時点で察しは付くが、それは彼の初めて書いたラブロマンスだった。

その報告を聞いた時、まず胸に湧きあがったのは歓喜。そして、ついにきたかと言う諦観だ。本の完成は嬉しい。俺は本屋敷くんが好きだから、彼が嬉しいなら俺も嬉しい。けれど同時に、彼との関係が終わると言うことも、嫌でも理解させられる。そうなると、なんだかあの本が酷く忌まわしいものに思えてしまって。下手に手を出せば、俺は一夜のうちにあれをビリビリに破いていたかもしれない。

「いい加減にしろよ、愚弟」

「うわっ、兄貴!?」

再びドアの隙間から聞こえてきた声に、肩を揺らす。全く音も気配も無かったので、俺の兄貴は本当怖い。ご飯を食べたのか、先刻に比べると幾分か話が通じそうなツラをしている。

「モタモタするな。早く降りて飯を食え」

「ごめん」

「牛乳は俺が飲み干したから、お前は水道水で──、」

「兄貴」

声をかければ、神経質そうな目元に皺が刻まれる。ドアを開けてノソノソと入ってきた兄は、俺の脇を一瞥して、「なんだ」と短く答えた。

「この本、要る?」

「本?……お前が買ったのか?」

「貰ったんだよ」

信じられない物を見るような目で見てくる。本を掴んで押し付けるように渡せば、まじまじと本を観察した。

「柳由宿の新作か」

「知ってるの!?」

「多少は。俺はお前と違って本を読むからな」

「じゃあ、あげるよ」

「要らん。もう読んだ」

事もなげに言ってのける兄に、「は?」と目を剥く。今サラッと衝撃の事実が明かされなかったか。

「ファンなの?」

「ファンという程ではない。たまたま新作を見掛けたら、購入する程度の俄かだ」

それは充分ファンなのでは。

そんな言葉を呑み込んで、パラパラとページを捲る兄を見つめる。兄と口論をするだけ、時間と労力の無駄だからだ。

「どうだった?」

「本当に読む予定は無いのか」

「うん」

「そうか」

捲るのをやめ、兄貴は少しだけ目を見張る。やや於いてパタンと本を閉じ、此方へと手渡してきて。

「……良くも悪くも、柳由宿らしくは無い作品だった」

腕を組み、視線を巡らせる。鋭めの眼光が、俺の手元を睨んだ。

「ジャンルは元より、描写に主観らしい物が混じっていたのは、あれが初めてだった」

「主観」

「淡々とした、公文書じみた語り口。それが柳由宿のある意味での色でもあった」

回想する。俺は本を自主的には読まないので、比較対象が無い。けれど彼の小説とは、確かにそう言った無機質さがあった。事実以上の意味を持たない文章に、感情らしい感情が、執拗なまでに排された語り口。簡潔に要点が纏められており、一文一文に洗練された印象を受けたのは事実だった。

けれど兄の口調から察するに、今回は何かしら変化が見られたのだろうか。

「特に、相手の男に寄った描写が目立った」

「え?」

「偏執的でアンバランスな男への憐れみを匂わせたかと思えば、男の見せた、少女への気遣いを称賛する。全体的に男が────」

「わかった、もう良いよ」

淡々と書評を行う兄の言葉を、堪らず遮る。腹底に、重い物が沈殿していくようだった。だってその作品の取材元は、俺自身だ。読んでみたいに決まってる。彼から見た俺が、言語化されているのだ。

けれど若しその中に、俺への拒絶を見出してしまったとしたら。それはきっと、とても悲しい。耐えられないかもしれない。

「ありがとう、兄貴」

「おいお前、」

「ごめんね、毎朝。明日はちゃんと起きるよ」

指定鞄を引っ掴んで、兄を押し退けるようにして部屋を出る。机の上に置いた本を一瞥。鞄に入れていくか少しだけ迷ったが、そんな気分では無かった。少しだけ階段を踏みしめれば、想像よりもずっと重い音を立てて、床材が軋んだ。

「悠太」

背後から兄貴の声がしたので、振り返る。

「読め。俺は悪くないと思った」

「でも」

「読んでやれ」

「……?それって………っ!?」

本を投げるのは、危ない。幼稚園生でも知ってる。しかし兄はそれを知らない。若しくは知った上で実行する。どっちに転んでもヤバい人だ。

兎にも角にも投擲されたそれを受け止めて、拍子に、ハードカバーの隅が掌を抉る。

「痛ーっ!」

叫び、蹲る俺の頭に手を添え、そのまま前髪を掴み上げる。お弁当箱でも持ち上げるような無造作さだった。ブチブチと毛髪の千切れる音を響かせながら、俺の双眸をガン見して。

「読め」

低く強要する声に、涙目で頷いた。



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