その異変に最初に気づいたのは、帰宅したばかりの妻マーガレットであった。
彼女はデュランのレストランで朝食を済ませると「やはり夫であるケイン本人が謝罪しなければいけない」と、様子見がてら夫の説得を試みようと考えていた。
だが帰宅してすぐに家の中が漂う重々しい空気に包まれ、何か
「ま、まさか……っ!? け、ケインっ!!」
彼女は急ぎ夫が居るはずの寝室へと向かい走った。
自分が考えていることが正しいならば、これから待ち受けているであろう光景は最悪なものであることは彼女自身も解かっている。
心のどこかで自分のその考えが外れて欲しい……そう思いながらも不安な気持ちで寝室のドアを開け放った。
「これ、は……?」
寝室に入ると、その異変はより確実なモノへと変わっていく。
見ればテーブル上にはカーネーションを入れてあったグラスが横に倒れており、床の赤いカーペットは何か液体を零したかのように黒ずんでいる。
もしかするとそれは夫の血なのかもしれないと、マーガレットはこう必死に叫んでしまう。
「っ!? け、ケイン! 居るなら返事をしてちょうだいっ!!」
カーペットのシミが夫のものなのか定かではないが、今はそんなことより夫の無事を確認するのが先決だった。
マーガレットは自らの予想がすべて外れて欲しいと思いながらも声を張り上げ、ケインの名を叫びながら部屋を見渡してその姿を探した。
「……ケイン? そこに居るのは貴方なの? きゃっ! いたたーっ」
するとベットの隅の方で人が居るような気配を感じ取り、ゆっくりとその元まで恐る恐る歩み寄ろうとする。
だが動揺していたせいなのか、彼女は濡れたカーペットに足を捕られしまい床へと転んでしまう。その衝撃で右手を打ちつけ痛めてしまうが、今はそれどころの話ではない。床を這い蹲る形で近づいて行った。
「あ、あ、あ……ああああああっ!?」
マーガレットが目にしたもの……それはベット脇の床に座り込り、だらしなくも頭を
しかもその右手には拳銃が握られ、どこをどう見ても自殺した後の姿そのものだった。
「ケインっ!?」
「あ……ああ? マーガレット……か。ははっ、なんで君がここに?」
彼女は驚きからすぐさま夫の肩を掴み名前を呼んだ。一瞬既に自殺しているものだと勘違いしたのだが、どうやら違ったようだ。
ケインはまるで寝起きのように
だがその瞳はどこか目の前に居る妻のことを捉えておらず、焦点すら合っていないのかもしれない。ただ声のする方へと反応を示しているだけにすぎなかった。
「とりあえず、この拳銃を手放しましょ。……ね?」
「ああ……そうだな」
一応マーガレットの呼びかけに応じ頷きはするものの、一切動こうとはせずにまた右手に握られたままの拳銃も放そうとはしなかった。
「ケイン……」
そんな抜け殻にでもなってしまった夫の右手に、妻であるマーガレットはそっと手を重ね優しく包み込む。
「ごめんなさい……ごめんなさいね。すべて私のせいなのよ……」
そして謝罪の言葉を口にしながら、マーガレットは夫である彼の頭を優しく抱き締め撫でた。
頬を伝わり、冷たい涙がツウーッと流れ落ち彼の瞼や頬を濡らしていく。
(私が……私がすべて悪いのよ。ケインがこんなになるまで思いつめていたのに全然気がつかないなんて……ほんと、ごめんなさい。いくらでも謝るから正気に戻ってちょうだい……お願いよ……)
彼女は自ら拳銃で自殺してしまうほど追い込まれているとは知らず、夫であるケインを家にただ一人置き去りにしてしまったことを激しく後悔した。
もし自分が傍に居れば異変に気づけたかもしれない。そしてちゃんと話を聞いてあげれば、拳銃なんて持ち出すこともなかったかもしれない。そう考えただけで彼女の心内は張り裂けそうな痛みに襲われ、涙が次々と溢れ出していた。
「ぅぅッ……あ、れ? マー……ガレット? 何故、君が泣いているんだ?」
「ケインっ!? 正気に戻ったのね貴方っっ!!」
「うわっぷ。な、なんだいきなり抱きついてきたりなんかして!?」
激しい後悔の念を抱いている妻の必死な想いが通じたのか、それとも彼女の冷たい涙で我に返ることが出来たのか、ケインはまるで夢からでも醒めたかのように正気を取り戻していた。
ケイン本人にしてみれば、いきなり泣いている妻が抱きつき喜んでいる姿が目に映り、何の状況も分からないままどうすればいいのかと戸惑うばかりである。
だが不思議と不快な思いや嫌悪感、そして今まで感じていたはずの孤独感や寂しさがどこかへと消え去ってしまい、代わりに人の痛みや優しさ、温かさを肌で直接感じ取れるようになっていたのだ。
これまで彼の心の中で唯一欠如していた一部、それをようやく取り戻すことが出来たのかもしれない。
「あ、あ……俺は……今までずっと悪夢を見ていたのかもしれないな。でも今は……」
「ぅぅっ。ほんっとに良かった。良かったわよ~っ。すんすん」
「ふふっ……」
自分の胸で泣いている妻が傍に居る。自分のことを心配してくれる誰かが傍に居る。
そう思うだけで彼は不思議と笑みを浮かべてしまう。
それがもしかすると彼本来の心……人としての感情だったのかもしれない。
ケインは妻の涙によって、ようやくそれを取り戻すことができたのだった。
そして互いの存在を確かめ合うよう抱き締め合い、妻を抱くケインの目にはテーブル上で倒れている、あの黄色の花びらをつけたカーネーションが映りこんだ。
奇しくもその花言葉である『拒絶』とは、もしかすると彼が自殺することに対する意味合いだったのかもしれない。