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9○○が終わる頃には

ぱん、と。気持ちの良い破裂音が響き渡る。遅れてジンジンと熱を持った頬に、自分が殴られたのだと理解する。

「最低」

それだけ吐き捨てて、女の子は踵を返す。離れていく女生徒の背を見送って、頬をなぞった。直前に向けられた彼女の視線を思い出す。公園の隅で裏返ったカナブンに、向けるような目だった。その目は割と直近で見た。その時は、後にも先にもなんて感想を抱いたが。

「…………俺ってクズなんかな」

「今気付いたんです?」

「うわ、神出鬼没ゥー」

茂みからヌッと出てきたのは、本屋敷くんだった。頭に葉っぱを乗せて、「よっこらせ」とか言いながら隣に腰掛けてくる。どこから聞いていたのだろうか。最初からだったら嫌だな。

「おはようございます」

「寝てたの?ここで?それで今起きたの?」

「ええ。猫ちゃんみたいでしょう」

「そうかなぁ」

「とても可愛いです」

「そっか……」

本屋敷くんが言うのならそうなのだろう。

頭の葉っぱを払い落としてあげれば、黒髪がサラサラと揺れる。確かに少し猫に似ているように思えてきた。

「で、何があったんです?」

「本屋敷くんは何してたの?」

「ん?」

「へ?」

被った声に、互いに顔を見合わせる。聞き取れなかった……事にしたいが、ばっちりと彼の問いは聴こえてしまっている。かくなる上は引き延ばしだが。

「では俺から答えましょう」

爪の先を眺めながら、本屋敷くんは言う。願ってもない事だ。できればこのまま煙に撒きたい。

「俺は君を待っていました」

「えっ、俺を?」

「ええ。君が女子生徒に呼び出されたと聞いて」

「あー……、」

「気が気じゃありませんよ。恋人が可憐な女性に呼び出されて。あわや捨てられるのではないか」

……あんまり来ないので、先に寝ちゃいましたけど。小声で呟いて、憐れっぽく背を丸める本屋敷くん。その声音は、やけに芝居がかった物だった。彼の言葉が本当なら、俺はバンザイして小躍りしただろうが。

「手帳、中身見えてるよ」

「えっ、やば。でもどうせ寝ちゃったから、都合の悪い事は書いてないはず、あっ」

「嘘だよ、見えてない。……でも酷いなぁ、面白半分で恋人がぶたれるとこ見に来るなんて」

「それはその、取材の一貫で──いやでも、ちょっと心配してたのは本当ですよ」

「本当かなぁ」

「本当本当。というか、えっ、君ぶたれたんですか!?」

寝てたのは本当くさいな。マジで猫ちゃんじゃん。

けど、自分からこの話を蒸し返したのは不味かった。感情的になりすぎたかもしれない。横目で本屋敷くんを見たら、無言で微笑んで先を促してくる。逃げられそうにない。

「……告白を断ったら殴られた」

「跡を濁さない系男子の絢瀬くんが?すごく恨み買ってるじゃないですか。君らしくもない。どんな酷いフり方したんです?」

「別に普通だよ。『君とは付き合えない』って」

「成る程。でもそれで人を殴るだなんて。余程自信があったんですかね。若しくは確信が」

「……確信」

「『自分がフられるはずがない』って。そう言う類の」

すう、と細められた目には、妙に透徹した光が宿っていて。純粋に質問していると言うよりは、知った上でそれを俺に言わせようとしている。どちらかと言えば、教師が、答えを分かった上で生徒を誘導するような口調だと思った。彼に中途半端な嘘を吐くのは、得策では無い気がした。

「そう言われたよ。『あれだけ思わせぶりな態度を取っておいて』『弄んだのね』『皆んな応援してくれたのに。どうしてくれるの』」

だから、事実だけを述べる。これは全て、実際に投げかけられた言葉だ。

「酷い逆恨みですね」

「本当に。確かに最近話す機会が多かったから。……あの子には、悪いことしちゃった。距離を測り間違えたかな」

「…………」

相貌を伏せ、親指同士を擦り合わせる。彼女に興味があったのは本当だ。面白いと思った。それって、人並みの好奇心でしかないと思う。でも少し浮かれて、距離を測り間違えたら、俺が悪い事になる。だから、そこら辺は気をつけて生きてきたつもりなんだけど。

………測り間違えた?

いや、違う。違うでしょ。俺が測り間違えたんじゃない、あっちが見誤ったんだ。俺の方に問題があるんだったら、それはおかしい。みんなが勘違いしてくれるってんなら、もっと。

……本屋敷くんだって、嫉妬の一つくらいしてくれるはずでしょ。

「…………本屋敷くん?」

ふと、彼が先刻から黙りこくってしまっている事に気付く。首を傾げれば、本屋敷くんはぼんやりと景色を眺めながら、「絢瀬くん」と声を上げる。相変わらず綺麗な横顔だ。ぴ、と親指と人差し指を立てて、虚空を指差した。

「丁度、あの時の事を思い出していました」

「あの時?」

尋ね返せば、無機質じみた相貌が此方へと向けられる。

「はい。最初のデート……映画館に行った時の事です。『スプラッタの後だから、肉料理じゃなくてパスタを予約した』と」

「ああ……」

言った。確かに言ったが、それがどうしたのだろう。首を傾げれば、息を吸って、たっぷりと間を置いて。やっと本屋敷くんは唇を開いた。

「想像力の欠如」

「なに?」

「往々にして、『加害側』に回った───誰かを傷つけたり、一線を簡単に超えてしまう人間については、それで8割型説明が付く物だと思っていました」

「殺人鬼とか犯罪者がってこと?」

「それもですが。法の範囲内で起こる、些細な諍いや軋轢も大方です」

そこまできて、なんだか臓腑が冷えるような心地に襲われた。何が起こるかわからない。先が見えず、何に続いているのかも分からない紐の端を、握らされているような。そんな不安感。

「君が振られるのもまた、それが原因だと思っていました」

「俺の想像力が欠けてるって?」

「お互いにです。君は、凄惨な映画を見せられた相手が、どんな感情を抱くのかを想像できない。相手は相手で、君の意図や狼狽、内面を想像できない」

「…………」

「端的に言って仕舞えば俺は、君のことを天性の無神経さん。……ノンデリ男だと思っていました」

かなりショックな言葉だ。けど、うん。彼が終始過去形でしゃべっている事を鑑みると、多少の印象の変化はあったのだろう。

「けれど君は、想像力が欠けている訳では無い」

「俺の事なんだと思ってたのさ」

「ええ、本当に見当違いな誤解でした。君は寧ろ、かなり正確に、相手のリアクションを想定できる人間なのに」

「……褒められるのは嬉しいけど、買い被りすぎだよ」

「だからこそ君は、あれだけ完璧に、後腐れなく人と縁を切れる」

俺の言葉に被せるように、言い切る。腹の底まで見透かす眼光が、怖くて仕方なかった。

「どうすれば人に恨まれないか。逆に、どう振る舞えば『相手が自分を捨ててくれるか』。それらを知り尽くしている君だからこそ、できる芸当だ」

「………………」

視界が歪む。息が苦しい。自分自身の臭くて汚い部分を、鼻先にでも突きつけられたような心地だ。足元から這い上がってくる恐怖心は、その悪徳と対面する事自体ではなく、彼が、次にどんな目で俺を見るのかと言う物に他ならない。

「けれど君は。相手の反応を誰よりも理解しながら、それを決行する。アフターフォロー前提で動いているようにも見えます。事態を回避する方針で動くのではなく。……相手が傷付くと理解していながら、それを止めない」

「つまり本屋敷くんはこう言いたいの」

限界だった。耐えられなくなって、言葉を遮ってその先を継ぐ。本屋敷くんは言葉を選んでくれているみたいだけど。俺からしたら、それは耐え難い苦痛でしかない。先刻からずっと、断頭台の前にでも立たされているような心地なのだ。

「……『俺は故意に、彼女を傷付けた』」

「…………」

「『誤解させると理解して、その距離感で彼女に近付いて、あえて好意を匂わせた』」

返事は無い。けれど、訂正が無いということは、大方言いたい事は合っているのだろう。思えば彼は俺を、初対面で『怒らせた女性の反応を見て楽しんでいる異常者要約』と評したのだった。的外れではあったけれど、根本の後ろ暗い部分は最初から見抜かれていたのだろう。

潮時か。

「──────そうだよ」

思いの外、穏やかな声が出た。本屋敷くんの目元が、強張るみたいにピクと揺れる。

彼の言う通りだ。

俺はわざと彼女に近づいたし、結果として故意に彼女を傷付けた。もっと言うなら、それを『悪い』とも思っていない。

「俺は君の言う通りの最低野郎だ。それで?」

微笑んで、首を傾げる。バレた物は仕方ない。記憶は弄れないんだから。それより、

「……本屋敷くんは、それを知ってどうするの」

それより大事なのは、これからの話だ。

「答え合わせしたかっただけ?」

「…………」

「それとも────、」

「────別に」

震える指先を、後ろ手に擦り合わせる。本当は今すぐにでも、飛びかかって口を塞ぎたいくらいだ。けれど実際は、赤い唇が蠢くのを、ただただ見守ることしかできなかった。

「別に俺は、君が何故そんなことをしたのか知りたいだけです」

「でもきっと、失望するよ」

「それでも、俺と君の関係に変化はありませんよ」

「…………」

「あくまで一貫して、取材のための関係です」

朴訥と言い切る本屋敷くん。「……見捨てない?」と尋ねれば、「二言はありません」と深く頷く。それを信じられなくて、なぜか、信じるのが怖くて。けれど一方で、嘘でもそう言ってもらえて良かったと思った。

そうでなければ──「別れよう」だなんて言われてしまった日には、自分が何をしでかすか、自分でも想像がつかない。

「その……、えっと。ファンクラブって知ってる?」

ほとんど口を突くような形で出てきた言葉に、本屋敷くんは目を見開く。

「ええ」

目を見開いたまま、口元を笑みの形に歪める。知ってたのか。少し意外だけど、それなら話は早い。

「彼女、本屋敷くんの事大好きだったから」

「はい」

「……………………取られちゃうんじゃないかって」

「はい。……え?」

目を剥いて、少しだけ仰反る本屋敷くん。初めて見る表情が嬉しい。もっと近くで見たくて、間近で顔を覗き込む。彼の目に映り込んだのは自分自身の筈なのに、全く知らない男を見ているみたいだった。自分がこんな、恍惚とした───薄気味悪い笑い方ができるだなんて、知らなかった。

「『俺たちを見守るだけのファンクラブ』なんて名目だけど、実態はお互いに牽制し合ってるだけだ。笑えるよね。チャンスさえ有れば、盟約なんて無視して、ああして簡単に飛び付いてくるんだから」

「あ、綾瀬くん……?」

「だから、きっと君にも誰かが手を伸ばす。そしたら君も、告白とかされちゃって、女の子の方が良いって。そう思うんじゃないかって」

「いやいや、」

「だから、俺のほう向いて貰ったの。本屋敷くんに手出されないように」

俺に靡いてくれるような子で良かった。靡いてくれなかったら、また考えることとやる事が増えるところだった。いやでも、その程度の覚悟で手を伸ばされたのも中々癪だけど。

そんなに安っぽい男に見えるかな?俺の恋人。

「………怒っていますか?」

「え?」

意識を引き戻す。気付けば本屋敷くんの頬に両手を添えていて。

「怒ってる?……俺が?」

「ええ」

「そう見える?」

「ええ」

どうなんだろう、俺は怒ってるのかな。実感はないけど。でも本屋敷くんが言うなら、そうなのかもしれない。いや、なんで俺が怒るんだろう。

「怒るとしたら、本屋敷くんの方でしょ?」

「え?」

「君にバレないようにしなきゃなのに、バレちゃった」

「君の倫理観がアレなのだけがわかりました」

「怒った?」

頬を包んだまま聞けば、本屋敷くんの目元が少しだけ痙攣する。パッと見じゃよく分からない機微だけど、今ならわかる。俺にだけわかる。それは、困っているときの表情だ。

困らせちゃったなぁ。いやでも、俺のせいで困る本屋敷くんはなんか素敵。

「ねぇ、怒った?」

「怒ってないです……」

「本当?じゃあ俺のこと嫌いになった?」

「いえ。というか、近…………」

逃げるみたいに仰反るけど、なんか今の俺、逃げられそうになること自体が地雷みたいな所ある。逃がさないように手に力を込めたら、「頭取れる頭取れる!」と抗議を受けた。

「ほら、逃げようとするじゃん」

「それは君が詰め寄ってくるから……だめだ目が据わってる……」

「やっぱり俺のこと嫌いになったんだ。でも駄目だよ。関係が変わらないって言ったのは、本屋敷くんなんだから」

「あのねぇ。お話を聞きなさい、先ずは。俺は怒ってもないし、きみを嫌いになったりもしない」

「…………」

「君を殴った彼女は、極論他人でしかないですからね。他人のために怒れるほど、俺はできた人間じゃない」

ひたと。今度は、本屋敷くんが俺の頬を包み込む。相貌を擡げた拍子に、彼の節目がちの瞳に、きらきら星が散った。貫くような眩しさだ。思わず目を細める。

「けれど、不満が一つあります」

「…………不満」

「ええ。君から見て俺は、そんなに狭量な男に見えましたか?」

「きょーりょー」

「君の我儘一つ受け入れられない、心の狭い男に見えましたかと。そう聞いています」

「……!」

陶器で頭を殴られたような衝撃だった。そんなわけない。ほぼ反射的に首を振れば、本屋敷くんは唇の端で笑った。

「分かっているなら良いです。不安になったのなら、『あの女に関わらないで』と。一言そう言ってくれれば良いんです」

「それはちょっと……」

「何故?俺の君への感情は変わりませんし、回りくどい事するのも時間の無駄ですし」

心底不思議そうな声だ。心の底から、そう思っている事が分かる。何というか、『どうでも良い』と言ったのなら、それは本当に彼にとってどうでも良いののだろうと思った。無頓着というか、極端というか。

でも俺は知ってる。本屋敷くんは無頓着なようで凄く鋭いし、馬鹿正直なようで嘘吐きだ。

「…………捨てないでね」

「君こそ。途中で居なくなったりしないでくださいね」

結論は同じだけど。俺と彼の気持ちには、天と地ほどの落差がある。それで良い。取り敢えず今は。

そう、利害が一致している限り、本屋敷くんが俺を捨てる事は無いのだから。

作品が、完成するまでは。


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