長い事お世話になったシュタインバッハ侯爵家を出て1か月。
途中、王都で買った中古の荷馬車もそろそろ限界に近い。
(金貨1枚の『おつとめ品』だったからな…。頼むから、最後まで仕事してくれよ)
と祈りながらいよいよ最後の難関、山越えの道に入る。
ここから荷馬車だとおおよそ5日くらいの間、人家はおろか人工物は道以外何もない。
私は、
(頼む、もってくれよ…)
と再び祈りながら、険しい山道を登っていった。
時々、馭者台から降りて馬と一緒に荷馬車を押したりしながら行くこと3日。
ようやく峠の頂につく。
私はそこで昼の休憩を取り、遠く故郷クルシュテット男爵領クルス村のある方角を眺めてみると、小さく、本当に点のように人の生活圏らしきものが見えた。
たしか、20年前シュタインバッハ侯爵領へ旅立つ時もここで村を振り返った記憶がある。
私はその当時の記憶を懐かしく思い出した。
あれは10歳の誕生日の日だったと思う。
父から突然、
「シュタインバッハ侯爵のもとへ行け。そこで貴族とは何かということをしっかり勉強してこい」
と言われた。
当時の私はてっきり父から、
「お前はダメな奴だからこの家から出ていけ」
と言われたものだとばかり思ってかなり落ち込んだのを覚えている。
後になって侯爵様からいろんな話を聞き、時々届く父からの手紙を読んだりしているうちにその懸念はすっかり消えたのだが、当時の私は悩んだものだ。
そんなことを懐かしく思っていると、少し雲行きが怪しくなってきた。
(山の天気は変わりやすいというが…)
と思いさっさとその場を後にする。
私はまた疲れて渋る馬を何とか宥めつつ、今度は山を下って行った。
下りは下りで厳しい道が続き、なんとか進むことまた2日と少し。
ようやく平地に出る。
予定よりもずいぶん遅れてしまったが、あの荷馬車では致し方ないだろう。
そんなことからも私は、改めて自分の故郷がいかに辺境の地にあるのかということを思い知らされた。
それからまた進むこと1日。
ようやく人の姿を見かけるようになる。
小さな畑を耕す人たちの姿をみて、
(ああ、これからはこの人たちの生活を守っていかなければならないのだな)
と思い私はどこか漠然とした不安も感じながら実家のあるクルス村を目指して進んでいった。
それからまた野宿をして半日ほど進む。
すると、道が先ほどよりもやや整ったものになって来た。
(近いな…)
と感じて、遠くを見やる。
すると、ぼんやりとながら、村の門らしきものが見えてきた。
(やっとたどり着いたか)
とほっとしながら馬を進める。
そして、ミシミシと怪しげな音を立て始めた荷馬車を心配しながら進んでいると、馬に乗った衛兵らしき人物が1人こちらに近づいてきた。
「おーい。どこの誰だー?」
と誰何してくる声に、
「領主の息子のルーカスだ!」
と大きな声ではっきりと答える。
するとその衛兵は、
「えっ!?」
と驚きの声を上げてると、やや速足でこちらに近づいてきた。
「ルーカスってあのルーカス様か?」
というその衛兵に、
「どのルーカスかは知らんが、そのルーカスだ」
と若干訳のわからない返答を返す。
すると、その衛兵は、
「懐かしいですね!覚えてますか?ハンスですよ。ほら、学問所で一緒だった」
と言ってニカッと笑って見せた。
私はそのニカッとしたいかにも人懐っこい笑顔を見てすぐに思い出す。
「ハンスってあの『ハナタレ』ハンスか!?…懐かしいな」
と言うとハンスは、
「おっと、そりゃぁねぇですよ、ルーカス様。今じゃ立派な衛兵副隊長なんすから」
と言って、不満げな顔になった。
「ははは。すまん、すまん。つい懐かしくてな」
と頭を掻きながら言うと、ハンスは、
「とにかく、お屋敷まで同道しますんで、ついて来てください」
と言って先に立って案内を申し出てくれた。
「すまんな。なんとなくは覚えているがなにせ20年ぶりだから助かる」
と言って、素直に後をついていく。
そして私はようやく実家のあるクルス村の小さな門をくぐることができた。
ハンスに案内されていくこと15分ほど。
懐かしの我が家が見えてくる。
(懐かしいな…)
と思わず感慨にふけっていると、ハンスが、
「安心してください。みんな元気にしてますよ」
と笑顔でそう言ってくれた。
「そうか。それは良かった」
と、また感慨深く答える。
そして、ミシミシと音を立てつつもなんとか無事役目をはたしてくれた安物の荷馬車とともに私は20年ぶりとなる実家の門をくぐった。
「ちょいと知らせてきます」
と言い、慣れた様子で先に玄関をくぐるハンスの後に続いて荷物片手に玄関に向かう。
「エマさん。ルーカス様がお帰りですぜ!」
と、まるで庶民の家のように無遠慮に呼びかけるハンスを見て、私は、一気にあの当時のことを思い出した。
年上も年下も関係なくひとつの部屋でみんなで学んだ日々が一気に脳裏によみがえってくる。
時々はうちも遊び場になっていたはずだ。
(そうそう。名前は何だったか…。とにかく小さい女の子がうちの花瓶に手を突っ込んで抜けなくなったんだったな…。それで仕方なく父さんがその花瓶を割って。そしたらその女の子はすごい勢いで泣いて謝ってたっけ…。あの子も元気なんだろうか)
と、そんなことを微笑ましく思い出していると、奥からバタバタを靴音がして、
「ルーカス坊ちゃま!」
と言いながら、メイドのエマが抱き着いてきた。
私はそれを受け止めながら、
「ははは。ただいま」
と言って「坊ちゃま」と言われたことに恥ずかしさを覚えて苦笑いを浮かべる。
しかし、同時にあの頃と変わらない温もりを感じて、思わず涙がこぼれそうなほど感動してしまった。
「…こんなにご立派になられて…」
と私の二の腕辺りをさすりながら涙ぐむエマに、
「元気そうでよかった」
と声を掛け、改めて、
「ただいま、帰ったよ」
と帰還の挨拶をした。
「はい。おかえりなさいませ、ルーカスぼっちゃ…いえ、ルーカス様」
と言ってくれるエマに、
「さっそくだが父上は?」
と尋ねる。
すると、エマはハッとしたような顔で、
「ああ、そうでございました。私ったら…。さぁお館様もお待ちです。どうぞ」
と言ってさっそく私を父の執務室へと案内してくれた。
そんなエマについていきながら、
「ああ、ハンスすまんが荷馬車を頼む」
と声を掛ける。
「了解です」
というハンスの軽い返事を聞きつつ私は懐かしい廊下を通って父の執務室へと向かっていった。
「失礼します。ルーカス様をお連れしました」
とエマが言うや否や中から扉が開かれる。
中にはすっかり白髪になった父とこちらも白髪が混じり始めた執事のバティスが立っていた。
一応貴族式の礼をとり、
「ルーカス・クルシュテット、主命により帰還いたしました」
と挨拶をする。
すると、
「ばかもん。そこは『ただいま』で十分だ」
と、やや涙が混じったような父の声が頭の上から聞こえてガバッと抱きすくめられた。
「ただいま帰りました」
と苦笑いで帰還の挨拶をやり直す。
「ああ。よくぞ戻ってきてくれた」
という父の言葉に私も涙を流してしまった。
感動の対面が終わり、少しの照れくささを残しつつさっそく今回の帰還の理由になった父の引退と領主の引継という話しになる。
「私も60になる。もう歳だ」
と言う父に、
「中央で60はまだまだ現役ですよ」
と冗談を言うと、父は、
「辺境ではそうもいかんさ。なにせ、森で剣を振り回さねばならんからな」
とやや寂しそうにそう言った。
私はそこで、
「私は森に入ったことすらありませんよ?」
と、私が領地を継ぐということになってから、ずっと気になっていた点を聞く。
すると、父は、
「そこは安心してくれ。そのために衛兵隊を育てた。これからは武よりも文の時代がきっとくる。その時こそお前の力がきっと役立つ…、いや、役立てねばならんのだ」
と言って、私に真剣な目を向けてきた。
「わかりました」
とだけ答える。
そんな私に父も、
「頼んだぞ」
とだけ短く言った。
「そうと決まればさっそく酒だな」
と言って席を立つ父に、
「そう言うと思って王都からワインを仕入れてきました」
と、少しニヤけた顔でそう報告する。
すると、父はあからさまに喜んで、
「さすがはわしの子だ。わかってるじゃないか」
と言い、その大きな手で私の肩をバンバンと叩いた。
私はその痛みを懐かしく思いつつ、
「痛いですよ、父上」
と苦笑いで言う。
すると、父は、
「はっはっは。そうか、そうか。すまん、すまん」
とあの頃のように豪快に笑いながら楽しそうにそう言ってきた。
さっそく執務室を出て食堂に向かう。
そこにはきっとエマが慌てて用意してくれたんだろう、イノシシのハムとチーズ、そして大ぶりのデキャンタが置いてあった。
懐かしい食堂の懐かしい席に座る。
(あの頃はこの椅子がとんでもなく大きく感じていたんだったな…)
とまた感慨に浸りながらも、その貴族の屋敷とは思えないほど庶民的な食堂を懐かしく眺めた。
「さぁ、飲もう」
と言って父が私のグラスにワインを注いでくれる。
私も、父のグラスにワインを注ぎ返した。
「乾杯!」
という父の簡素な乾杯の音頭に、
「乾杯!」
と返してワインを飲む。
王都で仕入れた普通のワインが今日はやたらとよく沁みた。
やたらと塩気の強いハム。
硬くてぼそぼそしたチーズ。
そのどちらもが私に郷愁というものを思い起こさせた。
「どうだ?久しぶりの辺境の味は?」
と聞いてくる父に、
「不味いですが、美味いです」
と苦笑いで答える。
「はっはっは。ずいぶんと舌が肥えたみたいだな。ミリアルドの所の飯はさぞ美味かっただろうが、これからはこういうものしか食えん。覚悟しておけ」
と笑いながらいう父に、
「そのうち絶対に美味しくしてみせますよ」
と、覚悟を持ってそう答えた。
「ほう?」
と言って話の続きを促がしてくる父に私は、
「食は文化の基本です。食が良くなれば人に活気が出ます。活気が出ればあとの産業は放っておいても…とまでは言いませんが、自然と育っていくでしょう。だから、私の領地経営の目標は食の充実。これに尽きます」
と私の経営方針を伝えた。
「面白いな…。単純なようで奥が深い。で、それをどうやって実現する?」
と興味深そうに聞いてくる父に、
「まだ何とも。しかし、必ず必要になって来るのは土地改良でしょう。実験用の農地も必要になります。新たな商品作物の試験栽培に必要な種や肥料なんかの物資はある程度仕入れ先を確保してきました。侯爵様もお力添えくださることになっています」
と、自分なりに侯爵領で準備してきたことを伝える。
すると父はひとつうなずいて、
「まずは好きなようにやってみるといい。私も出来る限り協力しよう」
と言ってくれた。
やがて、料理が運ばれてくる。
ふかしたジャガイモに豆のスープ、それに熊肉のステーキ。
どれも辺境の普通の食事が食卓に並んだ。
「事前にわかっていればもう少し用意できたんですが…」
と申し訳なさそうにいうエマに、
「いや。十分だ。逆に懐かしい味で嬉しいよ」
と励ますように答える。
しかし、エマは、
「そうですか…」
と、少し気まずな顔でそう言って少しうつむいてしまった。
そんなエマに私は、
「明日はカボチャパイにしてくれ。エマの作るあれは美味しいからな」
と、笑顔でそう声を掛ける。
すると、エマは苦笑いながらも、
「かしこまりました」
と言って笑いながら下がっていってくれた。
そんなエマの表情にほっとしつつ、食事を楽しむ。
どれも、普通の味、いや、正直言って王都や侯爵領で食べるものよりもかなり味は落ちるが、それでも懐かしさの方が勝って私はそれを本当に美味しく食べた。
その一方で、これがこの領地の現実なんだと思い知る。
(変えなくてはな…)
私は改めてそう決意し、ただふかしただけで塩味しかついていないジャガイモを口に運んだ。