ももこは正気を取り戻した大僧正に手を引かれながら正面玄関の一番奥にある大きな階段をあがった。
二本ある階段は途中で一度交差し、そこから館の両端へ分かれている。
交差した場所には肖像画がかけてあり、ももこはその肖像画に少し恐怖心を覚えてしまった。
中指を立て、舌を出し、とても禍々しく描かれた男性は金髪で青い目をしていた。
肖像画の前を通り過ぎ、館の片側へ続く階段を昇る。玄関の方には渡り廊下も見える。
ももこは大僧正に導かれるままに、歩みを進めた。
壁伝いに設置された廊下を今度は玄関の方角へ向かって歩く。
廊下を一番端まで歩いた先にある両開きの扉の前で大僧正が立ち止まった。
そして大僧正の後ろに控えていた二人の白装束が、ゆっくりと扉を開く。
部屋の中を見て、ももこはその美しさに目を奪われた。
地下の大部屋に負けず劣らず広いその部屋は、濃い茶色の絨毯でベージュの壁をしており、落ち着いた雰囲気をしていた。
大きな円形のテーブルがいくつも設置されており、清潔感のある真っ白なテーブルクロスがかかっている。
各テーブルの上に所狭しと並べられた多種多様な料理たち。
鮮やかな色の花も至る所に飾られ、立てられた蝋燭の柔らかい光を反射させ食器が輝いている。
ももこはその風景を見ながら最近見たお姫様が主役のアニメを思い出して目を輝かせていた。
見ているだけで、まるでお城の晩餐会に招待されたアニメのお姫様になった気分に浸っていたのだ。
ももこは大僧正にエスコートされ、料理の乗ったテーブルの隙間を縫って部屋の一番奥へたどり着いた。
一番奥にあるのはひときわ大きなテーブルと、見たことのない豪華な盛り付けがなされた料理の数々であった。
背もたれの高い椅子を引いた大僧正がももこに着席を促した。
「ささ、邪神様、どうぞこちらへ」
『え、えっと……座ったらええのかな? す、すごいお料理やね、ヒラメちゃん』
ももこが座った椅子は大人の男性が座って丁度いい高さで、足が宙でぶらついてしまっていた。おまけに机の高さががももこには少し高すぎる。
そんなももこの様子に大僧正はいち早く気が付いた。
「誰か、邪神様の足を置けそうな物を持ってきてくれ! それと厚めの座布団と、あと上に羽織るものはどうした? 早く持ってこないと邪神様がお風邪を召してしまうではないか!」
「大僧正、羽織るものはこちらに。それと実は先ほどの二人組が侵入してきた際に、侵入経路にいた警備のものが全滅しておりまして……」
「そんなことは後で…………では、ダメだな。すまない。つい勢いで口走ってしまったが、そんなことというのも撤回する。それで警備にあたった信者は殺されたのか?」
「いえ、全員気絶しているだけで命に別状は」
「そうか、良かった。こっちはいいからお前はその者たちの看護の指揮を取りなさい。邪神様のための負傷と言ってもいい。手厚くな。あとで私も様子を見に行こう」
「かしこまりました、大僧正」
「大僧正、座布団と足が置けそうな高さのものを持ってまいりました。こちらで問題ありませんでしょうか?」
「おお、ご苦労。どれどれ……」
ももこは椅子に座ったまま手持ち無沙汰になってしまっていた。
しかし、特に退屈だったり、まして怖かったりしたわけではない。
この世界の言葉は分からないが、白装束達にテキパキと指示を出し始めた大僧正を見ていて、何となく感心してしまっていたのだ。
自分にはニコニコしていた大僧正が突然真剣な顔つきになっていることに気付いたのだ。
白装束たちは全員がフードを被り、個々の表情は分からないが、大僧正を慕っているように見える。
ももこは、相変わらず自分の状況やこの場所がどこなのか分からなかったが、とりあえず目の前にいる大僧正たちは悪い人間ではないのではないかと感じ始めていた。
「邪神様、お待たせして申し訳ございません」
大僧正はももこの肩に、後ろから白いカーディガンのようなものをかけてやった。
やっと自分の方へ振り向いた大僧正に、ももこは笑顔を返す。
『わぁ、あったかい! ありがとうなぁ。それにヒラメちゃん、みんなに好かれとるんやなぁ。めっちゃ仲ええんやなぁ。すごいなぁ!』
「足元を失礼いたします。……よいせっと……それと座布団をお持ちいたしました。少し腰を上げていただいてもよろしいですか?」
『あ、なになに? これ、足置いてええのん? ありがとうなぁヒラメちゃん。え、あ、お座布団かぁ。ありがとうやで。ふふ、ウチ誘拐されたと思うてたけど、なんやろ、もしかしたらこれ夢なんとちゃうやろかぁ。お姫様みたいやわぁ』
「ありがとうございます。それでは邪神様、お食事にいたしましょう!」
『なぁ、ヒラメちゃん。もしかしてお料理食べてもええのん? ウチめっちゃお腹空いてるねん。ちょっともろてもええかなぁ? ……やっぱ言葉通じひんのかぁ……うーん』
※ここからしばらくの間、大僧正たちのセリフは、ももこに聞こえている言葉を副音声でお楽しみください。
大僧正がパンパンと手のひらを二度叩いた。
それに合わせて白装束たちがテーブルの料理を取り皿に盛って、次々とももこの前を持ってきた。
「邪神様、どうぞお熱い内に」
(ぴっぴにゅー、にーにちょまっちにゃかにゃ)
『うわぁ~、これ見たことないけど……何の料理なん? お肉? なんか紫色してるけど……でもええ匂いやぁ。た、食べてええの?』
目を輝かせて涎を垂らしながら、ももこは大僧正の顔を覗き込んだ。
大僧正はももこのその表情で何を訴えているかを察し、笑顔で大きく頷いた。
「全て邪神様のための料理です。遠慮されることはありません。心ゆくまでお楽しみください」
(ふわぁ、ぴっぴにゅーにみみんみ。にゃーまちしゃやま。きゅにぺわんわんわん)
ももこは何を言われたのかは分かっていない。しかし、料理を食べてもいいという許可を意味しているということは感じることができた。
ももこは目の前にあったナイフとフォークを手に取ると急いで肉を切り分け始める。
そして切り分けた肉を一切れ、フォークで突き刺して口へ運んだ。
しかし──
「……ど、どうされました? 邪神様」
(にょにょ? にまんま? ぴっぴにゅー)
肉を口に入れる直前で、ももこの動きが静止してしまっていた。
そしてももこはゆっくりと口を閉じ、肉が刺さったままのフォークを皿に戻した。
『お、お行儀悪いことしてごめんなさい……でも……あんなぁ……このお料理、ウチだけが食べるのん?』
「じゃ、邪神様?」
(ぴ、ぴっぴにゅー?)
『ヒラメちゃんは? それに白い服着た人らも……立ったままで、みんな食べへんのん?』
「大僧正、もしや邪神様は体調が優れないのでは……?」
(もりっこにゅー、ちままぴっぴにゅーにろまんぬいひゃんにゃん……?)
「な、なんと!? それはいかん! 邪神様、お体の具合が優れぬのですか?」
(にょにょ!? ととしゃんしゃん! ぴっぴにゅー、ふぁぬーぜれこみにまんま?)
『なぁ……ヒラメちゃん……さっきからみんなが言うてる、ぴっぴにゅーって……ウチのこと? ウチ、ぴっぴにゅー?』
ももこは自身を指さし、首をかしげながら質問してみた。
「大僧正、邪神様が……」
(もりっこにゅー、ぴっぴにゅーに……)
「おお……こちらの言葉を……」
(いえぁ……さものぴぴぴ……)
『なぁ! ウチ、ぴっぴにゅー?』
「はい……その通りです。邪神様は邪神様でございます」
(いえぁ……ぴっぴにゅーにぴっぴにゅー)
『ちゃうっっっ!!!!!!』
ももこは椅子から勢いよく飛び降りた。
その表情は悲しみの色が見える。
『ウチももこやで! ヒラメちゃん、さっき呼んでくれたやんか! ぴっぴにゅーもかわええけど、ウチはももこ! も・も・こ!』
眉を吊り上げながら少し控えめに、ももこは大僧正に迫った。
しかし大僧正にとってはそれで十分すぎるほど効果があった。
ももこが一歩近づくたびに上体を反らし、ついには跪いてしまった。
『ヒラメちゃん! も・も・こ! ももこ! はいっ!』
「じゃ…………も、ももこ……様」
(ぴっ…………も、ももこ……にゅー)
ももこは大僧正の口から自分の名前を聞けたことで、満面の笑みで大きく何度も頷いた。
そして跪いたままの姿勢の大僧正の手を取って立たせた後、自分の隣の椅子に無理矢理座らせた。
『はい、ヒラメちゃんはここな!』
「邪神……い、いや、も、ももこ様、これは一体……」
(ぴっぴ……にょにょ……も、ももこにゅー、にょにょにょ……)
そして次に、ももこは大僧正のそばに控えていた白装束の腕をつかんだ。
「ひゃ、ひゃぁ! じゃ、邪神様!?」
(にょ、にょわぁ! ぴ、ぴっぴにゅー!?)
『んーーーーーーっっっっ!! ももこ! ももこ!』
ぴっぴにゅーという単語を聞いたももこは、あからさまに不機嫌さを表情に出す。
大きくほっぺを膨らませてみせたのだ。
「そ、そんな! 私ごときが邪神様のお名前を……」
(にょ、にょにょ! にゃんにゃ、ぴっぴにゅーににょま……)
『むうううううぅぅぅぅぅーーーーーー……お願い! ウチの名前を呼んで! ももこ! もーもーこ!!』
白装束は身体の中を電気が流れるような感覚に襲われた。
ももこの言うことに逆らってはいけないと脳が警報を鳴らす。
「ひっ……も、ももこ様……」
(には……も、ももこにゅー……)
『えへへーそやで、ももこやで』
ももこは大僧正にしたのと同じように、白装束に満面の笑みを見せた後、引いてやった椅子に白装束を座らせた。
そうしてももこは時間をかけて部屋中を駆け回り、全ての白装束たちに自分の名前を呼ばせた後で椅子に座らせて歩いたのだった。
もちろん相当時間を費やした。
大僧正を含め、白装束たちは唖然としている。
中にはももこの名前を口にして、嬉しさのあまり気を失いかけた者も数名いた。
ももこが元の席に戻った頃にはうっすらと汗ばんでおり、椅子の背もたれに脱いだカーディガンをかける。
そして座りなおしてパンと手を叩いて合掌し始めた。
大僧正はももこが何をしているのか分からず、その姿を見守るだけであった。
『いただきます!』
「な、なんだ……ももこ様は一体何を……?」
(にょにょ……ももこにゅーににょにょにょ……?)
ももこは大僧正に向けて、ものを食べるジェスチャーをして見せた。
そして手のひらを上に向けてヒラヒラさせて急かしている。
「だ、大僧正……じゃ……ももこ様はもしや……我々にも食べろと仰っているのでは……」
(も、もりっこにゅー……ぴっ……ももこにゅーに……にーにぺろにぴゃーぴゃにゅ……)
「ま、まさか! あ、ありえん……いや、しかしありえたとして、そのような不敬を……」
(にょにょ! のんの……にに、いえぁーだにに、ぱららんにちょま……)
『ほら! ヒラメちゃん! それにみんなもっ! はよ食べよ? みんなで食べようよ! ウチ一人だけで食べるん嫌や!』
「大僧正……」
(もりっこにゅー……)
「い、いや……だが……」
(の、のんの……にに……)
ももこは、先ほど皿に戻した肉が刺さったままのフォークを再び手に取った。
そしてそれを自分ではなく大僧正の方へ向ける。
「も、ももこ様!?」
(も、ももこにゅー!?)
『ヒラメちゃん、食べて! ほら! お願いやし一緒に食べよ!?』
ももこは肉を大僧正の口へ近づけていく。
「ももこ様、ももこ様、こ、これは、これ、あ、ああああああーーーー!!」
(ももこにゅー、ももこにゅー、に、にに、に、あ、ああああああーーーー!!)
ももこのお願いには誰も逆らえない。
直前まで口を固く結んで抵抗していた大僧正であったが魔法にかかったかのように身体が言う事を聞かない。
そしてももこの差し出した肉は、大僧正の口の中へ押し込まれてしまった。
「もぐ……も、ももこ様……もぐ……も……もぐ……もぐ」
(もぐ……も、ももこにゅー……もぐ……も……もぐ……もぐ)
はたはたと、大僧正の膝に落ちるもの。
それは涙の雫だった。
「あ……な、なみだが……あ、あ? あ、おいしい……おいち……おいしいナリいいいいいいいいいいいい!!!! はひいいいいい!!」
(に……き、きらり……あ、あ? あ、ちもしー……ちもし……ちもしっぴいいいいいいいいいいいい!!!! はひいいいいい!!)
「だ、大僧正!! お気を確かに!!」
(も、もりっこにゅー!! あたたみもも!!)
大粒の涙を零しながら、全身の力を奪われた大僧正は椅子からずり落ちた。しかしその間も咀嚼をやめようとはしない。
慌てて隣の白装束が大僧正の身を支えた。
『みんなも! 一緒に食べよう!』
「ももこ様……もしや我々にまでご一緒にと……?」
(も、ももこにゅー……たままにーにぺろにぴゃーぴゃにゅ……?)
『はい! みんな!』
「も、ももこ様……しゅき……しゅきナリぃ……はひぃ」
(も、ももこにゅー……ちゅ……ちゅっちゅ……はひぃ」
「大僧正! 大僧正! ……くっ、だめだ……あまりの幸福に気が動転なされている…………みんな、聞いてくれ!」
(もりっこにゅー! もりっこにゅー! ……の、のんの……とままにひーにちばばそーにゃ…………にまま、おーにゃ!)
大僧正の隣に座っていた白装束が立ち上がって、他の白装束たちに語り掛けた。
※しつこくなってきたので副音声はこの辺で中断いたします。
「ももこ様は恐らく、我々に食事をご一緒するようにと仰せだ……大僧正は……あまりの幸せに耐え兼ねて見ての通りだ……このような恐れ多いこと、いかな大僧正といえどこの有様……我々が同じことをすればどうなるか……」
白装束達がざわめきだした。
邪神教徒である白装束達からすれば邪神とはその名の通り神であり、象徴であり、崇拝してきた対象である。
名前を呼んだり席を同じにすることすら恐れ多いのに一緒に食事をするとなると気が引けるどころの騒ぎではない。
「それでも……ももこ様がお望みなのだ……幸せに耐えられるかどうかは分からないが……我々も大僧正の後を追おう……」
『みんなどうしたん? はよ食べよ? お料理冷めてまうで? な? な?』
白装束の中から一人、立ち上がるものがいた。
そしてももこの方へお辞儀をしてからフードを取る。
鼻に絆創膏をはりつけた青年であった。
「お、俺……いや、私は……も、ももこ様と食事をさせていただき……いただきま……う、うええええぇぇぇ」
最後まで言葉を紡ぎきる前に嗚咽を漏らしてしまう。
見かねて隣に座っていた白装束も立ち上がりフードを取った。
モヒカンで出っ歯の青年であった。
「バカ、泣く奴があるか! こんな、こんな幸せなこと、光栄なんだぞ! 俺も一緒に食べて……食べてやっから……食べ……う、うえええええぇぇぇ」
二人のやり取りを見て、白装束達の間からすすり泣く声がそこかしこから聞こえだした。
泣き声はやがて大きくなり、号泣するものまで現れた。
『は? え? み、みんなどうしたん? なんで泣いてるん? え、うちなんか悪いこと言うたかな……ご、ごめんなぁ?』
邪神と一緒に食事が出来る幸せと、恐れ多さ。その二つの感情の板挟みにあい、白装束達は震えて泣くことしかできなかったのだ。
しかし、その中でも何とか自分を保つことに成功したものがいた。
「みな、静かに!」
正気を取り戻した大僧正であった。
「取り乱してしまってすまなかった……皆の気持ち、痛いほど分かる……分かるぞ……」
「大僧正……!」
「ふえええええ……大僧正……!」
「私は! ……私はお前達の上に立つものだ! お前達が困難に立ち向かうときは、まずは率先して私が困難の前に立とう! いや、これは困難ではない! 大きすぎる幸せだ。その幸せの享受の仕方を、今から私が見せてやる!」
大僧正は自分の席に静かに腰を下ろした。
そして肉を切り分け、フォークで刺した。
フォークを持つ手が少し震えている。
白装束達が大僧正に注目していた。
「ももこ様、お食事をご一緒できる幸せに感謝しつつ、失礼してお先に頂きますぞ!」
フォークで刺した肉をちょいっと掲げて、大僧正はももこに笑顔で話しかけた。
その姿を見てももこも満面の笑みで頷き返す。
そして大僧正は、そのまま肉を頬張った。
「ほっ……うまいですなぁ……実にうまい……こんなうまい肉は……人生で……はじめて……だ」
涙が後から後から零れてくる。
絶品。
どんな高級な食材よりも、どんな料理人が調理した料理よりも、なお極上。
幸せの味。
大僧正は噛むごとに痺れる頭に何とか正気を保たせて喉を鳴らした。
「…………うまい……」
大僧正は気が付かなかった。
幸せを咀嚼することで精一杯だったのだ。気が付けるはずもない。
白装束達から歓声が沸き起こっていたのだ。
中には夢か現実かを確かめるために頬を抓り合っている者もいる。
「さすが大僧正! お見事です!」
「お前ら、大僧正に続けっっ!」
「ももこ様、万歳っっ!」
「お、お前達……よし、ももこ様のお望みだ! 全員で食べなさい!」
大僧正のその掛け声で、わっと会場が湧き上がった。
白装束達は涙を流しながら思い思いに食事を楽しんだ。
そしてその光景を見ながら、安心したももこも肉を一切れ頬張るのであった。
『ふまっ! このお肉、めっちゃおいしいわぁ……みんなも泣くほどおいしいんやなぁ……はぁーやっぱみんなで食べるとおいしいなぁ……よかったぁ』