アレスとサーシャの二人が館を去った後、邪神として召喚された少女は大僧正に恭しく手を引かれながら聖杯を降りた。
邪神復活の儀式を行った大部屋は中心に大きな聖杯が設けられている他は何もない部屋で、不気味な雰囲気を醸している。
少女は大僧正に手を引かれながら大部屋を出る。
屋敷一階へ続く階段も、広さはあるもののやはり石造りで、とても暗かった。
少女は連れて行かれる先に何が待ち受けているのか、恐怖で吐きそうになりながらも階段を登った。
しかし階段を登りきったとき、少女は目を疑った。
それまでの風景とは全く違う、かなり豪華で綺麗な部屋だった。
そこは屋敷の正面玄関であった。赤いカーペットが敷き詰められており、天井がとても高い。
大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっている。
玄関といえどかなりの広さがある。
屋敷の各部屋へ続く廊下や、少女の背後には二階へ上がる大きな階段が二本、曲線を描いて中央で交差している。
白装束の最後の一人が地下階段を登りきった後、大男を象った石像がスライドし、階段に蓋をしてしまった。
どうやら地下へ続く階段は隠し階段のようである。
そして再び歩き出し、二階へ続く階段に足をかけようとした際、大僧正は何かを思い出したかのように突然立ち止まり、手を離して少女の前に片膝をついた。
「おお、そうであった! 邪神様、そういえば名乗っておりませんでした。大変失礼致しました」
『え? こ、今度は何?』
片膝をついた大僧正はそのままの姿勢で少女に対して深々と頭を下げながら続ける。
「申し送れました。私、ヒラムェチャルと申します。この先、命が尽きるその瞬間まで邪神様にお仕えいたします。そもそも我が家系は代々この屋敷に住まわせていただき邪神様の復活に尽力してまいりました。今は私がこの邪神教で大僧正として──」
「大僧正……」
「なんだ? 今邪神様に自己紹介をしておるのだ。見れば分かるだろう? 後にしてくれないか」
「いえ、邪神様なのですが……言葉が通じないので大僧正のお言葉を全くご理解召されていないように見えますが」
大僧正に話しかけた白装束の言葉通り、少女はきょとんとした顔で大僧正を見下ろしていた。
「ぐっ……そ、そうか……邪神様との意思疎通が一番の課題だな。邪神様、私! 私です!」
大僧正は必死に自身の顔を指差して少女にアピールして見せた。
「ヒラムェチャル! ヒラムェチャル! どうか私のことはヒラムェチャルと名前で呼んでいただきたく──」
『……? あー……もしかして自己紹介してくれてるん? ヒラ……え、なんて? なんて言うてるん?』
「ヒラムェチャル!! ヒラムェチャル!!」
『ひらめ……ちゃん? おっちゃん、ヒラメちゃんゆうのん? ぷぷ、かわええ名前やね』
「おおぉ……邪神様が笑顔をお見せになられたぞ……!! なんと愛らしい……ちょっと、というかかなり発音は怪しいですがそうですぞ! ヒラムェチャルです!」
『うん、分かったよ! ヒラメ! ヒラメ!』
「ええ、ええ、もうその様にお呼びいただいて結構でございます。では参りましょうか、邪神さ……ま!?」
自己紹介も終わり、大僧正は簡単ではあるが意思疎通できたことに満足し立ち上がって先を急ごうとした。
しかし自身の白装束の裾を後ろから引っ張られ振り向かされる。
振り向いた視線の先で、少女が自身を指差しながら笑顔で喋りだした。
『ウチ、ももこっていうのん。ももこ。も・も・こ!』
どたっという音を立てながら、大僧正は後ろに倒れ派手に尻餅をついた。
傍に控える白装束達の中からもどよめきが巻き起こる。
「──っはぁ! はぁっ! ま、まさか邪神様のお、お、お名前!? 大切なお名前!? あ、愛くるしいお名前をお教えいただけるとは……な、なんという日だ……私はもう今日死んでもいいっ!」
「大僧正、お気持ちは分かりますがお気を確かに!!」
「おぉ……邪神様! 邪神様!!」
『え、なんて? ちゃうって! ももこ! もーもーこ! ヒラメちゃん、分かる? ウチももこやで』
ももこはなおも自身を指差してみせる。
大僧正の額から、汗が流れ落ちた。
「わ……私の勘違い……なのか……? じゃ、邪神様……そのジェスチャーは……まさか、まさかっ!?」
「大僧正! 私も大僧正と同じ考えです……まさか邪神様は、ご自身を名前で呼ぶことを許されているのではっ……!?」
「そ、そそそそそ、そんな不敬極まりないっっ! そんな、邪神様をお名前でお呼びするなど……」
「しかし、あの仕草はどう見ても……」
ももこが心配そうな表情を浮かべる。
自分を指していた指も、疲れてきたのか力なくゆっくりとなってしまっている。
『なー、やっぱ言葉通じてへん? ウチ……ももこやで? なぁ? ヒラメちゃん』
「大僧正! ここは我々を代表して……!」
「し、しかしだな──」
そのとき、白装束達の間から声が上がった。
「大僧正! お願いいたします!」
「邪神様に我々の想いを届けられるのは大僧正以外にありませぬ!」
「大僧正、どうか! どうか!」
「お、お前達……お前達! よしっ! 分かった!! このヒラムェチャル、お前達を代表して邪神様のお名前を呼ぼうではないかっ!」
大きな歓声が巻き起こった。
後方ではなぜだか胴上げをしている白装束もいる。
ももこはそんな様子を見て、何が起こっているのかとあたふたしてしまう。
「で、では邪神様……失礼いたします……も……も、も、もも、ももも……」
大僧正が再びももこの前に跪き、顔を赤くしながら一生懸命に言葉を紡ごうとしている。
先ほどの歓声はもはやなく、屋敷が静まり返っている。
白装束達も大僧正を固唾を飲みながら見守っているのだ。
「大僧正、がんばれ」
白装束の一人があげた応援の言葉が響く。
懸命にももこの名前を口にしようと頑張る大僧正を見て、つい出てしまった声であろう。
「も、も、も、もも、も、はぁっ、はぁっ! も、もも……うううぅぅぅ! やはりだめなのか!!」
「大僧正! 負けないで!」
「大僧正!」
「大僧正!!」
「お、お前達……」
「大僧正! 大僧正! 大僧正! 大僧正!」
ももこ。
たったそれだけの言葉なのに、口にすることが恐ろしい。
大僧正は今年で五十五歳になる。重ねた歳の分だけ色々な経験も積んできたし、人の上に立っているのだ。度胸も十分にある。今までも様々な難局を乗り越えてきたし自信もある。
そしてこれからも、自分は自分だけの力で生きていけると思っていた。
思っていたのだ。
しかし、邪神の名前を口にするという大役を前に心が折れかけていた。
もうだめかとあきらめかけたとき、部下である白装束たちの「大僧正コール」が大僧正を包んでいた。
大僧正の目に、再び輝きが戻った。
「す、すまん……お前達……」
「大僧正、頑張れっっ!」
「まだいけますよ、大僧正!」
「どこまでもついていきますよ! 大僧正!」
大僧正は胸の奥から熱い何かが湧き上がってくるのを感じた。
体が震える。
「すまん! お前達! 私の生きざまをとくと見ておけっっ! 邪神様っ!」
『?』
大僧正は再びももこへと向き直った。
名前を呼ぶ。ただそれだけの行為にここまで精神を削られる日がこようとは考えたこともなかった。
大僧正は両目を閉じ、一旦精神を落ち着かせることにする。
その様子を見て、それまで応援していた白装束たちも静かになっていく。
「も……も……ももこ……ももこ様……」
言った。
とうとう言った。
大僧正は意識を失いそうになり、倒れかけ四つん這いになった。
ももこ。
ももこ。
心の中で反芻するだけでこんなにも暖かい気持ちになるのか。
そして大僧正は気付く。
正面玄関が大歓声に包まれていることに。
「言った! 言ったぞ! さすがは我らが大僧正だ!」
「おい、聞いたか? 聞いたよな? おい、おい! おいーーーーっっ!!!!」
白装束たちが大僧正の偉業を褒めたたえ、そして喜んでいる。
中には酒を浴びせ合っている者もいた。
「お前達……ありがと──」
『ヒラメちゃん』
鈴を転がしたようなももこの声。
白装束たちの動きがピタリと止まった。
再び沈黙が訪れた。
その場にいる全員が、ももこの言葉に耳を傾けているのだ。
「い、今私の名を……? は! な、何でございましょうか! 邪神様!!」
名前を呼んだことで、もしかしたら邪神であるももこに殺されてしまうかもしれないという考えが大僧正の頭をよぎった。
そもそも、ももこが名前を呼ばれたがっているというのは大僧正の推測でしかないのだ。
しかし悔いはない。
このままももこに消されてしまってもいいと、大僧正がそう考えていた時であった。
『えへへ。やっと呼んでくれた。言葉は通じひんけど、名前が分かってよかったわぁ。ありがとうな、ヒラメちゃん』
少しはにかみながら、ももこは笑顔で答えた。八重歯が覗いている。
大僧正には眩しくて何が何だか分からなかった。
言葉は分からなくとも充分であった。
大僧正にとって、ももこのその笑顔が眩しすぎたのだ。
「きゅーーーーーーーーーーーーーん! キュンキュンキュン!」
「大僧正!」
「大僧正っっ! お気を確かにっ! 大僧正!」
「じゃ……邪神しゃま……きゃわ、きゃわわ……しゅき……しゅきナリィ……」
「い、いかん! 大僧正がっ」
『え、え、ヒラメちゃんどうしたん!? な、なんで? なんか病気なん!?』
大僧正が正気を取り戻すのにそれから十分程かかったという。