テムジャが屋敷を訪れてから数日、ももこはぼんやりと考え事をして勉強に手がつかない様子であった。
どこか上の空というか、もちろん信者達はももこの変化を敏感に察知していた。
しかし心配して尋ねてみるも、ももこは首を横に振るだけであった。
「大僧正……ももこ様ですが……」
大僧正は専用の執務室で、日夜教団運営に関わる数々の事務仕事をこなしており、そこでは随時白装束達から色々な報告を受けていた。
さまざまな面倒ごとが山積していて、それを少しずつ片付けてはまた増えての繰り返しなのだが、どれもももこのことに比べれば些末なことである。
そう、だからこそ大僧正はももこの名前を聞いた途端に血相を変えて勢いよく立ち上がった。
「ど、ど、どど、どうした! ももこ様に何かあったか!?」
「い、いえ、落ち着いてください。その、相変わらずお元気のないご様子で窓の外をぼんやりと眺めておいでです」
大僧正はその報告を受けて、心配そうな表情は崩していないものの、どさりと着席した。
「大僧正、差し出がましいかもしれませんが、そろそろももこ様に教えて差し上げるべきではないでしょうか……」
「む……むぅ」
「ももこ様はこの国の言葉を十分にご理解されてますし、発音は怪しいですがお喋りになることもできます」
「そ、そうだな……」
邪神復活。
邪神教信者達は、初代邪神を復活をさせたと思っていた。
しかし、実際には初代邪神とは別人のももこが召喚されてしまったのだ。
ももこは邪神特有の能力は持っているが「復活」ではなかった。
更にももこは自身が邪神であることを知らないし、能力のことも知らない。
このことは折を見て大僧正が話すということで決定したため信者達はももこに教えてはいない。
これらのことを優しい性格のももこが聞いてしまったら、相当なショックを与えてしまうかもしれないという懸念が、大僧正に二の足を踏ませていたものの一つだった。
そう、原因はまだある。
それこそが二の足を踏ませている一番大きな原因であった。
「近頃ももこ様は、元々いらした世界のことをしきりにお話されております……」
「あ、ああ……私にもよくお話して下さる……ご家族のことやご友人のこと……学校という施設でのこと……」
ももこは信者達からの言葉の教育の中で、この世界やポポニャン神聖国のことを学んでいた。
つまり、ももこが元々暮らしていた日本という国とは全く別の世界へ迷い込んでしまったということを知ってしまったのだ。
それからももこは「帰りたい」と言わなくなったのだ。
一方大僧正をはじめ、信者達も知ってしまった。
ニホンという名の邪神の国からやってきたももこは、ごく普通の少女で、家族や友人に囲まれて何不自由なく平和な日々を過ごしていたということを。
その平和な日々を取り上げて、自分たちが邪神としてももこを召喚してしまったのだということを。
そのことが、大僧正の心を締め付けていた。
「しかし──」
大僧正は重い腰を上げた。
「──しかし、言わないわけにはいかない……私はももこ様が大切なのだ……これ以上隠し事は出来ないし不義理なこともできん……全てはももこ様の望まれる通りに……!」
「大僧正、行かれるのですか?」
「うむ……緊急招集だ。全員を地下一階の儀式の間に集めてくれ。私はももこ様をお迎えに上がる」
「かしこまりました」
こうして、大僧正はももこを呼びに屋敷の四階へ上がったのだった。
地下一階にある、邪神復活に使用した儀式の間の一番奥には、地下二階へと続く両開きのいかにも重そうな扉があった。
しかしその扉は三百年もの間、開かれたことはない。
正確に言えば、邪神のみが開くことが出来るため、誰にも開けられないのだった。
「ヒラメちゃん、それに白装束さん達も全員揃って……どないしたん?」
「ももこ様、わざわざお越しいただきありがとうございます。実は、ももこ様にどうしてもお伝えしなければならないことがございます……」
「伝えたいこと?」
「……はい」
大僧正は真っ直ぐにももこを見据え、一呼吸してからゆっくりと語りだした。
「ももこ様、以前からご質問があった『邪神様』という言葉の意味をお教えいたします」
「あ、そうそう、ウチめっちゃ気になっててん。みんなウチのこと『ぴっぴにゅー』って呼ぶやん? ヒラメちゃん『ぴっぴにゅー』ってなんなん?」
「…………邪悪な神。悪い神……皆に恐れられる恐怖の化身……そういう意味でございます……」
「え…………悪……神様……? ウ、ウチが? え?」
大僧正は汗ばんだ手のひらを力いっぱい握って更に続ける。
「約三百年前……この地に邪神様が誕生されました……邪神様は二つの能力を持ち、更に異界の知識で作り出した道具を使い、当時この場所にあった国を滅ぼしたとされています……ももこ様、我々は邪神様を信仰する信者、邪神教徒でございます……この腐った国を亡ぼすために、我々は三百年前にいたとされる邪神様を復活させました……それがももこ様、あなた様なのです……」
「ちょ、ちょっと待って、ヒラメちゃん……急にそんなん言われても、ウチ分かれへん……そんな、ウチが神様って……それに、ウチ、国を亡ぼすとか、そんなんしたない!」
いたたまれなくなったももこは、踵を返し駆け出した。
走って遠ざかっていくももこの背中に、大僧正が叫びをあげた。
「お待ちください!! ももこ様!」
呼ばれたももこは素直に立ち止まった。
白装束達もハラハラしてももこを見守っている。
「ももこ様、お話はまだ途中でございます……どうか、どうか我々の考えをお聞き願えないでしょうか……」
「ヒラメちゃん達の……考え……?」
「我々は邪神様のお力を使ってこの国を亡ぼすことを目的としていましたが今は違います……まだももこ様がお言葉もお話になられない頃、ここにいる全員で話し合ったのです……我々はももこ様のお望みの通りにしようと……ももこ様が国を亡ぼすことを望まれるなら喜んでそれに従いますが、望まれない場合は我々も望みません!」
「そ、そんなん……ウチが邪神って……ウチは普通の小学生やで? 学校終わって家に帰って、友達のところに遊びに行こうとして……自転車で……気がついたらここにおって……なぁ、ここはウチのおった世界とちゃうねんな? ヒラメちゃん、ウチ、やっぱりもう元の世界に帰れへんのかな? ウチ、みんなに優しくしてもろうて、ほんまに感謝してるけど……邪神なんてウチ、無理や!」
「ももこ様はももこ様のままで結構です! 私は、私は……ももこ様がいてくださるだけでいいのです!」
大僧正の言葉は嬉しい。
しかし質問の答えにはなっていない。
ももこはポロポロと涙を零しながら黙りこくってしまった。
沈黙が続いた。
ももこを慰める言葉が誰にも見つからなかったのだ。
そしてポツリとももこが呟いた。
「ヒラメちゃん……邪神の……ウチの二つの能力ってなんなん……?」
「……っ! そ、それは……」
「ヒラメちゃん、教えて? おねがい」
「っっっっ!!!! はい……一つは今ももこ様がお使いになった『おねがい』という言葉には誰も逆らうことができないという命令の力です。そしてもう一つが、この屋敷の敷地内にももこ様が居られる時、屋敷に入った人間はその時間が長ければ長いほどももこ様を好きになっていく魅了の力です……」
大僧正の言葉を聞いて、ももこが一歩、また一歩と後ろに下がった。
その足取りはとても弱々しい。
そして何より、先ほどよりも大粒の涙が次から次へと溢れ出ていた。
「ほ……ほんなら……ほんなら、みんながウチのこと好き言うてくれるんも、みんながウチに優しくしてくれるんも、全部全部! 全部……その変な邪神の能力のおかげってことなん……?」
「違いますっっ! ももこ様! それは違いますっっっっ!」
「う……うぅぅぅ……うわぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーんっっっっ!!!! ウ、ウ、ウチぃ! ウチ、みんなこと、大好きやのに! みんなにありがとうっていつも感謝しとったけど、みんな、みんなは……ああああーーーーーーーーーーーんっっっ!」
「ももこ様、それは違いますっ! 皆ももこ様を愛おしく思っているのは能力のおかげなどではありませんっ! ももこ様!」
「そうです、ももこ様!」
「ももこ様!」
衝撃の事実を知ったももこは、大泣きしながらとうとう走り出した。
白装束達の間を抜けて、階段を駆け上がり、一人儀式の部屋を出て行ってしまったのだった。