晩冬。
王都に比べてやや寒冷な辺境でもそろそろ春の足音が聞こえ始めようかという頃。
米の試験栽培を任せている農家のおっちゃんと打ち合わせをすべく村長宅を訪ねる。
そして、塩水で籾を選別したり、苗を作って植えていく方法だったりと私の知る限りの知識を伝えた帰り道、ミーニャから、
「明日から森に入ってチルを採って来ようかと思うんですが、ライカちゃんの散歩も兼ねてご一緒にいかがですか?」
と誘われた。
チルと言うのは紫色のラズベリーのような果物で、この辺境では貴重なビタミン源として重宝されている果物だ。
(チルか。あれならそんなに森の奥まで入らなくても採れるし、たしかにライカの散歩にはちょうどいいかもしれんな…。仕事も一段落したことだし気晴らしついでに行ってみるか)
と思い、
「ああ。いいぞ」
と気軽に答える。
そんな私の返事を聞いて、
「やった!ちょっと寒いですけど、ピクニックですね」
と、はしゃぐミーニャに苦笑いしつつ、私たちはちらほらと花が咲くあぜ道をのんびり進み屋敷へと戻っていった。
翌朝。
まずは装備を確認する。
今回はそれほど深い所にはいかないが、それでも油断せず、十分な装備を整えて向かうことにした。
「いってらっしゃいませ」
と言うエマに見送られて屋敷を出る。
私もミーニャも久しぶりのお出かけにどこかウキウキとした気持ちを感じながら森への道を進んで行った。
初日は順調に進み、森の入り口付近にある野営地で野営をする。
パチパチとはじける焚火を囲んで、
「私小さいころからチールのジャムが大好きなんです」
と言うミーニャに、
「帰ったらパンケーキを作ってもらおう」
と提案すると、ミーニャはまるで子供のように、
「やったー!」
と喜びの声を上げた。
周囲の寒さとは打って変わって温かい雰囲気で夜が更けていく。
その日は交代で見張りをしながら、ゆっくりと体を休めた。
翌朝。
ミーニャが作ってくれた温かいスープで体を温め出発する。
チルはそんなに奥に生っているわけでは無いから今日中には群生地に着くだろうとのこと。
私たちは警戒しつつもやや落ち着いた気分で目的の場所を目指して歩を進めた。
寒空の下、白い息を吐きつつ進む。
するとやがて、森が開け、ところどころに灌木が茂る場所へと出た。
「ルーク様、ここです」
というミーニャの言葉を聞いて、辺りを見て見ると確かに、背の低い木々には紫色の小さな実がたわわに実っている。
私は、
(なるほど、チルというのはこうやって生るものなのだな…)
と、初めて目の当たりにする光景にほんの少しの高揚感を覚えながら、物珍しそうに辺りを見回した。
「たくさんとりましょうね」
と言ってさっそくミーニャは馬を降り、収穫用の笊を持って手近にある木からチルの実を収穫し始めた。
私もライカから降り、ミーニャをまねて実を採る。
試しにひとつ口に入れてみると、それはかなり酸っぱかった。
思わず顔をしかめる私を見て、ミーニャが、
「うふふ。ルーク様、そのまま食べると酸っぱいですよ?」
と言って笑う。
「ああ。そうらしいな。知らなかったよ」
と言って私も苦笑いを返した。
それからは各々が自由に動いて収穫していく。
私は、
(なるほど、果物狩りというのも楽しいものだな…)
となぜか前世の観光農園を思い出しながら、楽しんであちこちをまわり収穫していった。
しばらくして、笊がいっぱいになったところで、辺りを見回す。
すると、ミーニャが少し遠くに見えた。
(いかん、いかん。つい夢中になってしまった)
と反省しつつ、ミーニャのもとに戻ろうとした時。
不意に背筋に悪寒が走る。
私はハッとして振り返ると、そこには大きな熊がいた。
一瞬の出来事に頭が上手く回らない。
私はとりあえず笊をその場に落とすと刀に手を掛けた。
(…そうか、これが油断か…)
と思うがもう遅い。
熊は、
「グルル…」
という唸り声をあげながら、こちらにゆっくりと近づいてきた。
(落ち着け。目を逸らすな…)
と自分に言い聞かせる。
しかし、それとは裏腹に私のこめかみからは汗が滴り落ちてきた。
「ルーク様!」
という声が聞こえる。
ミーニャだ。
私は熊に目を向けたまま、とりあえず、
「大丈夫だ!」
と叫び返した。
その声を合図に熊が突っ込んでくる。
私は一瞬躊躇してしまった。
慌てて転がるようにしてなんとか最初の突進をかわす。
しかし、熊はすぐに反転して私に覆いかぶさろうとしてきた。
慌てて刀を抜き応戦する。
きっとでたらめな振り方だったに違いない。
私は自分自身に、
(おいおい。何をやってるんだ)
と思いつつも何とか刀を振り続け、熊を牽制することに成功した。
隙を見てようやく立ち上がる。
そこへようやくミーニャが駆けつけてくれた。
「大丈夫ですか!?」
というミーニャに、
「ああ。大丈夫だ」
と少し肩で息をしながら何とかそう返す。
そこでミーニャが
「あとは任せてください」
と言ったが、私はなぜか、
「いや、俺に任せろ」
と言ってしまった。
(いったい何を根拠にそんなことを?)
と自分でも不思議に思いつつ、稽古のように集中する。
そして、熊との間合いを慎重に測ると、私はそのまま一歩踏み込み、袈裟懸けに刀を一閃した。
一瞬で熊が割れる。
この表現が正しいかどうかわからないが、とにかく一瞬で熊の体が2等分された。
一瞬呆気にとられる。
そこへミーニャの、
「さすがです、ルーク様」
という声がかかった。
私はハッとして、自分の手を見る。
(うすうすわかってはいたが、魔法というのはこんなにも…)
と思って、なんだか空恐ろしいような気になってしまった。
「すごかったです!」
と興奮した様子で言ってくるミーニャに、なんとも言えない苦笑いを返す。
(所詮、借り物の力か…)
と、もう一度自分の手を見ながら心の中でつぶやいた。
確かに、熊を斬ったのは私だが、あの魔法の力はなぜだか自分自身の力では無いように感じた。
おそらく、ここ最近で突然手に入れてしまった力だからだろう。
まだ、自分のものだという感覚がない。
私はそのあまりの現実感の無さに、
(ゲームかよ…)
と思わず心の中でシニカルなひと言をつぶやいてしまった。
その後、ミーニャが熊を解体するのを見る。
私は、そこでようやく、これが現実に起きたことなんだということを理解した。
(命をいただき、命をつなぐ。辺境の民はこうして生きてきたんだな…)
という事実が身に沁みる。
私は心の中でそっと熊に手を合わせ、
(いただきます)
と、つぶやいた。
ミーニャが熊を捌き終えたのを合図に今日はその場で野営にする。
私が取りこぼしてしまったチルは明日改めて収穫しなおすことにした。
たき火に当たりながら、もう一度今日のことを振り返る。
(所詮、借り物の力か…)
と私はまた自分の手を見ながら心の中でつぶやいた。
同時に、
(これを自分のものにしなくてはな)
とも思う。
(ふっ。また訓練だな)
と思い私はひとり苦笑いを浮かべた。
そんな私に、ミーニャが、
「初陣、ご苦労様でした」
と声を掛け、お茶を差し出してくれる。
私はそのお茶を受け取りながら、
「なんとも格好悪い初陣だったがな」
と言って苦笑いを浮かべた。
「そんなことないです。すごかったです!」
とミーニャは言ってくれるが、私はなんともバツの悪い感じで、また苦笑いを浮かべる。
そして、
「今後はきちんと訓練しなければいけないな」
と言うと、ミーニャの淹れてくれたほろ苦いお茶を飲んで、
「ふぅ…」
とひとつため息を吐いた。
冬の夜空に星がさんざめく。
私はその星を見上げながら、
(遠いな…)
と、また心のなかでひと言つぶやいた。