邪神教の屋敷の四階にあるももこの自室の前には白装束達が押しかけていた。
決して狭い廊下ではないのだが、全ての白装束達が集まっているので、すし詰め状態になっていた。
ある者は嗚咽を漏らし、そしてある者は大声で泣き叫んでいる。
この世の終わりが来たかのような、まさに阿鼻叫喚といった様相を呈していた。
「ももこ様! ももこ様ぁぁぁ!」
「ももこ様、お許しを!! 我々はももこ様に嫌われては生きる意味を失います!」
「お願いですももこ様、どうか扉を開けてください!」
「ももこ様、せめてお声をっ!」
大僧正に真実を告げられ、ももこは泣きながら自室に飛び込み鍵をかけ、そのまま部屋から出てこなくなってしまったのだ。
いくら扉をノックしても返事はなく、そして誰の声にも答えようとしなかった。
「大僧正……ど、どど、どうしましょう……」
「はぁ……はぁ……ももこ様……ううぅっ!」
血の気の引いた顔を苦痛に歪め、大僧正は自身の胸を鷲掴みにしながらその場に片膝をついた。
「ど、どうなさいましたかっ! 大僧正っ! だ、誰か医者を!」
「い、いや……大丈夫……私ごときが不遜ではあるが、ももこ様のお気持ちを想像すると、胸が痛くて……苦しくてたまらんのだ……いっっつつつ……おおっ……」
「大僧正……」
大僧正は責任を感じていた。
ももこに真実を告げると決めたのは教団内で決定したことであったが、自身の考えでもあったのだ。
しかし大僧正はそれ以上に、ももこの気持ちを案じていた。
自分の責任や気持ちなどよりも、ももこの事の方がよほど大切だったし、気が狂いそうなほど心配していたのだ。
「ももこ様のお部屋の扉はどこだ……誰か扉の前まで連れて行ってくれないか……頼む……溢れる涙で前が見えないのだ……おおぅ……」
「こ、こちらです大僧正! さ、お手を……」
「す、すまない……ううっ!」
大僧正は一番近くにいた白装束に手を引かれ、ももこの部屋の前までやってきた。
相変わらず涙で霞んで見えにくいが、見慣れた扉の桃色ははっきりと分かった。
可愛らしい桃色をした扉など、この屋敷ではももこの部屋だけである。
「ももこ様! ももこ様! ヒラメでございます! お願いいたします! せめてお返事を! ももこ様!」
「やはり返事がありませんね……いかがいたしましょう、大僧正……」
「くっ……なんとおいたわしい……いや何を他人事のように……こうなってしまったのも全て私の責任だ……おおおお……」
扉に体重を預けながら大僧正はその場に崩れるようにへたり込んでしまった。
孫に嫌われたおじいちゃんのようなその姿は、白装束達にとっても他人事ではない。
白装束達から漏れる嗚咽が一層強くなる。
そして白装束の一人からとんでもない発言がこぼれた。
「ももこ様……もしやショックのあまり……」
その言葉に、周りにいた者全てが反応した。
当然その中には大僧正も含まれている。
大僧正は立ち上がり、発言した白装束の首根っこを乱暴に掴んだ。
「っっっっっっ!? お、おい……ショックのあまりなんだ? ショックのあまりなんだと言────はぅぐ!?」
掴んでいた首から手が離れていく。
大僧正は全てを言い切る前に、白目をむいて背中から倒れてしまった。
「だ、大僧正!?」
「ひゅぅー……ひゅぅー……」
「大僧正! い、いかん、呼吸がっっっ!」
悲しみ、後悔、不安、恐怖。色々な負の感情が支配するその場は、大僧正の失神によって一層混乱を極めていく。
だが、そんな中で白装束達の間を飄々と縫いながら、ももこの扉の前へと辿り着いた者がいた──
「ももこ様! ももこ様ぁぁぁ!」
「ももこ様、お許しを!! 我々はももこ様に嫌われては生きる意味を失います!」
「お願いですももこ様、どうか扉を開けてください!」
「ももこ様、せめてお声をっ!」
ももこは自室の中、ベッドの上で布団にくるまってじっとしてた。
泣きすぎて枕は濡れ、目が腫れあがってしまっている。
外からは相変わらず白装束達の声が聞こえる。
しかしももこは扉を開けるどころか返事をすることもしない。
自分が邪神としてこの世に呼び出されたこと。
世界を滅ぼすための存在であること。
そして何より一番ももこの心を締め付けたのは、自分の言葉に逆らえない能力と自分のことを好きになってしまう能力を無意識に使っていたということ。
知ってしまったら途端に怖くなった。
ももこは誰も信用することが出来なくなってしまった。
今部屋の外から聞こえる自分を心配する優しい言葉達。
その言葉でさえも、まやかしのものであると大僧正に言われた気がしたのだ。
帰りたい。
今すぐにでも元の世界に帰りたい。
でも恐らく帰れない。
元の世界のことを話した時、いつだって、誰の表情も曖昧な返事で困ったように笑っていた。
帰れないのであれば、みんなと平和に暮らしたかった。
この屋敷の変わった住人たちと、みんなで手をつなぎながら、いつまでも笑って平和に仲良く過ごしたかった。
必死に覚えたこの世界の言葉で、みんなにありがとうと言いたかった。
まだ言えていない。
でももう言う必要すらないのかもしれない。
優しくしてくれたのは、単に自分がそれを強制したからだ。
この屋敷の一人一人に抱きつきながら、精一杯感謝を込めて、ありがとうと言いたかった。
言いたかったのだ。
邪神になどなりたくはない。
邪神になって誰かを傷付けたりしたくない。
誰かを無理矢理従わせたくない。
そんなことはしたくなかったのだ。
「うわあああああああああああああああああああああああああああんっっっっっっっっ!!!!」
とりとめもなく、次から次に色々な考えが頭を過ぎり、その全てがももこを傷付け、そして追い込んでいく。
ももこは布団の中で、泣きながら震えていた。
もう何も考えたくないのに、嫌な考えが止まってくれない。
もう泣きたくないのに、涙が止まってくれない。
どうすればいいのか、もう分からなくなっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになり、思考の片隅で両親に助けを求めていた、その時であった。
扉が三度ノックされ、良く通るはっきりとした声がももこの耳に届いた。
その声はとても穏やかで、今まで聞き流していた信者達の声とはまるで違っていた。
「ももこ様や、ミモモばぁだべ。ニャンニャの実を持ってきただよ。どぉれ、おばぁと一緒に食べないかぇ?」
その声はミモモの声であった。
ももこの思考が停止した。
ぐちゃぐちゃだった頭の中が、一旦停止したのだ。
枕がびしょ濡れになっていることに、ももこはようやく気が付いた。
「ほぉら、ももこ様ぁ。おばぁは足が弱いべぇ、はよぅ扉を開けてめんこい顔を見せておくんねぇ?」
ももこはベッドから飛び降りた。
早く扉を開けてやらないと、と条件反射で体が動いた。
ミモモは立ち続けるのがしんどいのだと以前言っていたことを覚えていたからだ。
しかし、今まで自分が泣いていたことを思い出し、扉にたどり着く前に足が止まってしまう。
怖い。
とてつもなく怖い。
扉を開けることが、信者達とまた会話をすることが、帰れないことが、この世界で生きていかなければいけないことが。
その小さな足をそれ以上先に進ませてくれないのだ。
「ももこ様……大丈夫です……我々を信じて……お願いいたしますっ!」
「ほぉら、ももこ様。大僧正もご心配なさってるでぇ、はよぉおばぁと一緒におやつにしよう?」
この三か月間、不安なことが多かった。
寂しいこともたくさんあった。
日本での生活を思い出さない日などない。
両親や友達に会いたかった。
でも、そんなとき、必ず大僧正や白装束達がももこを優しく慰めてくれた。
この三か月間、確かに不安なことが多かったが、安心する時間のほうが長かった。
寂しいこともたくさんあったが、賑やかなことのほうが多かった。
日本での生活を思い出さない日はなかったが、こちらの生活も好きだった。
両親や友達に会いたかったが、みんなと別れたくもなかった。
いつも、どんなときでも、必ず大僧正や白装束達がそばにいてくれて、皆がももこを大切に大切に扱ってくれていた。
それがまやかしなどと、ももこは信じたくなかった。
気が付けば、ももこは扉の前に立っていた。
扉の外では白装束達の泣き声が聞こえている。
ももこは顔を上げた。
そして扉の鍵を手に取ったのだった。