「ふぇ…」
と、やや間抜けな言葉を出したあと、軽く、「こほん」と咳払いをして、父に、
「今『フェンリル』とおっしゃいましたか?」
と問い直す。
「ああ。間違いなく『フェンリル』と言った。…どうだ、驚いたか?」
とイタズラ顔でいう父に、私は、
「驚くもなにも、あれは伝説の存在ですよ?」
と、ややあきれ顔でそう言った。
そんな私に父は、
「はっはっは。信じられんのも無理はない。なにせ、私も含め何人かしか知らん重大な秘密だからな」
と笑いながら言ってくる。
私はもう、ぽかんとするやらなにやらで訳の分からない状態になってしまった。
「まぁ、あれだ。論より証拠というからな。明日からでも会いに行こう。ああ、片道最低5日はかかるから覚悟しておけよ」
と言う父に、混乱しながらもなんとか、
「か、かしこましりました」
と返事を返す。
すると父はまた笑って、
「はっはっは。まぁ、いろいろ覚悟しておくことだ」
と、いかにも父らしい、豪快な言葉でそう言った。
翌朝。
旅支度というよりも一応の武装を整え玄関に降りていく。
昨日の夕飯の時に聞いたが、慣れないだろうから、こちらで用意してやろうと言われ、荷物のほとんどはミーニャが用意してくれた。
申し訳ないと思いつつ玄関につくと、父はすでに鎧を着こみ、準備万端で馬に跨っていた。
「お待たせいたしました」
と言って私もさっそく馬に跨る。
そして、
「じゃぁ、各村を回って挨拶をして来るから遅くなるがその間しっかり頼んだぞ」
という父のちょっとした嘘を合図に私たちはそのフェンリルとやらに会うため、森に向けて出発した。
クルス村の中を順調に進み、村を出ると、細い田舎道に出る。
この道を真っすぐ進めば隣のシーバ村につくが、私たちはその道を途中で少し逸れ、そのシーバ村の外れにあるという獣人の族長が住む小さな集落を目指した。
夕方、そろそろ陽が沈もうかと時間になってようやくその家に着く。
小さな木造のふるめかしい屋敷の玄関に立って、父が、
「遅くにすまん。ナーズ殿殿はおるか」
と声を掛けると、すぐに奥方らしき人物が対応に出て来てくれた。
「まぁ、ご領主様ようこそおいでくださいました。さきほどちょうど森から帰ってきたところだったんですよ。さぁ、どうぞお上がりください」
という言葉に甘えてさっそく家に上がる。
そして、小さなリビングに通されると、そこには立派な髭というよりも鬣を蓄えたひとりの老人がいた。
「忙しいところすまんな。息子の紹介に来た」
という父に、
「いえいえ。そうですか、息子さんが帰っていらっしゃいましたか」
とその老人はにこやかに答える。
そして、私が、
「お初にお目にかかる。ルーカス・クルシュテットだ」
と自己紹介をすると、
「こちらこそお初にお目にかかります。この辺りにいる獣人の族長を任されております、ナーズと申します」
と、これまたにこやかに自己紹介をしてくれた。
どうやらいかつい見た目とは裏腹に温厚な性格の人らしい。
そのことにほっとして、
「これからよろしく頼む」
と言いつつ、右手を差し出す。
すると、ナーズ殿は相変わらずにこやかな表情のまま、
「こちらこそよろしくお願いします」
と言って、私の手を握り返してきた。
そんな私たちの様子を見ていた父が、
「さっそくだが…」
と話を切り出す。
するとそこへ奥方がやって来て、お茶を出してくれた。
全員がゆっくりお茶を飲み、しばし世間話をする。
どうやら2人とも私が生まれたばかりの頃に会ったことがあるらしく、その時のことを懐かしそうに話してくれた。
やがて、話が一段落し、奥方が下がると、父が再び話を切り出す。
「フェンリル殿に会いたいんだが、案内をお願いできるか?」
と父が言うと、ナーズ殿の表情は一瞬にして真剣身を帯びた。
「理由を伺っても?」
というナーズ殿に父は深くうなずき、
「ああ。魔法について知恵を借りたくてな」
と簡単に理由を話す。
その簡単な言葉に当然ナーズ殿は、
「魔法?」
と眉間にしわを寄せながら、首を傾げた。
そんなナーズ殿に父はまたうなずき、
「ああ。信じられんかもしれんが、ここにいる息子に突然魔法の力が芽生えた。それでその対処法を教えてもらうことができないか相談にきたという訳だ」
と端的に答える。
するとナーズ殿は一瞬きょとんとしたような顔になり、
「えっと…、それはどういうことですかな?」
と聞いてきた。
「ある日突然熱を出して寝込んだと思ったら魔法が使えるようになって目覚めてきた。…というのが実際に起こったことだ。私も当の本人もなにがなんだかわかっていないという状態だ。だからこそフェンリル殿を頼りたい。どうか、その辺の事情を汲んで案内してもらえないだろうか?」
と言って、父が頭を下げる。
私も父に習って頭を下げた。
その態度にナーズ殿はやや慌てて、
「あ、いや。疑っているとかそういうわけでは…。あの、とりあえず頭をお上げになってください」
と言ってくる。
そして、
「いやはや、なんと申すか…」
と 言うと、
「うーん…」
と唸りなにやら悩み始めた。
「どうだろうか?」
と父が聞く。
ナーズ殿はまだ少し悩んでいるようだったが、
「わかりました。…本来であれば10年に一度の例大祭以外、他の種族は案内できないことになっておりますが、その話が本当なら…いや、疑っているわけではないのですが…ともかく、次期領主様の身に危険があるかもしれないとなれば一大事ですからな。特別に許可しましょう」
と言うと、快く私たちをフェンリルのもとに案内してくれると約束してくれた。
「すまん。恩に着る」
と言って父が頭を下げ、私も頭を下げる。
そんな私たちの態度にナーズ殿はまた少し慌てて、
「いえ。領主様の一大事は我々にとっても一大事です。こちらこそ、これまで先祖代々世話になって来た恩をほんの少しお返しさせていただきますよ」
と言ってくれた。
「いやぁ…しかし、世の中不思議なこともあるものですなぁ…」
と改めて驚くナーズ殿に、
「自分で言うのもなんですが、私も驚いていますよ。なにせ、木刀を振ったら丸太が切れたんですからね」
と苦笑いで答え、しばし談笑する。
するとそこへ、
「お夕飯の準備が整いましたよ」
と、奥方が声を掛けに来てくれた。
「今晩の飯は期待していてくだされ。なにせ、先ほどいいイノシシが取れたばっかりですからな」
と嬉しそうにいうナーズ殿に案内されて食堂に移る。
するとそこには七輪の上に乗った鍋と、肉や野菜がたっぷりと用意されていた。
「お。こいつは美味そうだ」
と言って父がさっそく席に着く。
私も、やや遠慮がちに席に着くと、ナーズ殿と奥方も席に着き、さっそく奥方の仕切りでイノシシ鍋が始まった。
獲れたてだというイノシシ肉はほとんど癖もなく脂の甘味もどちらかと言えば上品で、野性味よりも肉のうま味の方が十分に勝っている。
それに味噌の塩梅がいい。
少し辛味が効いているからだろうか、私の前世の記憶が無性に米を欲した。
(そのうち、村でも土壌を改良して米が作れるようになればいいが…)
と、そんなことを思いつつ、王都や侯爵領ではまずお目にかかれない辺境ならではのご馳走を美味しくいただく。
そして、食事は和やかに進み、その日はそのまま、ゆっくりと体を休めさせてもらった。
翌朝。
ナーズ殿の案内で森の中に入っていく。
「なに。わしとナーズ殿がおれば安心だからな」
と、若干子供扱いされたことに苦笑いをうかべつつも、私は初めての辺境森に緊張感しながら一歩足を踏み入れた。
森林地帯での野営は騎士学校時代に多少経験がある。
しかし、魔獣が闊歩する辺境の森での野営をそれと同じだと思ってはいけないだろう。
私は先ほど子ども扱いされたことに苦笑いを浮かべたが、それもあながち間違いとは言えないのかもしれないと、そう思った。
とにかく緊張しながら歩く。
おそらく2人とも私のことを考えていつもより歩調を緩めてくれているのだろう。
(そのうちこういうのにも慣れないといけないんだな…)
と思いつつ、なんとか父とナーズ殿の後をついていった。
何度か小休止を挟み、初めての野営を迎える。
夕飯をナーズ殿が用意してくれている間に私は父に手ほどきを受けながら簡単に寝床の設営を行った。
「うん。初めてにしては上出来だ」
という父に、
「一応騎士学校で基本は習いましたからね」
と苦笑いで答える。
「ああ、そう言えばそんな授業もあったな…。ふっ。懐かしいものよ」
と言う父からその当時のことを少し聞く。
なんでも侯爵様、ミリアルド・シュタインバッハ卿は、野営の訓練が苦手で苦労していたらしい。
それを辺境育ちの父が助け、逆に貴族の礼法が苦手だった父をミリアルド様が助けたりしていたのが友情を結ぶきっかけになったとのこと。
依頼2人は無二の親友となって現在もその仲が続いているのだそうだ。
そんな話を懐かしそうにする父の顔はどこか少年のように見えた。
そんな話をしているうちに夕飯が出来上がる。
乾燥させた芋で作ったマッシュポテトに塩気の強いハム。
たったそれだけの簡素な食事も大自然の中で食べるとそれなりに美味しく感じた。
食後。
お茶を飲みながら、明日からのことを話す。
「フェンリル殿のいる場所まではあと2日かからない程度だ。明日からは出るぞ」
という父の言葉に私の緊張感が増した。
そこへナーズ殿が、
「なに。出ると言っても狼とかイノシシとかくらいですから心配はいりませんよ。なにせフェンリル様のお膝元ですからね。そうそう強い魔物は紛れ込んできません」
と声を掛けてくれる。
「ああ、そうだな。ゴブリンとかオークとかはもう少し離れた場所に湧くから余り心配はいらん。しかし、油断できるわけじゃないからな」
と再び念を押すようにそう言う父に私は、しっかりとうなずいて答えた。
(刀が振れれば…)
と考えもするが出来ないことを悔やんでもしょうがない。
私はある意味覚悟を決めて、しっかり2人について行こうと気を引き締めた。