店の裏手にある井戸は、一般的な滑車付き空掘り式の井戸ではなくポンプを使った手押し式の井戸だった。
デュランはリズミカルにレバー部分を上げ下げするとシューッ、シューッ……と、中の空気が抜け出る音がしていた。
ジョバッ、ジョバッジョバッ。
そしてそのまま何度かレバーを押していると少し間をおき、蛇口から水が溢れ出してきてその真下にあった木桶へと溜まっていく。
「ん~~~っ。水は冷たいけど、これで目が覚めるな! ほら、リサも早く顔を洗えよ」
「ふあぁ~い。うわっ! 冷たっ!!」
「ふふっ」
デュランは冷たい水が溜まっている木桶から両手を皿のようにして使い、何度か顔に水をかけて洗うと近くにあった紐で吊るされているタオルを手に取り顔を拭いた。
本来ならば井戸水は一年を通して一定の水温で少し温かいくらいのはずなのだが、それでも冷たく感じるのは気温が低くなりつつあるからだとデュランは思っていた。
このツヴェンクルクの街と言えどもデュランが前に住んでいた山肌が近いトールの町ほどではないにせよ、冬には毎年のように凍死する者が出るまでに寒くなる。
麦などの収穫が得られる秋とは違い食べる物が極端に減り、また暖を取るためコークスなどの燃料を高値で買い入れなければいけないなど、まさに庶民にとって冬とは厳しい季節に他ならない。
「ぷっは~っ。これでようやく目が覚めたよ」
「ははっ。そりゃ良かったな。さっそくアルフが持ってきてくれたパンで朝食にするか!」
デュランとリサは少し早めの朝食を摂ることにした。
スープ鍋には一昨日のスープが二人分だけ残っていたため、リサはそれを火にかけ温める。
黒パンと具が入っていないスープというデュランにとっては少しお粗末な朝食だったが、何故かこれまで食べてきた中でも美味しいと感じていた。
「それでデュラン。今日のマーガレットの結婚式には出るつもりなのかよ? あっ誤解するなよ。酒場で耳に入れちまったから俺は心配になって……」
「……ああ、分かってるさ」
簡単に朝食を済ませるとどこで聞きつけたのか、アルフはそんな話をデュランへ振ってきた。
きっと酒場辺りでは、その話で持ちきりなのかもしれないとデュランは思ってしまう。
だが事実は事実であり、デュランは臆することなく、こう言葉を口にした。
「もちろん参加するつもりだ」
「……辛くないのか? 無理して見に行くこともないと俺は思うけどな」
まるでアルフはデュランの心中を察しているかのように元婚約者の結婚式を見るのは辛くはないのかと諭してきた。
きっと彼も親友であるデュランが辛い選択を迫られていることを知っているのだろう。
「確かにな……アルフの言うとおりだよ」
「じゃあ!」
「でもな、もし今日行かなかったら後悔すると俺は思ってるんだ。だからこそ参加するのさ」
元とはいえ、自分の想い人であるマーガレットが他の男と結婚する姿なんて見たいわけがない。
それでも「今行かなければ絶対に後悔してしまう……」そんな思いがデュランの心の中にはあったのだ。
「そうか……俺が止めても無駄だったな」
「……すまないな」
「いや、いいさ。それにお前が決めたことだからな」
デュランとアルフは親友の証だと言ったように、互いの腕を交差させ頷いた。
きっとそれが彼らなりの信頼を確かめる術なのかもしれない。
「それじゃあアルフそれとリサ。店のほうは頼んだぞ」
「ああ、わかった」
「うん。今日も掃除しておくね」
デュランは二人に店を任せると、さっそくトールの町へと向かうためにメリスが居る店裏にある馬繋場へ赴いた。
「今日も町までよろしく頼むな、メリス」
「(コクコク)」
デュランは綱木から手綱を外しながらメリスの背中を軽く叩き、そんな言葉を口にしてから騎乗する。
「お、お兄さんっ!」
「うん? ドゥドゥ。リサか……どうしたんだ?」
いざ出発しようとした矢先、背後から呼ばれたデュランは手綱を軽く引いてその場に留まる。
「どうってことはないんだけどさ。お兄さん……改めていってらっしゃい。ボク、ここで待ってるからね♪」
「リサ……」
リサはそっとデュランへと手を伸ばした。
デュランは何をしたいのか分からないままリサへと左手を差し出すと、彼女はその手を優しく包み込みながら笑顔でそんなことを言ってくれたのだ。
そして何故だかその笑顔がとても優しく感じてしまいデュランの心を癒してくれる。
それはまるで母親のような温かさと優しさ、それと安心感を抱いてしまうそんな笑顔だとデュランは思ってしまった。
「ああ……じゃあ行って来るからなリサ。ハアッ」
「うん♪ 気をつけてね~」
デュランはリサの笑顔を真似して、少し微笑みながらメリスの横腹を靴で軽く叩き歩みを再開した。
「お兄さん……頑張ってね。ボク応援してるからね……」
リサは笑顔のまま手を振って彼の後ろ姿が見えなくなるまで見守るのだった。
「ハアッ! ハアッ!」
そうしてデュランは街を出ると一心不乱になりながら、一路トールの町を目指すことにした。
その道中、メリスに体を預けながらデュランはこんなことを思っていた。
(この道を歩む度に何故か自分の心が変化していってる。それに危機的状況に置かれてなお、悲観的に思わないのは何故なんだろう……)
この数日に起こった出来事は、これまで自分が生きてきた19年間よりも短くとも長い、デュランはそんな錯覚へと苛まれていたのだ。
そしてこの何もない畑風景が続いている街と町とを繋いでいる、真っ直ぐな道をただひたすら進んでいると、いつの間にか自分の置かれた状況だけでなく、心までもが次第に変化していっているようにデュランは感じていたのだ。
「ははっ。なんでだろうな……全然可笑しくもないのに自然と笑顔になっちまうのは……」
デュランはいつの間にか自分が笑っていると気づいた。
それと同時に彼の心の中に一番最初に浮かんだのはマーガレットやルインの顔ではなく、自分の身を案じてくれたリサの満面の笑顔だった。