それはまるで、中が透けて見える卵のような形をしていた。
殻の変わりに卵形を模る薄い皮膜には無数の血管が浮きあがっている。
大人が入れるほどに大きく、そして血管とは別に、それ自体も脈打っていた。
石造りの大きな聖杯の中に、それは設置されていた。
聖杯からは無数の管が垂れ下がり、地面についたそれらは放射状に伸びている。
大勢の白装束を着た人間達が、聖杯を中心にして取り囲んでいた。
そして地面にひれ伏し、呪文のような言葉を口にしている。
大きな町から離れた森の中に建つ屋敷。
屋敷の地下にある大部屋で儀式は行われていた。
そして大部屋の入り口では、儀式の様子を一組の男女が顔をしかめて覗き見していた。
「あきれた連中……本当にやってるわ。邪神復活って……そんなものただの昔話で存在するわけないじゃない……」
「早く行こう、サーシャ! 邪神復活なんて絶対させちゃいけないっ! 阻止しなきゃ!」
「はぁ……馬鹿馬鹿しい。あなたも大概にしなさいよ? 見なさいアレス。あいつらただの狂信者でしょうに。あなた、本の読みすぎじゃない?」
身軽そうな白銀の軽鎧に身を包んだ女性、サーシャはうんざりとした表情で白装束の人間達を親指で指した。
白装束の男達は石畳に頭を擦りつけながらブツブツと何かを呟き続けている。
目の焦点が合っていない者もいる。
「いやしかし、邪神は本当にいたと我が家に伝わる書物に……」
「はいはい、もしそうであってもまずは戻って報告するべきよ。団長の命令は本当に儀式が行われてるか調査してこい、だったでしょう? ……天子様からの勅命らしいけど、みんなどうかしてるんじゃないかしら」
「サーシャ、天子様の悪口はやめておけよ。天帝様も天子様も、庶民の噂話まで全部把握なされているって──」
「あー、はいはいはいはい。分かったからもう行くわよ」
「あ、ちょ、サーシャ!」
黒色の軽鎧を装備している男性、アレスは、踵を返して帰ろうとするサーシャの背中と白装束の人間達を交互に見ながらもその場を動けずにいた。
仕方がなくアレスがサーシャの後を追おうとしたとき、大部屋の中が騒がしくなった。
「おお、復活なされるぞ!」
「邪神様がこの世界を滅ぼしに降臨される!」
地上に続く階段を上っていたサーシャが急いでアレスの元へ引き返してきた。
その表情はニヤニヤと、なぜかとても嬉しそうであった。
「なになに? 邪神、復活するの?」
「サーシャ……ああ、そうみたいだな……手遅れだ。どうする?」
「折角ここまで来たのに手ぶらで帰るのもつまんなかったのよ。奴らが言う邪神様ってのを一目見てから帰りたいわ」
「あのなサーシャ、本によると邪神は復活してから徐々に武力で世界を混沌に陥れ、とある国を一日でほろ──」
「しっ! 復活するみたいよ!」
大部屋の中央に置かれた大きな聖杯に、全員が身を起こして注目していた。
最後に大きく脈打ってから沈黙を守っている。
誰かの「あ」という小さな声が聞こえた。
卵を模っていた皮膜が縦に割れ、そこから茶色みがかった液が滝のように溢れ出した。
液はすぐさま聖杯を満たし石畳に零れだす。
液が抜け切り、皮膜はしぼむ。
そして聖杯の上には人影が残されていた。
「え……! あの中に誰か入ってたの!?」
「違う! 邪神の復活に成功したんだ!! サーシャ、今からでも遅くない、邪神を倒そう!」
「ちょ、ちょっと、アレス……あれ、女の子じゃない……あれが邪神だって言うの?」
アレスはサーシャにそう言われ、もう一度聖杯にいる人影を凝視した。
確かにそこには裸の少女がぼんやりとした表情で座っていた。
十二歳くらいであろうか。
幼さがはっきりと残る可愛らしい顔立ちに、赤みがかった髪。前髪は右半分だけが切りそろえられているが、癖毛なのか左半分が跳ねてしまっている。
癖毛で跳ねてしまっているのは前髪だけではない。肩にかかるか、かからないか位の長さの後ろ髪も外にちょんちょんと跳ねている。
とても大きくてくりくりとした黒目が特徴の少女であった。
『あ……あれ……ウチ……なにしとったんやったっけ……あれ?』
「邪神様、復活おめでとうございます」
寝起きのような表情の少女に、白装束の中の一人が被っていたフードを脱ぎながら近付き手を差し伸べた。
それなりに歳を重ねた男性である。
「ささ、どうぞこちらへ。お召し物も用意しております」
『…………ほぇ……あ? あれ? ここ、どこ? お、おっちゃん誰なん?』
「邪神様? そうか、やはり文献にあったとおり言葉が通じないか。本物だな……誰か邪神語の本を持ってきてくれ!」
『なに? あの、すんません、ここってどこなんです? 映画の撮影とかですか? ……って、うわーーーーーーーーーーーーー!! ウ、ウチ、裸やんかっっ! え、え、え、う、嘘やん!! なんで!? もしかして誘拐されたん!?』
「翻訳本をお持ちしました!」
「よし……確かイングリッシュとか言う言葉だったな。この本が役に立つときが来るとは……益々本物の邪神様だな。邪神様、あー、えー……ウェルカモ! ウェルカモ!」
男は本を片手に、努めて笑顔で少女に話しかけた。
少女は自身が服を着ていないことに気が付き、腕で胸や局部を隠しながら丸まった姿勢になっていた。
『な、なんなん!? ち、近寄らんといて! 一体何言うてるん? ほんま、どこなんここっ!』
「ウェルカモ! ウェルカモ! サンキューベリマッチ!」
『え……サンキューて……もしかして英語? え、ウチ英語分かれへん……ちょ、おっちゃん!! 近寄らんといてって! いやーーーーーーーー!!』
「……全然通じませんね、大僧正」
「うーーーむ……参ったな……邪神様のお言葉が分からぬことには……相当混乱なされているご様子。この分では迂闊に近寄れば殺されかねんな……」
少女は混乱が極まり、とうとう泣き出してしまった。
白装束達は全員が戸惑いながらその様子を見ることしかできないでいる。
「大僧正、もしかして邪神様は恥ずかしがっておいでではないでしょうか? 記録にある邪神様は金髪の大男だったと記載がありますが、このような少女のお姿で復活なされたので混乱されているのでは?」
「おお、確かにそなたの言うことにも一理あるな。誰か、邪神様のお召し物をここに持ってきてくれ!」
大僧正と呼ばれた男の一声で、白装束達がパタパタとあわただしく動き始めた。
邪神復活のために、文献を参考にした衣装が既に用意してあったため、衣装はすぐにやってきた。
「邪神様、こちらお召し物です……少し、大きすぎ……ますか?」
『ひっ! ……え、あ、服? なんなん? くれるん? あんたらがウチを裸にしたんとちゃうん……? ……も、もろとくわ……ありがとう……』
少女は大僧正から漆黒の衣装を受け取り、広げて確認をしてみた。
『な……これ、ちょっとでかすぎひん!? 男もんやんか……ほ、ほんまにこれしかないの? ウチ、これよりもみんなが着とる白いやつのほうがええんやけど』
言葉の通じない大僧正は、心配そうな表情で少し離れた場所から少女の様子を伺っているだけである。
『あかーん……どないしよ……ほんまに言葉が通じひんわ……うううううぅ……しゃぁないなぁもう……裸よりマシや』
少女は仕方がなく衣装に袖を通す。
少女の言う通り、用意された衣装は男性のもので、長袖のTシャツであった。
渡された衣装の中にズボンもあったが、どう考えても腰回りが二倍以上ある。
Tシャツの裾が太ももの下、膝上まできてしまっている。
一応、下が隠れることは隠れる。
少女は嫌々ながら、ズボンをあきらめることにした。
『ん……まぁ、ないよりは全然ましかぁ……って……うわぁ、何この服ぅ……だっさ……』
漆黒のTシャツの真ん中には漢字で「邪神」と白字で刺繍してあった。
少女は気付いていないが、背中には「一心太助」と刺繍してある。
漢字は日本人が見れば、読めはするが不安になるような形をしており、まさに外国人が好きそうなTシャツであった。
「おお……文献通りのお姿……ではないな。まさか少女のお姿で復活なされるとは思いませんでしたぞ。では邪神様、お食事をご用意しておりますのでこちらへどうぞ」
大僧正は再び少女に手を伸ばした。
服を貰ったことで、大僧正に敵意はないのではと信じ始めた少女はその手を掴もうとした。
その時であった。
「その儀式、ちょっと待ったぁーーーー!!」
白装束たちをかき分けて、アレスとサーシャの二人が少女めがけて真っ直ぐ走って来たのであった。
「な、なんだお前らは!?」
「ふん、馬鹿じゃないの。わざわざ名乗ると思ってるの? そんなことよりも、その子を渡してもらうわ」
「お、おい! サーシャ、話が違うぞ? 邪神は倒さなければならないぞ!」
サーシャは無防備に自分の名前を呼んだアレスをキッと睨みつけた。
「あなたが名前を呼んだら名乗らなかった意味がなくなるでしょ! もう……じゃあなによ、あなた、あの子を殺せるの?」
サーシャは親指を立てて指さした。
突然の乱入者に何が起こっているのか分からずに、聖杯の上できょとんとした顔を少女がそこにいた。
「…………ぐっ……し、しかし……邪神は恐ろしいんだぞ? 邪神の言葉には力が宿っていて逆らうことができないんだ! さらに邪神は異界の知識で様々な道具を作り出し、国を滅ぼしたと──」
「す、素晴らしい! 少年よ、なぜそれを知っている!」
アレスの言葉に大僧正が興奮気味に反応した。
無防備に剣を構えるアレスに歩み寄り目を輝かせながらアレスの手を取った。
あまりの無邪気さに、アレスは剣を落としてしまった。
「あ、いや、うちの家に古くから伝わる書物に邪神の記録があって……そこに書かれていました」
「なんとそうであったか! その本、ぜひ拝読させていただきたい。いや、君も邪神教に入らんか? そうだな、そうしたまえ! 一緒に邪神様に仕えようではないか」
「いや、俺は邪神の復活を阻止しにきたんだ! そんな、それが邪神に仕えるだなんて……」
アレスは少女の方へ視線をやった。
相変わらずきょとんとしたままの表情であるが、それは自分よりも少し年下の、あどけなさがしっかりと残った女性の表情だ。
本当にこの子が邪神か、という疑念がアレスの内に沸き起こる。
「ふふ、少年よ。邪神様のお力はそれだけではないぞ? この館にもちょっとした秘密があるのだ」
「え、な、なんだって?」
「邪神教に入って、その書物を持ってきてくれたら教えてやろうではないか」
「そ、それは……えっと……」
『け、喧嘩してるん?』
アレスの肩が跳ね上がった。
邪神語の意味は分からないが、鈴を転がしたような少女の声が脳に刺さる。
『おっちゃんら、どうしたん? こ、怖いから喧嘩せんとってーな? お願いやし仲良くして? 平和に、平和に、らぶあんどぴーす、ちゅっ! やで? ね? ね?』
少女の声を聞いた途端、アレスと大僧正の身体が抗えない力によって硬直する。
二人は向き合ったまま見つめ合う。
アレスは自分の意思に反して思ってもいない言葉を発してしまった。
「あ……あ、愛……」
「え、何言ってんのよ、アレス?」
「愛……愛なんだ……愛!」
大僧正のほうを見つめながら強く言い切ったアレス。大僧正はその視線を受け止めて言葉を返した。
「平和! 尊い平和!」
二人はどちらともなく歩み寄り、そして強く抱きしめあった。
軽くフレンチキスを挟む。
「…………はっ! ぶぇっ! ぺっ! ぺっ! おえっ! お、俺は一体何を……!?」
「アレス……あなた……」
「い、いや、サーシャ、違うんだ! こ、これは……これは俺の意思じゃない! 身体が勝手に……」
「ふふふ……ははは! 素晴らしい! これぞまさしく邪神様のお力! 邪神様のお言葉には誰も逆らえないのだよ、少年。ぺろっ」
アレスはよたよたと後ずさりながら袖で激しく唇を拭った。
「こ、今回は一旦引こう……サーシャ!」
「……ええ……っていうか私、もうアレスとコンビを組みたくないわ」
「誤解だ! 行くぞ!」
アレスは再度、少女の方へ視線を送った。
視界の端に映る大僧正の笑顔に背筋が凍る思いだ。
「邪神……本物か」
「おお、少年よ。書物を取りに戻る決心をしたか?」
「違うっ! 戻って報告して、必ず邪神を……と、捕らえるんだ!」
「ほぉう……そうかそうか。誰に報告するかは聞かずにいてやろう……邪神様には誰も手は出せんからな。ふふふ」
アレスは踵を返し走り出した。
サーシャも急いでそのあとを追う。
そして大部屋の入り口の前でピタリと止まったアレスは振り返り、大僧正に向けて叫んだ。
「いいか、必ず戻ってくるぞ!? そして世界のために邪神を倒す! 絶対だ!」
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよアレス!」
「はっはっは! いつでも待っておるぞぉ~!」
「くそっっ!」
アレスとサーシャの二人はそのまま階段を駆け上がり、館を後にしたのであった。
「大僧正、よろしいのですか?」
「ふん……この剣、聖天騎士団の紋章か……ふふ」
大僧正はアレスが残した剣を拾い上げ、つぶさに観察していた。
剣には鷲の紋章が刻んであった。
『はっ──くちゅ!』
「おおっと、いかんいかん。誰か邪神様に羽織るものをご用意して差し上げなさい。このままでは邪神様がお風邪を召されてしまう。それに食事も温めなおすのだ!」
『くちゅ! ずず……ほ、ほんま……ここってどこなん……ウチ、おうち帰りたい……』
邪神伝説。
今から三百年ほど前、この世界に邪神が誕生した。
異界から降り立った邪神は言葉の魔力を使い、人々を次々と手籠めにしたという。
さらに恐ろしいことに邪神は、異界の知識により様々な兵器を作り上げたという。
そうして一つの国を焼き尽くし、滅ぼした。
そう、伝説には記されている。
この物語は再び復活を果たした邪神と崇められる、異世界転生をしてしまった心優しい少女ももこのお話である。
『くちゅっ!』